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本は『明かされた秘密』というタイトルがつけられ、シャスタ山の出会いから四年後の1934年に自費出版された。著者はゴッドフレイ・レイ・キングとされたが、ペンネームである。バラードはその名をスピリチュアルなアイデンティティーとみなした。
カリフォルニアで二年間過ごしたあと、シカゴの自宅に戻り、エドナと再合流した。バラードは黄金を探していた。かわりに彼はおなじくらいに不確かな試みをしていたのである。彼はエドナとともに新しい宗教を、とまでは言わないまでも、いわばニューエイジ運動を立ち上げることにした。そして『明かされた秘密』はその根本的なテキストとなるのである。
ガイ・バラードとエドナ夫婦にとってニューエイジは新しいものではなかった。何年もの間、彼らはスピリチュアリズムや神智学に興味を持ってきた。そしていくつもの神秘主義グループに属してきた。ふたりとも降霊会を実践し、精神世界と接触してきた。エドナは「哲学者の隅」という本屋で働いていた。そこで彼女は形而上学的なテーマのクラスを受け持っていた。そして「アメリカのオカルティスト」という定期刊行物の編集をしていた。そしてハープ演奏者でもあった。
「I AM運動」(その名でこの活動は有名になった)のスタートはつつましやかなものだった。バラード夫妻はシカゴの家のリビングルームで授業を持っていた。秘密厳守を誓った10人の生徒が通った。彼らは「I AM」の基本的概念を教えられた。そしてサンジェルマンからのメッセージが大きな声で読み上げられた。生徒たちはまた『明かされた秘密』を買った。
『明かされた秘密』は「I AM」の入り口だった。イントロダクションでバラードはこの本がなぜ書かれることになったかを説明している。
この本はそびえたつ雄大なるシャスタ山の麓で書かれた。その山頂は「永遠の光」を象徴する純白の輝く万年雪をまとっている。各ページには、私がどのようにして、人類を助けることに労をいとわなかったか、そして平和、愛、光、永遠なる完全をめざして戦った愛すべきマスター、サンジェルマンやほかの「偉大なるアセンデッド・マスターたち」と接することになったかが記されている。
バラードはその内容を東洋の智慧と関連づけている。
時はやってきた。極東において長い間<光>を保ち、守ってきた<大いなる智慧>がいま、この人類に内なる<光>を広げるべく命じ、守り、助けてきた<大いなるアセンデッド・マスターたち>の指揮のもと、アメリカに芽生えようとしている。
そして彼はこの本がいかに重要であるか説明する。
ここに記された<真実>を受け入れた人々は、彼らの生命に入ってくる新しい、圧倒的な<力>を見つけるだろう。刊行された本それぞれが<力強い存在>、<放射される輝き>、維持される<パワー>をもたらすだろう。素直な心で、深く、誠実に、粘り強く、ページごとに内容を学んだ人すべてが、<存在とパワーのリアリティ>を知り、接することになるだろう。
こうした最初の講義は1934年の夏に開かれた。このあとすぐにバラード夫妻は列車でフィラデルフィアへ向かった。ここには幻滅を感じた政治的に極端なニュー・エイジ・グループ、ペリー主義者(ファシズムを信奉する心霊主義者ウィリアム・ダドリー・ペリーを信仰する者たち)の連中がいた。夫妻はおなじ講義をするべくおよそ30人の人々を集めた。彼らのメッセージを受け入れる聴衆を見いだしたのである。最後のセッションの頃には聴衆は150人に達していた。
「I AM運動」はついに船出の時を迎えた。バラード夫妻はクラスを率いてフィラデルフィアを出発し、ニューヨークへと向かった。それからボストン、ワシントン、マイアミへと移動した。彼らは自動車を利用するようになった。そして各地に到着するとホールを借りて講義をおこなった。生徒たちは『明かされた秘密』を購入し、アセンデッド・マスターたちの智慧を吸収した。そして籠の中に「愛の贈り物」を置いた。
バラード夫妻は講義で自分たちをゴッドフレイ・レイ・キングとロータス・レイ・キングと自己紹介した。彼らは<アセンデッド・マスターたちの認定されたメッセンジャー>であり、夫妻はマスターたちと人類の間で仲介を務めていると発表した。彼らはアメリカを<黄金の時代>へと導くために選ばれたのだった。彼らのミッションは、アセンデッド・マスターたちの教えについて述べることだった。教えはアストラル界から発せられたものだった。
古いフォードに十代の息子とマネージャーを押し込み、ガイとエドナは南部へもツアーに出た。しかし聖書地帯では、神秘主義の甘言は受け入れられなかった。「I AM運動」が本当にはじまるのは、ニュー・エイジの牙城ロサンジェルスに着いてからのことだった。
ロサンジェルスの講義はスタートから成功だった。真実探求者の群衆は(興味本位の者も含めて)「I AM」がどういうものなのか知りたがった。1935年の春と夏、聴衆を受け入れるためにより大きなホールを見つけなくてはならなくなった。最終的に彼らは6千席を擁するシュライン・シビック・オーディトリウムを借りた。シュラインはI AMセンターとなり、ここで年二回大集会が開かれるようになった。
「I AM運動」はすぐに全国的な現象――熱狂と言ってもいいだろう――となった。夏の間ずっとバラード夫妻は西海岸をまわり、住宅地で講演活動をした。ロサンジェルスの成功そのものが広報の役割を果たした。そしてまもなくして彼らは東へ戻り、さまざまな都市で活動をつづけた。運動が大きくなるに従い、彼らは訪れた都市に「I AMサンクチュアリー(聖域)」を創設し、それぞれの地元の研究グループのリーダーを指名した。
そもそもバラードのレクチャーはシンプルで、核心を突くものだった。ガイとエドナは簡素な服を着て、つつましやかな雰囲気を作り出し、基礎的な段階からレクチャーした。しかし次第に進んでいくとより複雑になり、劇的になった。よりエキサイティングといってもいいだろう。典型的なバラード夫妻の夜のレクチャーはつぎのようなものだった。
新聞の広告や口伝に引き寄せられ、有望な生徒たちが下町のホールにつめかけた。入場料は無料だった。微笑みを浮かべた白服の案内人たちが彼らを座席まで案内した。席が埋まる頃には期待がどよめきとなってホールの中を支配した。
ステージがパッと明るくなった。そこには演台、マイク、サンジェルマンとイエスの肖像、アメリカの国旗、ピアノ、ハープが置かれていた。背景に輝かしく描かれているのはI AM運動のエンブレムだった。すなわち魔術的存在の図である。聖なる人物からはハロー(後光)と光線が放射されていた。人物の下には覚醒の光線に打たれた人間が描かれていた。
室内の照明は薄暗かった。ピアニストがピアノの前に坐った。聴衆は静まり返った、あたかも演奏が始まるかのように。
儀式のマスターがステージ上に現れ、聴衆全員に向かって歓迎の意を表した。彼はバラード夫妻が受け取った数々の称賛の電報を読み上げた。そして夫婦がいかにすばらしいか熱をこめて話した。また歌手を紹介した。歌手は心を奮い立たせる祝いの歌を歌った。
ピアニストが曲を弾きはじめると、勝利の雰囲気が場内を支配した。そしてガイ・バラードが――あるいはゴッドフレイ・レイ・キングとして紹介された彼が――現れた。というよりスタンディングオベーションによってステージの上に押し上げられた。フォーマルな白のスーツを着て、青いサテンの肩マントをつけたバラードはのちのテレビ伝道師の先駆者だった。シャツにはダイヤモンドのピンが光っていた。彼はのっぽで、やせていて、背筋がピンと伸びていた。グレイの髪はオールバックにしていた。彼は一礼すると、話しはじめた。
バラードはその熟練した弁士のようななめらかな口調で聴衆を魅了した。彼は「屈強なI AMの存在」について論じ、アセンデッド・マスターについて語り、サンジェルマンとの出会いを描いた。「屈強なI AMの存在」は健康、富、幸福の鍵となると、彼は宣言した。アセンデッド・マスターたちはその智慧をわれわれに教えたがっている。そしてバラード夫妻は認定されたメッセンジャーであると告げた。サンジェルマンはアセンデッド・マスターたちのなかでももっとも賢明なる人物である。そして病気を癒す力を持っていると彼は言った。
最後に彼はロータス・レイ・キングを紹介した。
エドナの登場はより劇的だった。リボンに縁取られた青いシルクのガウンを着て彼女はオペラのディーヴァのようにステージに上がった。スポットライフが彼女のあとを追い、ピアニストが鍵盤を激しく叩くと、勝利の雰囲気が醸し出された。熱狂的な拍手に迎えられ、エドナは高貴な優しさを含んだほほえみを返した。彼女の灰色の髪は入念に束ねられていた。ダイヤモンドのティアラが宝石の指輪やネックレスとともにスポットライトを浴びてきらきら輝いていた。
エドナがいまガイからバトンを引き継いでいた。彼女の声はややかんだかかったが、そもそもI AM運動の<貴婦人>なるものにスムーズさが欠けていたのは、彼女が無理やり作り上げていたからだった。命令口調で彼女はアセンデッド・マスターたちからのメッセージを伝えた。彼女は聴衆に「教条」を大声で読み上げさせた。それはマスターたちへの儀礼的なアピールだった。(これには共産主義絶滅の嘆願も含まれていた。なぜなら霊魂の存在の否定は人間性を脅かしたからである。またI AM運動の敵に対する激しい批判も含まれた)そして彼女は聖なるものへの同調の宣言を「確約」した。(これらは祝福を引き出すために意図された)彼女はアメリカの偉大さと愛国主義の美徳について語った。彼女はみなにアセンデッド・マスターたちの智慧を学ぶよう促した。それから彼女はハープのあるところに坐り、ハープをつまびいた。
夜にはアセンデッド・マスターとのチャネリングもおこなわれた。ガイの声は深まり、目は閉じられた。そして彼を通して偉大なるエルキュールが語った。そのあと聴衆たちは落胆しなければならなかった。愛の贈り物をかごに入れて去らなければならなかったからだ。
ロビーを通過するとき、彼らはさまざまな商品を見せられた。テーブルの上に並べられたのは、バラード夫妻の著作(点字版もあった)、サンジェルマンの肖像、魔術的存在の図表、エドナのハープ演奏の録音、I AMの指輪とピン、ニューエイジ・コールドクリームの壺、それにI AM雑誌だった。
レクチャーによって何万人ものアメリカ人がI AM運動の基本的なことを知ることになった。もっと学びたい人は、地元のサンクチュアリーで開かれる研究グループに参加することができた。1939年までには、I AM運動はニューエイジ運動のなかでもっとも人気あるものとなっていた。同時にもっとも物議をかもしたものでもあったが。