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 1945年までにシーグマイスターはフロリダに戻っていた。この年、彼は秘書を雇った。ジャクソンビルから来たベジタリアン、ガイ・ハーウッドである。彼に与えられた仕事は、学習コースの印刷と郵送だった――シーグマイスターは郵便物を送ることを禁じられていたが。郵便物の主がだれかわからないようにするために、秘書はシーグマイスターがラビのような姿をした人物だと説明している。すなわち全身黒い衣装で包み、帽子をかぶり、長い髪を垂らし、ひげだらけの人物だと。

 この時期はあきらかに、彼はロリダの自分の地所で暮らしていた。しかし彼がふたたび動き始めるまでそう長くはなかった。ハーウッドは突然の出発について書いている。

 

 博士の弁護士は彼に、政府の捜査官が彼を探していると告げました。すると彼は避難テントをつかむと、家の近くの森に入り、二日か三日そこにいて、国を脱出したのです。レイモンド・バーナードの名で彼はまずメキシコへ行き、それから中南米へ足を伸ばしました。アメリカを出てから、彼の興味は栄養学および若返りから、哲学的なものへと完全にシフトしたのです。(デニス・クレンショーへの手紙より)

 

 実際のところ、彼はまずカリフォルニアのモロンゴ・バレーへと向かったように思われる(ジョニー・ロベウィズダムはそこでしばらく参加した)。彼は健康食品を扱い、『食べている食品であなたは毒されている?』や『スーパー有機食品でスーパー・ヘルス』などを含む小冊子を発行した。差し止め条令のことを(そして彼を探している郵政当局の動向を)気にして彼は出版物に自分の名前が入らないように気をつけた。かわりのクレジットはA. B.M. A.Ph.D. ロバート・レイモンド博士だった。

 そして彷徨がまたはじまった。つぎの八年間に彼はハワイ、プエルトリコ、グアテマラなどに住んだ。グアテマラでは彼はA. B.M. A.Ph.D.ウリエル・アドリアーナ博士として執筆した。そしてコロニーを創設しようとしたが、うまくいかなかった。

 

 


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