(2)チベット中央部
[16] ツァンポ川の南、ンガン川(昴曲)下流のパナム(白朗Pa-snam)にケサル王のエピソードが流布している。
[17] ツァン地方(あるいはラサ?)にケサルの甲冑が保存されている。甲冑といっても、一般の甲冑とは違う。
ツァン出身のテンジン・ギャツォ(bsTan-’jin rgya-mcho)が私に直接語ってくれたことだが、つぎの3つの尋常ならざる物件は、ケサルがこの地に実際に生きていたことの証しである。
(1)普通の倍ある大きな人骨。
(2)人の胸まで達するような巨大な鉄兜。
(3)だれも動かすことができないような馬の鞍。
[18] ラサのポタラ宮の後ろで競馬行事を行うとき、甲冑を身にまとい、弓矢をもつ騎手はケサルの勇士の代表とみなされてきた。
[19] 任乃強によると、ラサのジョカン寺(大昭寺)にケサル像があった。これはラマたちだけに知られていたのだが、中国人も認めるようになった。しかしこの件に関しては諸説が混じってできあがったのではなかろうか。
チビコフの(ジョカン寺の)ジョウォについての描写を読むと、正門の左側に里程碑があり、そこに髭を生やした英雄が妻子とともに描かれていた。彼はおそらくチベットに服従し、ダライラマに捧げものをした人物であろう。
そうするとモンゴル人のグシュ汗(1582年に生まれ、1637年にチベット中央の王、1642年にツァン地方の王となり、1654年に逝去)である可能性が高い。しかしその門神的役割から関帝(ケサルと同等とされることもある)をわれわれは連想してしまう。愛妻と子(関平)とともに、美髭をたくわえた姿で描かれるのは、関帝とおなじである。
同タイプの守護神としては、中原の門神となった尉遅敬徳(うつちけいとく)という唐の将軍が思い浮かぶ。しかし『ラサ案内』では、チビコフが挙げた像は、畏怖神(khro-bo)のメワ・ツェグパだという。この書によると、メワ・ツェグパはソンツェンガムポの時代、唐朝の軍がチベットに侵入するのを防いだという。
[20] あるたしかな筋によると、ダライラマ5世はジョカン寺の中の「必殺人メルツェの祭壇」を認めていて、罪を犯した者が懺悔のために建てたのだと考えていた。
シェンパ・メルツェ、あるいはディグチェン・シェンパは、ケサル王物語の中でももっとも知られた登場人物のひとりである。ホル国の大臣だったが、国がケサルのリン国に負けたあと、罪を許され、ケサルの忠実な将軍となった。
非常に遺憾なことに、ダライラマ5世はこの人物について何か述べたとしても、ケサル王物語について一言も言及していないのだ。このことからもわれわれは重要な問題と向かい合うことになる。
つまりチベット仏教のお堅い伽藍のなかで、ケサル王物語のことが話題になることがあるのか、それともないか、という問題である。ある著名な人の1645年の回想によると、ゲルク派の高僧中の高僧が物語を許容したという。
また『ラサ案内』に記されるように、チベット仏教の重要人物はケサル王物語においても重要人物であるという考え方があった。これらの例証は、第9章を見ていただきたい。
[21] ダスやタフェルによると、ダライラマはケサルの化身とみなされたことがあった。ダライラマ5世はパドマパーニーの化身であり、シンジェ(閻魔)の化身であり、ソンツェンガムポやケサルの化身でもあったのだ。
こうした神秘的な同定については、于道泉が発表した論考(1930年)において明確にされている。ゲドゥン・ドゥパ(ダライラマ1世)の前世のひとりはケサル王の第26世だという。また于道泉によるとケサルはモンゴル国王(ホル王)とアヴァローキテシュヴァラ(観音)の化身だという。
彼はロンド・ラマ全集(第22巻)の化身のリストを引用している。それにはゲルク派だけでなく、ニンマ派の情報も多く含まれていた。また張其勤の中国語訳によると、ケサルはインド・ヴァラナシの王の第25代化身だという。
この名前リストは、最終的にはサキャパ・ラマにつながっていた。ケサルを第26代とするリストも、ニンマ派のテクストに見出されるものである。これはレーリヒが私に示した「蓮華庄厳地志」(Padma-bkod gnas-yig)に記されている。
ただしこのケサルは、叙事詩のケサル王物語とはいかなる関係も持たない。彼はアティーシャの前世の伝記(ジャータカ)の中の一人物であり、蓮華王と王妃サンモとの間の子のことなのである。(カダムパ教法弟子問答語録)
[22] ラサに流布しているケサルの噂話に関していえば、一種の宗教的混合物(シンクレティズム)として解釈することができるのであるが、そのもとをたどると1748年に遡ることができる。
『如意宝樹史』(dPag-bsam lJon-bzang)にはこの頃のこととして、関老爺(関帝)の名が出てくる。「彼はジョンツェン・シェンパ、ケサル、ベグツェの化身として名声が高い」と記される。『中国仏法史』(rGya-nag chos-’byung)によれば、関帝は文成公主とともにチベットへ行ったジョンツェン・シェンパと同一人物であり、軍の王として有名なケサルとも同一人物だという。
このほかにも伝説がある。関帝は夜叉(ヤクシャ)ベグツェとおなじ霊的系譜に属するというのだ。しばらくのち(1779−1780年)パンチェンラマ3世は中央チベットに流布する宗教的混合物(シンクレティズム)についての解釈を試みている。(「関帝儀軌」)
チャンキャ・ラマ2世ロルペ・ドルジェ(lcang-skya Rol-pa’i rdo-rje 1717−1786)はタシルンポ僧院を訪ね、パンチェンラマ2世に謁見したとき、四川の尚林山に一か月滞在し、経験したことを述べている。チャンキャ・ラマの夢の中に関帝が現れ、関帝は中国中原だけでなく、チベットでも崇拝されていると語ったという。
ツァン地方ではとくに大ラマ(ラチェン)によって長期間儀礼がおこなわれていた。作者の注釈によると、大ラマであるパンチェンラマが崇拝していたのは戦神であるベグツェである。というのもベグツェが若いころ、ある人が彼にシッダールタ王子の「比喩経(Avad?na)」すなわち「ドンドゥプ王子の物語」を説いたからである。
さらに作者は言う。関帝と(神である)シャンロン(大臣)ドルジェ・ドゥンドゥ(Zhang-blon rDo-rje bDud-’dul)は同一であると。後者は中国の名大臣である。というのもソンツェンガムポと中国の公主の結婚以来、中国の王朝は舅(シャン)と呼ばれるようになったからである。
さらに関帝は「三界伏魔大王」という称号を得ているが、また中国の大臣(シャンロン)でもあった。それゆえ、シャンロン神伏魔金剛(ドルジェ・ドゥンドゥ)とは関帝のことにほかならないのである。ほかの多くの高僧たちも、関帝はジョンツェン・シェンパ神にほかならないと認めている。その活動地域はじつにたくさんの候補が挙がっているが、そのなかでもラサ北部のジョンリ山(rJong-ri)とヤルルンの水晶洞窟(Shel-gyi brag-phug)がよく知られている。
非常に奇妙なことだが、ケサルと関帝の同一人物化が進み、チベット仏教の僧侶たちが崇拝すればするほど、中国化も促進されることになった。一方でほかの地域では、彼らはケサル王物語にたいし敵対的だった。『如意宝樹史』の作者スムパ・ケンポ・イェシェ・ページョル(Sum-pa mkhan-po Ye-shes dpal-’byor 1707−1788)は自伝にパンチェンラマ3世ペーデン・イェシェ(1738か1740−1780)の書信を載せている。
彼はケサル王物語がシャラ・ユグル人(黄頭のウイグル人という意。甘州と粛州に分布)に流伝し、中国やモンゴル、チベットに伝播していることを記している。ただしこの叙事詩を「2、3巻のたわごとの連なり」と貶め、「くだらない流言」と切って捨てている。彼はこの「たわごとの連なり」である叙事詩と社会科学の専門家(ヴェーダ学者?)の筋だった話(gtam-brgyud)を比較している。彼は知ったかぶりをし、間違いだらけでくだらない話に満ちた物語の研究にかまける学問的態度を禁じようとした。彼も、彼の弟子たちも、そうした態度を恥ずかしいことと感じるようになっていた。
チャンキャ・フトゥクトゥ・ロルペ・ドルジェ(1717−1786?)が(ダムディンスレンによれば1740年に)述べたように、その時代の傾向として、伝記(ナムタル)を書く場合、ケサル王物語のスタイルを模した。すなわち「敵に勝つ(dgra-’dul)」「友を守る(gnyen-skyong)」「インドラ(帝釈天)の助けを求める儀礼」(brgya-byin stong-’gugs)などを入れたのである。
スムパ・ケンポは相当に厳格だが、パンチェンラマがケサル王物語にことさら関心を抱いていたことを認めている。われわれのこの衰亡の時代のはてに、シャンバラが出現し、将軍であるケサル(あるいはレティン寺のラマ)がやってくる。またはやってくるのはパンチェンラマである。
あきらかにこのことからパンチェンラマ3世は関帝とケサルに興味を持ったのである。スムパ・ケンポの疑いをさしはさむような書信は、そのパンチェンラマ・ペーデン・イェシェに回答させるためのものだった。
彼は言う。「われらの仏教史(教法源流史)でホル人のことに言及する箇所がある。これはユグル人のことである。その領地はチベットの領域のなかにある。ケサルと戦って滅んだホルの首領は黄色のホル人である黄テント王、つまりアナム・ギャルポだった。彼は巨大な城を築いていた……」
この城はどこにあるのだろうか。ケサルはどの時代に生きていたのだろうか。ケサルのラマ、ラン・ジャンチュブ・デコ(bRlang Byang-chub ’dre-bkol)の予言に関し、どんな感想を持ったのだろうか。
スムパ・ケンポは長大な文章でもってこれらの問題に対する答えを書いているのである。私は彼が考察したいくつかの地点をリストに入れた。彼はケサルの歴史と中国の(大唐西域記の)唐僧の伝説を比較し、それはおなじことだと言うのだ。
いくつかのエピソードは中国の皇帝の前で、演劇形式で演じられているともいう。また彼は科学的な専門家(ヴェーダ派学者 rig-byed-pa)の伝説(gtam-rgyud)とも比較している。みなそれをファンタジーか、でなければ同じような詩歌(snyan-ngag gyi chul)であろうと考えた。
ケサルの時代、話がいつのことなのかだれも知らなかったが、最近起きたことだと考えていた。2枚目の書信のなかで、スンパ・ケンポはあらためて言った。
「ケサル王物語の叙事詩や話は中国、チベット、モンゴルにすでに流布していたものである。それは詩歌から発展したものだろう」(これはつまり実際に起きたことではなく、創作された詩歌がもとであるということ)彼に言わせれば、ケサルは普通の人間であって、宗教的観点からいえば神ではない。信じがたい奇跡のエピソードも彼は数多く発見した。そこには作者の見識がうかがえる。どうして彼が批判精神を持っているなどと言えるだろうか。ともかく彼は18世紀前半において、この種の伝説をたくさん知っていた。彼はデルゲの何人かの老翁が語ることから得難い情報を得ることができたと言明する。それらは全体的に見れば辻褄が合っているのだ。
[23] 中国人が住むところには、かならず関帝廟がある。そのことと本書のテーマは直接的には関係ないが、チベット人やモンゴル人はそれをつねにケサル廟と呼ぶのだ。この呼称が現れた時代を特定することができるので、この目録に加えてもいいだろう。
ラサにおける関帝廟はポタラ宮の南西200mほどの丘の上にある。ワデルはそれをバモ(Ba-mo
Bong-ba)の丘と呼ぶ。彼は記す。「ケサルの中国式寺院。彼はシベリアで神として祀られたモンゴル皇帝」。またこうつづける。「みな土着の供え物をし、白い雄のニワトリを捧げる。その数百羽以上に達する」と。ベルはこの廟内の写真を公表し(1931年)チャップマンはそれについて記述した(1938年)。
ケサル廟を訪れたすべての人はその中国的特徴について言及した。チビコフは「青派のバモ山の中国寺院」と呼んだ。『ウ・ツァン案内』はポタラ宮の後方に文殊(マンジュシュリー)を本尊とする山があり、ボンバ山も知られている。その山頂にケサル廟がある。漢文資料もまた同様の情報を提供してくれる。
また、ロックヒルはルパン山の上の関帝廟に建てられた石碑(1795年)について記している(1891年)。『衛蔵(ウー・ツァン)志』は、1791年にゴルカ人が攻めてきてタシルンポ僧院の関帝廟を壊したが、翌年補修されたと記しているという。このことからこの関帝廟はそれほど古いものではないことがわかる。ダライラマ5世が『ラサ案内』のなかでこの廟のことに言及していないのはそのためである。もちろんボンバ・リの関帝廟とマンジュシュリーの山については述べているのだ。
[24] 護法神ペハルがラサ周辺の多くの霊媒(mediums-oracles)に憑依している。そのなかでもよく知られているのがラサの西方数キロのところにあるデプン寺の下部寺であるネチュン寺の霊媒だ。この護法神はホル人と関係が深いという。
ケサルが戦いで勝ったホル人である。それゆえデプン寺やネチュン寺ではケサル王物語の説唱や話を楽しむことが禁止されているという。遺憾なことに、この禁止がいつの時代であったかはわかっていないが。ただしゲルク派の僧侶がケサル王物語の閲覧を禁止されることはまれなことではなかったという(于道泉1930、ワデル1895)。すでに述べたように、任乃強はカンゼ地方である人から情報を得たが、この禁令とケサルがペハルを殺したことの間にはつながりがあるようだ。もちろんこの禁令は全面的なものではなく、ペハルが現れる地方、ホル人(モンゴル人やホル王一族)との関わりが深い地方は限られていることを心にとめておかなければならない。
[25] ラサの北方それほど遠くない地方にケサルと関係が深いタルン(sTag-lung)一族の領地がある。(資料提供に関してトゥッチ博士に感謝の意を表したい)私はいまだに(1767−1769年に写された)家系図を見ていないが、この家族はチベット原始6部族(mi’u gdung-drug)のひとつの系譜に属し、おおいに権勢をふるっていた。とくにガシ(Ga-zi)なる者は中国に入り、国王の2番目の公主(叙事詩ではホル白テント王の王妃)を連れ帰ったという。(リン木刻本ではga-zi lha-mo)
1779年にはケサルの帽子や弓矢がチベット中央のある寺院に所蔵されていた。(スンパ・ケンポ書信。ダムディンスレン1957年)
[26] ラサの北方よりややずれた、主要幹線上に重要なカダムパ寺院、レティン寺(Rva-sgrengs)がある。ここはチベットの摂政の所在地として知られる。
資料を提供してくれた人によると、この寺の寺主は北方の神秘的な国シャンバラと関係があった。またケサルとも深い関係があった。というのもケサルはこの地区の未来の将軍とみなされているからである。
ともかくも、チベット最後のふたりの摂政であったレティン寺の寺主がケサル王物語に思い入れがあったことは周知の事実である。摂政(摂政王とも呼べる王の権力を持っていた)トゥブテン・ジャンペ・イェシェ・テンペ・ギャルツェンは1947年、政治的な嵐の中、36歳の若さで没した。彼は大ラマでありながらテルマ発掘師(テルトン)であった可能性がある。
彼はカムの生まれで、ミパム大師の転生のひとりであるチョギュル・リンパ(mChog-gyur gling-pa)の化身という。われわれはすでにこのラマがケサル王物語のリン土司木刻版を推し進めたひとりであることを知っている。彼はケサル帽子に関した特殊なテルマを発掘した。レティン寺の摂政はこの帽子を着用していたと思われる(私の資料を提供してくれた人はそれを見た)。彼はまたミパムの祈祷文を刊行したようである。彼はまたケサル画を集め、ケサルの宗教舞踏(チャム)を指導した。
彼の書信からは、ふたり(僧侶と俗人)の説唱芸人(sgrung-mkhan)とひとりの演唱者の存在がわかる。彼はケサル廟(lha-khang)を持ち、その中には2体のケサル像があった。摂政は22歳か23歳のときに「ケサル大王の大法会」(Ge-sar gyi chos-skor)を書写したという。すでにわれわれはケサル王物語19巻を見たが、それらはすべてレティン寺に所蔵されているかもしれない。
ラサ北方のナムツォ・チュグモ湖(テングリ湖)の傍らにデワナクツァン(Gre-ba
Nag-chang)があり、グル(Gu-ru)とモンラ(Mon-ra)がそれに従属している。ひとりの力強い英雄がこの両地の間に生まれた。このナクツァン地区の住人は、魔族(bDud-kyi-sde)と呼ばれた。この英雄はラサの南のコンポへ行った。毒川(ドゥク・チュ Dug-chu)や錯乱川(トム・チュ ’Thom-chu)の水源があり、そのあたりに住む人や家畜はみないつも酒に酔っているかのようだった。
英雄はこの水を飲んだ。この地区にはほかに魔の魂の山(ラリbla-ri)があり、ハシャン・ツェグ(Ha-shang rce-dgu)と呼ばれた。山の中央にはマツォ(rMa-mcho)、メツォ(dMe-mcho)など3つの小さな湖があった。英雄がこの水を飲むと、湖の水量が一挙に増えた。それゆえみなこの英雄は人間の領域に生まれた妖魔だとわかった。この妖魔はケサル王物語の北の国の魔王ルツェンではないかと思われる。
おなじ作者はラサの北東にあるダム(’Dam)という場所を挙げる。ここには鹿の角や鹿の骨で作った要塞があった。これは妖魔の城、シャラ・ナムジョン(Sha-rva gnamu-rjong)である。妖魔はいつも略奪行為を働いていた。彼はたまたまケサルが不在のとき、リン国にやってきた。彼はリン国で略奪行為をはじめ、ケサルの王妃メサ・ブムキと家族の一員であるジンゴンツェン(Phying-sngon-can)を連れ去った。ケサルはすぐに国に帰ると、魔国へ向けて出発した。そのときシェチュ・カムパ(gShed-chu Khams-pa)の大河を渡った。(ルチェンの故事につづく)*シェチュは生死の川の意。
[27] ガンデン寺よりも向こう、ラサの東南2、3日の距離のところにサムエ寺がある。中国語の文にも賞賛されている。
「内殿に関聖帝君の像がある。伝え聞くに、唐以前は魔物が多く、害をもたらし、人民は不安でいっぱいだったが、帝君(関帝)がそれを取り除いた。人は繁栄しはじめ、土民は関帝を祀り、ケサル・ギャルポ(ケサル王)という称号で呼ぶようになった。この一節はまちがいだろう。トゥッチはサムエ寺について詳しく記しているが、関帝廟については一言も触れていないのだ。一方、サムエ寺のペハル廟は有名である。またチベット中央では、18世紀中葉、ケサルの名で呼ばれる関帝廟は珍しくなかったという。
[28] そのほか有名な関帝廟(ケサル廟)がタシルンポにある。1791年にそれは壊された。シガツェの南西隅に発見されたのはケサル廟(lha-khang)と称せられる。
[29] シガツェのサムドゥプツェ(bSam-sgrub-rce)家の首領であるカルマ・テンスン・ワンポ(Karma bstan srung dbang-po)はケサルの化身といわれる。
[30] インドからラサへ向かう主要道の南西、ギャンツェの頭人(ギャンツェ土司あるいはギャンツェ王)は1643年よりトム・ケサルの女婿の後裔とみなされてきた。このトム・ケサルはリン・ケサルにほかならない。実際、ダゴ・ドンツェン(dBra-rgod ldong-bcan)と称せられ、その故郷は上部カム(カムの西か北西)である。「ギャンツェ土司世系史」はつぎのように描写する。「彼は百枚の虎皮から作った皮衣を着て、手には熊をつかむ」
またマクドナルドによると、ギャンツェに「中国式の古い廟があり、内部はケサルを祀ったもので、その大臣らの巨大な彫像がならぶ」という。それは関帝廟であり、チベットやモンゴルの他の地域と同様、ケサルと習合されてきたのである。トゥッチはまた、ギャンツェの結婚歌にケサルの名が出ていることを指摘している。
[31] ホル・カンの家族はケサルの物語が好きではない。というのも物語の中で、彼らはケサルと戦って敗れるからである。ここではチョンギェ(’Phyong-rgyas)家族のことである。彼らはホルパサ(Hor-pa sa)、すなわちチョンチェ・ゾン(Chongche Dzong)に住む。それはヤルルン川の一支流上にあり、ブラマプトラ(ツァンポ)河の南、つまりツェタンやサムエ寺の南に位置する。この家族の系譜は(サホルの解釈では)ホル人からはじまっているという。サホル(Zahor)はソグ・ホル(Sog-hor)と(トルコ・モンゴルとして)同化している。またサホル人はペハルと深い関係にある。ダライラマ5世自身がじつはこの家族の出身である。*映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』に裏切り者として登場するガワン・ジグメ(2010−2009)もホル・カンの出身。
[32] ケサルを敵視するような資料を中央チベットで見つけることができる。ギャンツェ木刻版はまさにそうなのだが、遺憾なことに、それがいつの時代の文献か確定されていないのだ。「われらウー(中央)とツァン地方の者のなかでは、英雄ケサルを非難し、呪詛するという人が非常に多い」。ケサルの名誉回復のための著作もまたギャンツェに非常に多いのは、偶然ではないだろう。[30]で述べたように、ケサルと関係の深い首領も多いのである。