(15)
1977年の死に至るまで、レイ・パーマーは出版人として、編集者として活動的だった。彼はまた量産型の作家でもあった。彼のタイプライターからは生き生きとした編集記が流れるように生まれた。投書に対する返答も(ときにはかなりの長文になった)彼は出版した。記事を書き直すこともあった。彼の家族にとってタイプライターのカチャカチャという音がやむことはなかった。(小説を23時間で書き上げたと主張した) パーマーは人生の間に3万語を生み出したと自慢した。
彼の文体は元気いっぱいで、気取ったところがなかった。彼の雑誌は臆面もなくセンセーショナルをうたった。かれらは神秘的な生き物をレポートし、パラノーマルを探索し、独特の理論――空飛ぶ円盤や地球空洞説、政府の陰謀について――を推進した。彼は熱狂するものに対しては誠実だった。同時に彼は文学におけるショーマンシップの持ち主だった。いわば出版界におけるP・T・バーナムだった。
パーマーは論争に火をつけるのが好きだった。「レイ・パーマーとは何者か」と題された記事でマーティン・ガードナーは彼を一種のトリックスターとみなしている。
パーマーは、地球の両極に穴があいているという彼の主張に対し、異議を唱える読者からの膨大な数の投書を掲載した。その一部はパーマー自身が書いたものであったが。あなたは彼の賢明な回答を読みさえすればよろしい。雑誌の写真は彼が風変わりな小男であることを示している。まるで彼より大きなプロレスラーたちから蹴りをいれられているかのように、彼は自嘲している。
ガードナーはパーマーが誠実な人間であるかどうか、疑っている。
40年代、シカゴに住んでいた頃、私は何度かレイと会ったことがある。また彼をよく知っているたくさんの人とも会った。彼はシャイで、親切で、性格がよく、おとなしく、エネルギッシュな小男という印象をわれわれは持った。ただしプロフェッショナルな詐欺師的アーティストという一面を持ち合わせていたが。彼は尽きないペテンを楽しんでいるようだった。しかし私が考えるに、騒ぎをつくり出す彼の目的は、シンプルに、雑誌を売ることだった。
彼をよく知っている人間のひとりは編集アシスタントだった。インタビューのなかでハワード・ブラウンは彼のボスの激しい気性について語っている。
彼は肉体的に奇形であることを補うために、自分が一人前の人間であることを見せようとしました。もし彼をさげすもうとするなら、彼は不愉快に思い、あなたは彼のまわりからある一定期間、一か月か、永久か、排除されるでしょう。でも彼には思いやりがありました。もしあなたがお金を必要としているなら、彼は面倒を見てくれるでしょう。そんな場合彼はジフ・デーヴィス社の金庫からお金を持ってきました。それは彼が稼いだお金だったのです。
そしてブラウンは彼を指導者として称賛した。
どう書くかについて彼はよく指導してくれました。パルプマガジンにどういうものを書くか彼は知っていたし、新しくやってきた人々に教えるにあたって彼は驚くべき成果をあげていたのです。私はレイからたくさんのことを学びました。私が学んだもののなかでもっとも重要なことは、読者をあきさせるな、でした。
レイ・パーマーがモットーを持っているとしたら、このことだっただろう。アメイジング・ストーリーズ誌の編集者としての最初の日々から、出版人としての最後の数年まで、読者をあきさせるな、を念じてきたのだ。
⇒ つぎ(16)