旅する芸能僧侶集団ブチェン

 昔、テオ・アンゲロブロス監督の「旅芸人の記録」というギリシア映画を観たときの印象が鮮烈だったせいか、旅芸人ということばにたいして、私はあこがれのような、せつないようなイメージを持ち続けている。

 インド西北ヒマラヤのスピティ地方に残るブチェンという芸能集団は、ギリシア映画中のドサまわり劇団のような旅芸人とはまったく異なるが、旅をしながら芸能を見せるという点では共通している。

 日本人ならばたとえば盲目の歌い手瞽女(ごぜ)や熊野比丘尼、勧進聖などの回国遊行芸能者を連想するかもしれない。しかしこれまたブチェンとはかけ離れている。日本にはブチェンに相当する芸能集団が存在しないので、イメージしづらいだろう。サムルノリのような韓国の芸能集団ともまたちがう。

 RA・スタンはチベットのケサル詩人やデロク(冥界からの甦り)とのあいだに共通点を見出そうとしている。(R. A. Stein “Recherches L’epopee et le Barde au Tibet) とくにデロクは地獄のモティーフを得意とし、ブチェンもまた地獄の絵解きをすることがあるので、似通っている点がなくもないのだ。

 スタインはブチェン(一般的な名称マニパという語を使っている)についてつぎのように説明している。

「マニパというのは観世音菩薩の秘伝(チベット語ではdbangsすなわち、呪文を念誦する『能力』)を授かった宗教者のことである。今日では、マニパはエピソードを画いた絵を見せながら教育的な物語をきかせる放浪の物語師になっているが、彼らは同時に彼らの異常な能力を示す儀式(重い石を胸の上で砕くことや、二本の剣の切っ先の上に横たわること)も行っている」。(RA・スタン『チベットの文化』)

 この「重い石を胸の上で砕く」儀式は、ブチェンの活動の核心部である。たとえば以前、ラダックで疫病がはやり、ブチェン(ラダックの人々はラマ・マニパと呼ぶ)が呼ばれた。彼らが石割りの儀礼を行い、穢れを祓う(悪霊を退散する)ことによって疫病はおさまったのだという。なおこのとき大きな石を人の胸にのせ、ほかの大きな石で割るのだが、人は基本的にだれでもいい。人ではなく、その土地を祓うのだから。ただその人の穢れも祓われ、福を呼び込むので、だれもが石の下を志願するという。

 「二本の剣の切っ先に横たわる」に関しても説明の補足をしたい。ブチェンたちは頬や喉仏の上に針を刺し、剣の舞を踊ったあと、上半身裸になり、二本の剣を下腹に軽く刺して体重を剣にかけたまま、ジャンプするのである。写真を見ればわかるように、そのままズブリと剣が刺さることもありうるので、パフォーマンスを見せる場合、つねに後ろで助手が見守っている。雑技団のような目を見張る荒業ではないが、十分に危険度の高いわざなのだ。

 「エピソードを画いた絵を見せながら(きかせる)教育的な物語」についても説明すべきだろう。物語は無尽蔵にあるわけではなく、スピティのブチェンの場合11の物語が中心となる。人によっては12や13の場合もあるし、種目が永遠不変に変わらないということもないが、ほぼ定番は決まっている。それらは「ノルブサンボ(財善童子本生譚)」「ギャサバルサ(中国公主とネパール公主)」「ドワサンモ」「ディメクンデン」などで、アチェラモなどの演劇の演目と重なり合う物語も多い。

 マニパ、つまりブチェンはチベット文化圏特有の存在であり、かつてはさまざまなところで見ることができたが、現在はスピティのピン谷だけに残っているように思われる。文化の絶滅危惧種なのである。

 なぜピン谷にだけ残ったのだろうか。それはスピティでここだけがニンマ派の地域だということと関係がある。ピン谷の入り口(ピン川がスピティ川に合流する地点)から15キロほど遡った丘の上にグンリ寺がある。グンリ寺はいわばニンマ派のピン谷支店のようなものであり、谷全体を統括している。ニンマ派(旧約派)が他の宗派とおおいに異なるのは、寺院内の僧侶以外に、ンガッパと呼ばれる在家の行者を抱え込んでいることである。修行を積んで雨を降らせたり、止ませたりするンガッパはほとんどニンマ派に所属しているのだ。ブチェンもンガッパなのである。彼らはふだん僧衣を着ることはなく、農作業に従事している場合が多い。しかし行者のンガッパのように、彼らもブチェンになる前には何ヶ月も洞窟にこもり、修行するという。

 ブチェンはピン谷全体に分布している。現在九つのブチェン・グループが存在する。三人集まればグループとして成り立つが、リーダーはニンマ派の経典をそらんじなければならないし、針を頬に刺したり、剣の舞を見せたり、石割りの儀礼に熟達していなければならない。またコメディのパートがあるが、コメディアン僧はリーダーとのかけあいなどで観衆から笑いを取らなければならない。

 行く先々で、芸能を見せるのも重要だが、それ以上に宗教的な意味合いが大きい。そもそも、昔ラサで疫病がはやったとき、ツォンカパ(ゲルク派の祖であり、チベット仏教の礎を築いた偉大なる僧)が聖者タントン・ギャルポ(1385−1464)を招き、石割り儀礼を行ってもらった故事にはじまっている。

 タントン・ギャルポは鉄の橋をたくさん架けたことで知られるが、おそらくなんでもできてしまうような天才的な人物だったのではなかろうか。

 ブチェンはこのタントン・ギャルポを開祖として崇めている。石割りの儀礼を行う際も、観音扉の箱からシルバーのタントン・ギャルポ像を出し、まずは祈祷をささげるのだ。ニンマ派の開祖であるパドマサンバヴァではなく、無宗派的なタントン・ギャルポである点が非常に面白い。もともとはニンマ派と関係なかったのかもしれない。ニンマ派一色になる前、ピン谷の信仰はボン教だったという俗説もある。ボン教かどうかはわからないが、民間信仰や民衆文化がさかえた地域だったのではないかと思える。

(この項書きかけ)

スピティ・ピン谷のサグナム村。透き通った風が心地いい。

真冬は零下30度まで下がる。ロバだって寒い。

齢80の最長老ブチェンは生き字引。(ムトゥ村)

五色の帽子はブチェンの代名詞。

五色の帽子を被った途端、ブチェンの表情になる。(ムトゥ村)

ブチェン所有の地獄絵のヤマ(閻魔)。

ブチェンが崇拝するタントン・ギャルポの像。

タンカを指しながら「ドワサンモ」の物語を歌うテリン村のブチェン。

上のタンカの局部。右下に見えるのはターラ女神。

サグナム村での石割儀礼の冒頭。中央にタントン・ギャルポ像。

観音を讃える経文を唱えたあと、腰をくねらせて踊る。

悪魔という役どころだが、実際は道化で、笑いを取る。

剣の舞。見よ、この贅肉のない体を。厳冬など関係なし。

剣先をおなかに当て、ジャンプ。極度の集中力を要する。

石割の場面。毛布の下に人が仰向けになっている。

グンリ寺のチャムのあとに行われた儀礼。頬に針を刺す。

針(三叉矛の形)を刺したまま剣の舞を舞う。

もしもの場合に備えて五人のブチェンそれぞれにヘルパーがつく。

洞窟で修行するとき、腹部を鍛えるという話である。