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「アメイジング・ストーリーズ」誌の創刊号は1926年3月に発行された。(ガーンズバックはほとんどがサイエンティフィック・フィクションから成るサイエンス&インベンション版を試験的に発行した) 安い紙を使い、表紙だけけばけばしい雑誌はニューススタンドをにぎわすほかのパルプマガジンとよく似ていた。しかしそのターゲットは特別な読者層だった。すなわち「ラジオ狂」とその他科学やテクノロジーに興味を持っている人々である。(しだいに冒険ファンタジーが好きな読者を惹きつけていった)
編集者は、アメイジング・ストーリーズ誌は「科学的事実と予言的ヴィジョンがないまぜになった魅力的なロマンス」を提供すると宣言した。創刊号に掲載された物語はすべて初出ではなかった。これらはH・G・ウェルズ、ジュール・ヴェルヌ、エドガー・アラン・ポーらが書いた文章だった。しかしその後刊行されるごとにオリジナルの素材が増えていった。編集者はテクノロジー関連の出版物をすでに編集していた年長の化学者であるT・オコナー・スローンだった。
アメイジング・ストーリーズ誌は成功を収めた。発行部数はすぐに10万部を超えた。しかし1929年、ガーンズバックは印刷業者と製紙会社から訴えられ(おそらくライバルの出版人バーナー・マクファデンの陰謀)、破産に追い込まれてしまったのである。管財人の管理下に置かれながらも、アメイジング・ストーリーズやその他の雑誌は発行されつづけた。編集ディレクターとしての職を解かれたガーンズバックを除く編集スタッフは、編集部に残ることができた。そして二年後、ガーンズバックの雑誌はマクファデン・パブリケーションズに買収された。
T・オコナー・スローンの編集のもと、アメイジング・ストーリーズ誌はなんとか破産しないで存続した。しかしいまやほかのサイエンス・フィクション雑誌との激しい競争にさらされることになった。そしてガーンズバックの手から離れたアメイジング・ストーリーズ誌は質の低下を余儀なくされる。それは隔月誌となり、1938年には発行部数1万5千部にまで落ち込み、ついにはシカゴのジフ・デーヴィス社に身売りすることになったのである。
ジフ・デーヴィスはより若い編集者を探していた。(スローンは90歳になろうとしていた) そしてあらたに雇われたのが29歳のレイ・パーマーだった。彼はアメイジング・ストーリーズ誌に寄稿していた作家であり、SFファン・コミュニティで積極的に活動していた。
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