古跡目録 

(1)チベット西部 

 フランケは、ラダックのカラツェ一帯に以下の古跡を見出した。

[] ケサルの鞍(Ke-sar gyi sga)。カラツェ上方の海抜4千メートル地点にあるインダス河右岸の岩。そこには曲がりくねった道のような紋様があり、ギャ・ラン(ドイツ語でChinesische Strasse、すなわち中国の道)あるいは主要道路と呼ばれる。

[] ドゥクマ(ブルクマ)の長太鼓('aBru-gui Dabs-khor)。インダス河の河岸の岩。1頭の雌牛(?)と2頭のヤギ、男女の生殖器官などの絵。

[] ドゥクマの糸巻(’abrugui Phanglo)。インダス河左岸。チベット人、あるいは女行者(?)の糸巻の形をした黄色の絵。

[] ケサルの家(Kesar-gyi khang-pa)。インダス河右岸の白い斑点が入った巨岩。

[] 中国の王妃(rGyanag Jojo)。フランケによると、ケサルの中国の妻のことであり、カラツェの女神の名でもある。それはもともとインダス河左岸にあったが、のち右岸に移った。現在は小さな渓流の右岸に石の祭壇(lha-to)がある。その上にはアイベックスの角と杉の枝が供えられているという。伝説によると女神は子供たちが遊んで巻き起こした砂塵が好きなのだという。それゆえ冬のフェスティバルの踊りで砂塵が巻き起こるのを心待ちにしているのだ。

[] ケサルの末裔に関する950年頃の伝説。「キデ・ニマゴン(sKyid-lde Nyima-mgon)……マユル(Mar-yul)地区のラダックはケサルの後裔によって統治されていた」(『ラダック王統記』)フランケによる補足。「ペ・トゥブ(dPe-thub)」に、最近の金石文にラダックが「ケサルの所在地」と記されているとのこと。

[] ザンスカル地方の伝説。リン・ケサルは自分自身の決定によって(最初の?)二本足で大地を踏みならした、すなわち征服した。ウギェン(ウディヤーナ)のパドマサンバヴァがやってきて、アスラ(阿修羅)を束縛し、魔女の四肢を大地に打ち付けて、そこに(建築物を)建てた。

[] 春の祝祭のとき行われるラダックとクナーワール(キナウル)の弓の競技会。人々はリン・ル(Gling-glu)、すなわちリンの歌をうたう。歌の中にケサルが登場する。フランケはピワン(Phyi-dban)で9つ、カラツェで9つ、シェーで(Shel)5つの歌を採集した。

[] 結婚の歌(nyo-pa’i glu)。

[10] ケサル王物語中のアグ・ダラ(Agu dGra-lha)の仮面。それはかつて(ラダックの都)レーで暗闇を駆逐し、吉祥を増加させた。

[11] クル谷のビーズ川(ビアース川)上流のロタン峠近くにある人工的な階段。これはケサルが造ったとされる。

[12] クナーワール(キナウル)のプー村で毎年11月に行われる祭りのなかで歌われる賛歌に、ツェンゲン・アポ(Can rgan Apo)とケサルの名が出てくる。中心となる神はグラブラ(ダラ Gra-bla)。

[13] ルプス(ルプチュ Ru-bcu)の峠近くにモルド(占い石)と呼ばれる石がある。このあたりは白い石と黒い石で覆われている。かつてアレクサンドロス大王が進軍してきて、ここでラダックへ侵攻すべきかどうか占った。その結果は否(いな)だった。あるラマが言うには、チベットのアレクサンドロスとはカイシャル大王(gyalpo Kyshar)のことだという。

[14] (パキスタンの)バルチスタンでは、ケサルは小チベット(ラダックとバルチスタン)の国王とされる。一方ホルの国王はヤルカンド(新疆ウイグル自治区)にいるという。ケサル王物語のなかに、ホルの馬一頭がヤルケンからもたらされたという一節があるが、ヤルケンとはヤルカンドのことである。

[15] (カシミールの都)スリナガルの北東にグンドという村があり、山の斜面に8つの人物画が描かれている。チベット人はこれをケサル王とみなしている。またそこには8つの法輪が描かれている。