中国西南少数民族地帯をゆく(2)

宮本神酒男

シーサンパンナ症候群

 最近の尖閣諸島問題に端を発した日中関係の悪化で、中国に対する印象は非常に悪くなっています。報道だけ見ていると、中国人はみな傲慢で反日感情を強く持っているかのような気さえしてきます。

 しかし雲南だけは中国のほかの地域と違う。日本人旅行者や留学生は口々に「雲南の人々は中国人なのにとても人がいい。少数民族だけでなく、漢族もここでは人がいい」と言うのです。そんなことがありうるでしょうか。都市伝説ではないですが、期待をこめた思い込みではないでしょうか。

 答えは条件付きでイエス。私がとくに気持ちよく過ごすことができたのは、雲南南部のシーサンパンナ(西双版納、シプソンパンナー)でした。90年代はじめから半ばにかけて、私はジンホン(景洪、ツェンフン)郊外のタイ族の村を拠点にしながら、マウンテンバイクに乗ってシーサンパンナ内を駆け巡りました。

 とくにタイ族の村では何の心配も必要ありませんでした。村に入るときまってだれかが遠い親戚であるかのように私を歓迎してくれました。お茶とバナナ、ウイロウのようなモチ菓子、あるいは食事時であれば、おこわやさまざまな料理を出してもてなしてくれました。夕暮れになれば、宿だって提供してくれるのです。


仏教の祭日の日、友人のお坊さんといっしょに十数軒の家をまわり、ごちそうを食べた。翌日アゴが筋肉痛になり、口をあけることができなくなった。印象ではもっと生野菜が多く、辛くて酸っぱいタレをつけると美味だった。

 アイニ(ハニ族)やラフ族、プーラン族の村を訪ね、家に泊めてもらったこともありました。

アイニ族のおばさんは道ですれ違いざまに刺繍を見せ「これ買わないか」と言ってきます。家に泊めてもらったときも、刺繍だけでなく籠や生活用具を指しながらやはり「これ買わないか」と言ってくるのにはおどろいてしまいました。商売好きの民族なのです。バンコクのカオサン通りでよく民族衣装を着た女性らが銀製品を売っていますが、このタイ北部から来たアカ族はアイニ(ハニ族)と同一の民族です。

 アイニ族の村の入り口には木で作った門がありますが、これは鳥居のように見えます。しばしば鳥のかたちの木彫りが置かれているのですが、鳥が居るので、まさに鳥居ですね。もっとも木彫りは鳥にかぎらず、豚のこともあり、そうすると豚居です。門の両脚の部分には、男女をかたどった大きな木彫りが置いてあります。それに大きな生殖器がつけられていることがあります。日本の鳥居の源流といえるかどうかは、微妙なところですね。
 アイニの家屋は屋根を見ると千木・かつお木があり、日本の神社ととてもよく似ています。下右の写真はアク族(アイニと同系でハニ族の一種)の家屋ですが、屋根の角の×印が千木、屋根の棟木に載っている数本の刀のような木棒がかつお木です。日本では聖なる建築物にしか見られませんが、このあたりでは民家に用いられています。
私はこれをはじめて見たとき、突然日本の文化の源流がそこに横たわっているという不思議な感覚におそわれました。

 ラフ族の家に泊めてもらったときは、少し悲しい思いをしました。写真にあるように、山中の道端に、村の入り口であることを示す鳥居を見つけ、それを観察していると、子連れの若い夫婦がやってきました。彼らはムッソー、つまりラフ族でした。ムッソーというのは、あきらかにモソ(ナシ族の旧名であり、現在は四川・雲南省境に住む通い婚で知られる民族の名称)と同源で、昔のモソ蛮からきています。

 彼らの家は弥生時代の家のような原始的な造りをしていました。二階の藁葺きにあけた穴の外にテラスがあり、そこにはたくさんのワラビが干してありました。近くの山では大規模な焼畑が行われていて、焼かれたあとにはかならずワラビが生えてくるのです。ワラビといえば日本古来の山菜というイメージがありますが、焼畑農業とともに古代の日本にやってきたものなのでしょう。。

 夕飯には焼いたタケノコが出ました。新鮮なタケノコというのはとてもおいしいものです。ところが自分の食事のあと、ふと家族の食事の様子を見ると、余ったタケノコの皮を煮たスープを食べているのです。タケノコが豪華な食事とは思わなかったけれど、彼らにとっては貴重な食料だったのです。そのことに気づかなかった自分を恥じ入りました。

 少し話をもどして、なぜシーサンパンナの人々がこんなにも親切でやさしいか、考えてみましょう。長い間この地域は中国の歴代王朝とミャンマーの王朝とに臣下の礼をとりながら、王国(景隴金殿王国 1160年建国)を維持してきました。中国からは「車里宣慰使」という官職をもらっていました。中国は認めたくないでしょうが、この程度のゆるやかな支配なら、ブータンのような独立国家であってもおかしくなかったわけです。また言語で国を分けるなら、ラオ語とは方言程度の差しかないわけですから、ラオスの一部であってもおかしくないのです。

 タイ系の人々(タイ人、ラオ人、シャン人のほか、中国内のチュワン族、プイ族、トン族など)は共通しておだやかで、親切で、のんびりしたところがあります。シーサンパンナのタイ族、とくに水タイ(タイ・ルー)は、もとからの人のよさに加えて、支配者民族の余裕のようなものがあるのでしょう。

 シーサンパンナ(シプソンパンナーは12の土地の意)は1950年、共産中国に解放されたとき、ラオスと中国に二分されることになってしまいました。最後の王様(41代車里宣慰・刀世)は、90年代初頭、たしか雲南省の政治教商会議主席という要職にありました(名誉職ともいわれるが)。その娘さんは昆明の大学に勤めていたのですが、「美人なのになかなか結婚できない、というのも親父がガチガチの共産主義者で婿選びに厳しいからだ」と言われていました。王様が共産主義者になるというのも何か皮肉なことです。その後彼らがどうなったかは、よく知りません。

 そもそも雲南はいつ中国の支配下に入ったのでしょうか。手元にある中国で買った「中国古代史地図帳」を見ると、漢代にはすでに中国の領土になっています。

『史記』『漢書』によれば夜郎やテン(サンズイに真)が臣下の礼をとり、王印をもらったとされます。逆に言えばそれ以外の国は従属しなかったということです。上の二国にしても、トップレベルが約束をかわしただけで、大半の人々は外交についてはまったく知らなかったでしょう。

 三国時代の蜀も、雲南を支配下に置いたことになっていますが、実質上ほとんど支配権は及んでいなかったのではないでしょうか。諸葛孔明が本当に雲南まで来たかどうかもあやしいのですが、後代の孔明人気のせいか、さまざまな伝説が残されています。農業やテクノロジー(孔明灯、ロケット弾など)の発展はみな孔明に帰せられているのです。

 唐代は、雲南あたりには南詔国という強大な国がありました。唐や吐蕃という大国家と対等に張り合っていたのです。北宋、南宋の時代は、大理国というやはり強大な国家が雲南にありました。

 つまり雲南が中国の領土の一部となるのは、フビライ汗の元軍が侵攻してきた13世紀半ばということになるのです。このときも、世界的大帝国であるモンゴルの一部となったといったほうがいいかもしれません。元が中国化するにしたがって、雲南も中国化したといえるでしょう。

 明代には朝廷の政策によって、大量の漢族が雲南に流れ込んできました。そうすることによってはじめて雲南は完全に中国の一部となりました。現在、チベット自治区や新疆に漢族の移住者が増加していますが、独立を求めている人々が危惧するのはもっともなことです。

 ただ、雲南の中国化には、中国人の雲南化という側面があったことも留意すべきです。漢族も、雲南のような気候も人もおだやかな地域に来れば、少数民族のような雰囲気になってくるのです。

 もうひとつ、あまり知られていませんが、雲南がもうすこしでイスラム国家になりかけたことがあります。19世紀、太平天国よりやや遅れて、こちらではイスラム教徒が勢いを得て、一時は雲南の大半を支配下に置きました。その首謀者の杜文秀の死をもって野望は潰えてしまいましたが、当時の勢いを見ると、イスラム国家建設はあながち絵空事ではなかったのではないかと思われます。こんなところにも、中国の一部となってからの歴史が浅いことがあらわれているのです。

 話が飛びすぎてしまいました。雲南、とくにシーサンパンナは、中国の他の地域と比較にならないくらい過ごしやすいのです。それにはまってシーサンパンナに沈没しかけた私は、さながらシーサンパンナ症候群の患者といったところでした。


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