(3)チベット東部 

[33] リン土司木刻版の奥付で、編集者はわれわれに向かって、物語の真実性を強調している。彼はギャサ妃のテントの跡、ジョルの足跡、魂の湖の源流、アニ・ガムパ(A-mye sgam-pa)が瞑想修行したダナク・ルンド(Brag-nag lung-mdo)山の洞窟キギャル・タグリ山(sKyi-rgyal sTag-ri)、チ(lCi)十三谷などの遺跡を証拠として示す。これらの最後の地点は黄河上流である。

[34] リン土司木刻版の編集者の「考古学調査」は、「ミラレパ道歌集」の編集者が大師(ミラレパ)にたいして行ったのと同様に、「痕跡」を見出したのである。岩の上にわれわれはジョルのお尻のあとを発見する。ジョルは3歳の子どもだったが、3羽の鉄鳥を殺したときについたものだ。

魔術師アニ・ガムパはジョルに抵抗したが、その地方をいまでもミチュカ(Mi-chu-kha)と呼ぶ。また魔術師チポ(lCi-po)が閉じ込められた岩窟をいまでも見ることができる。チ川の支流とチギャル・タグリ山(sPyi-rgyal sTag-ri)の位置関係からわかるのは、「ジョルがマユル川(黄河)へ向かうとき、一方が一方の向きを変えた」ことである。

 ホルの白テント王の城ヤツェ・カルマル(Ya-che mkhar-dmar)は大きな石の梯子の上にあった。この山はもともと氷の山ツァンチャグ・カルポ(Cang-chags dkar-po)の麓にあった。この背後にある山は、アチェン川(A-chen)上流の赤水川(Chu-dmar)の横にある。それはドゥチュ(’Bru-chu 清水江)の7の渡渉場の先左側にあった。この城はスムパ・ケンポの時代にはまだ残っていた。

[35] マチュ(黄河)西岸のラジャ寺(Rva-rgya)の対面にギャサの部族があった。探検家ジョセフ・ロックが提供した情報。

[36] マチュの東とバチュ川(Ba’-chu)両岸にホル人との戦争の遺跡が残っている。(ロック)

[37] もっと東のサムサ(Samsa)あるいはサムツァ(Samtsa)の領内で、岷州南西のタグツァン・ラモ(sTag-chang lha-mo)の中に入ることのできない洞窟にケサルが鞍、轡(くつわ)、刀を置いたという。ケサルは戻ってきてそれらを取っていった。(エクヴァルの情報による)

[38] ラプラン寺付近の川岸に「ケサルが就寝した場所」がある。ここにはケサルの馬の蹄跡がある。おなじ地域の山の頂に入れない石窟があり、そこにはケサルの弩弓がしまわれているという。(ポターニンによれば、ラブラン寺のタングート人がこのことを記録したという)

[39] 南方の松藩から南西へ二日のところにマルト(Rmartut)があり、そこのセルゴ・ジュンリ山(Rser-go Jung-ri)はラン・ケサル(Glang-Geser)が座した場所である。ここでケサルの馬、矢、弓、犬、鎖、甲冑の痕跡を見ることができる。さらにケサルの王妃が暮らしたテントやケサルに殺された怪物のルドチャヴィー(bdud rgyal-po 魔王?)の白や黒の腸が見える。

[40] さらに北へ行くと、サラール人(貴徳のテュルク系民族)が示す黄河河畔のユザギールから5里ほどのところにケサルの穴(というより家)がある。ケサルの兄弟とプク(Puko)はそこから黄河を渡ろうとし、矢を放ち、岩を射抜いた。

[41] もう少し北はチベットの辺境地区であり、甘州の黄頭ウイグル人(ユグル人)の地区である。そこのホルバンデル山(Xor-Bander, Xor-Bandi-ri?)の麓に馬の蹄跡がある。

マネルハイム(Mannerheim)によると(1912年)ユグル人は彼らの祖先の名をあげた。それはホル・ケサル王(Khor Geser Rdjalu)だった。その馬蹄跡は、甘州の南120里に位置する馬蹄寺近くの峡谷の奥の絶壁上にあった。そこに石の洞窟があり、そのなかにゲセル(黄テント王のグル・セル?)の飼っていた犬がいるという。

ヘルマンによれば馬蹄寺は甘州の東にあるという。洞窟を改造した寺があり、みなここにケサルの馬蹄跡があると考えている。ホル人と戦う前、ケサルはここに馬をとめておいたのかもしれない。洞窟の上のほうには木の杭と2つの鎖が見える。そこにはケサルの犬がつながれていたのだろう。

 馬蹄寺の馬蹄の跡については『如意宝樹史』(dPag-bsam lJon-bzang)(1748年)にも言及されている。ただし作者とケサルとの関係ははっきりしない。むしろ物語中のホル3王とペハルの伝説のほうが結びつくのだ。

「北部のチベットとモンゴル(ソグ)の境界上には甘州のミニャク人(これもまたチベット人)がいる。その王宮の後方に黒水河(エツィンゴル川)が流れ、その大きな岩の上にターラー寺が建つ。寺の中にはトルコ石のターラー像が祀られている。

またロドペ王(Blo-gros-’phel)がル魔王を倒したときに使った刀を納めたストゥーパが置かれている。まさにカダムパ派が著作の中で紹介したとおりである。岩の近くには25の寺院が建つ。そのうち2つは新しい寺院で、ひとつは集会堂である。

右側(南側)にはガンデン・ダムチューリン(dGa’-ldan Dam-chos-glin)(僧侶500人)というチベット寺がある。それらの総称が馬蹄寺である。名前は岩に記された馬蹄の跡に由来する。また創建者はトゥンチャ・リンポチェ(Khrung-cha rin-po-che)である。

その前にあるガンデン・チューコルリン(dGa’-ldan chos-’khor-gling)(僧侶200人)は中国人寺院と呼ばれる。というのも巡礼でやってきた中国人がそこに定住し、寺院を造ったからだという。この北西にはのち中央チベットへ移動したペハルがいたユグール人地区のバンダ・ホル人が建てた瞑想センターがある。

[42] いまわれわれが述べたターラー女神の緑玉像はペハルの伝説においても、ケサル物語においても吉祥の宝として欠かせないものである。ポターニンが指摘するように、黄頭ウイグル人(ユグール人)ならだれもが馬や犬の足跡だけでなく、自ら現れ、形成した(rang-byung)三身像について知っているだろう。これはトルコ石のターラー像(Gui-Dzolma, g-yu’i sGrol-ma)と法螺と珊瑚からできた馬頭明王(soro-rtamcin, byu-ru’i rta-mgrin)のことである。

 『如意宝樹史』のペハルに関する記述の中で、甘州のバタ・ホル人が擁する自ら形成するトルコ石のシャカムニ像やセ護法神(bse)の仮面、水晶の獅子像などが中央チベットに運ばれたと記されている。それは住人に富と財をもたらしたという。おなじものがダライラマ5世『チベット王臣記』に出てくるが、1643年にはそれらを受け継ぐ者がなくなってしまったようだ。留意すべきは、ダライラマ5世がこの種の伝説にたいし激しく批判的であったことだ。

 この三種宝物は1643年のペハルの長詩のなかに現れていた。またケサルの叙事詩にも関連性を見出すことができた。そこに共有されるものがあるなら、一種の貸借関係があるのかもしれない。ケサルの叙事詩と生成において関係があるのは、甘州地区に限らないだろう。

チベット南部のギャンツェ木刻版にも、リン国の宮殿の記述があり、そのなかの寺には、(1)自ら出現するシャカムニ金像、(2)トルコ石のターラー像、(3)珊瑚の馬頭明王があるというのだ。

同様に、リン土司木刻版にも、ケサルがマユルの水晶の崖から取り出したのは、(1)シャカムニ金像、(2)法螺貝の殻でできた観音像、(3)自ら出現したトルコ石のターラー像となっているのである。

アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールは1931年の著書の中で、よく似たそれらの像はケサルの舅に属すると書いている。

[43] レーリッヒは(1942年)ユグル人(黄西番)のなかにケサル王物語を連想させる風俗習慣があると指摘している。彼らの村のなかには、白テント王、黄テント王、黒テント王の村がある。ケサルの物語中にも、3人の王がその名を持っているのだ。ある人はケサル王物語(Hor-sbra khra-ril)の象徴としてテントに白い帯を縫い込む。

物語のなかでホル人が崇拝する白梵天(gNam-thel dkar-po)はいまなお崇拝されている。もしだれかが栗色の馬に乗ってテントに近づいたら、ケサルの馬がふたたび現れてテントを踏み倒さないよう、その馬をつないでそちらを向かないよう頭を動かさなければならない。

またユグル人は食べるのがすごく速い。というのもケサルが奇襲したときの驚きがまだ残っているからである。彼らはまたケサル王物語の一節が彼らのなかに残っていると主張している。そこでは、ケサルは危険で狡猾な敵の容貌である。レーリッヒはつぎのような結論に達する。

「古代よりチベット部落とテュルク部落との間には戦ってきた記憶があり、いまなおそれは生きているのである。それがまた部落間のいさかいのもとだった」

 われわれがすでに示したように、こういった「記憶」は現実の歴史とはかならずしも合致しない。もちろん歴史的事実が確認されることもあれば、叙事詩の内容がさらに推し進められることもあるだろう。ただしその「記憶」を実証することはできそうもない。ケサル王物語がいつできたかについては、またあとで論じたい。

 レーリッヒが示した内容は1748年に遡ることができる。つまり『如意宝樹史』にすべて述べられているのだ。バタ・ホル人はペハル物語のなかで霊(ペハル)は「ユグル人の白色、黒色、黄色の3人の魔王のひとり」と述べている。しかしペハルが白梵天に比定されることはすでに述べたとおりである。物語中ホル人の守護神として登場する2柱のうちのひとつである。さまざまな文のなかでそれはモンゴル人(ホル人)の祖先神ととらえられている。

 レーリッヒが提供してくれた資料から1779年まで遡ることができる。スムパ・ケンポは書簡のなかで指摘する。「ホータン・ウイグル人(Yu-gur Ho-thon rigs)のホル人黄テント王の城は、デルゲの左部と上部に位置する。

彼のシラゴル(?i-ra-gvol ユグル族)の8部(家族)はココノールの後部にある。このなかのひとりがキャンの鼻面をした馬(ケサルの馬と似ている)に乗っていると、魔物のような神(ホルの勇士の化身)と出会った。バンダ・ホルの寺院の遺跡が近くにあった。ペハルはかつてそこに住んでいた。(ダムディンスレン1957年)

 スムパ・ケンポは、第二書簡でホル人のヤツェ・カルマル遺跡(Ya-che mkhar-dmar)から遠くないホル人の7人の強盗団(Ya-ba skya-bdun ヤワ・キャドゥン)の末裔の生活について語っている。

彼らはテントの中の細い柱の先に数珠をくくりつけている。それはケサルがホル人に勝利したとき、彼らがテントの中にヤク糞をしばりつけたことの象徴である。このほか、ココノール湖から北へ7、8日ほど行ったところにパートン河(P?-stong)、シュグシャ河(?ug-ca)、粛州河の間にホル・黄テント王の末裔が暮らしている。これらの部族はユグル人(黄頭ウイグル人)と呼ばれている。

この8家族はホータン方言と似た言語を話すが、服装は中国人、モンゴル人、チベット人とさほど変わらない。みな彼らのことをバンダ・ホルと呼ぶ。彼らはテントの上に黄色い絹の布をかける。これはかつてケサルがその馬でもってホル人のテントを叩き切ったことの象徴である。

 黄河上流のアチェンとココノール湖上部のホル人の地域では、魔王(gre-’dre)ペカル(Pe-dkar)やペセル(Pe-ser)などの末裔は悪魔になり、いまも活動し、ケサル王物語を読む人やキャンの鼻面をもつ馬に乗る人に害を与えようとする。(ダムディンスレン1957年)

[44] さらに南へ下り、ツァイダム盆地のノモゴン・ホト城(Nomogon-xoto)の西には、18世紀のモンゴル・チベット戦争の要塞の遺跡が散見される。しかし現地のモンゴル人は、ケサルが火薬を用いて破壊したシライゴル(Siraigol ホル人)王の都市の遺跡と信じている。

さらにそこから少し離れたところに円屋根のレンガ小屋がいくつも見られる。それはシライゴル国王の呪術師の家である。ケサルや護法神(chos-skyong, dharmap?la)である馬頭明王(タムディン rTa-mgrin, Hayagr?va)は、呪術師の注意力をそらすことによって、呪術師につけこむという詭計を練った。すなわち2羽のカラスを送り、屋根の上で騒ぎ立てさせた。このときケサルが屋根を崩壊させると、呪術師を瓦礫の下敷きになったのである。(チビコフ1918年)

[45] ココノール湖南岸の山脈の南にチベット語でガンジュルネサ(Ganjurnexa)、モンゴル語でヌキトゥ・ダバン(Nukitu-daban)と呼ばれる地域があるとコズロフは記す(1905年)。そこには孤高とした神聖なる岩があった。その形はひと揃えの大蔵経、カンジュル(Ganjur-culu)を連想させた。

タングート人やモンゴル人が主張するには、およそ千年前、聖人ゲスル(ケサル)・ボグド王(Bogdo)が崖の上の洞窟にいた。ケサルは東の山の頂を削って、この石のカンジュルを作った。山にはその痕跡が残っているという。

コズロフによると、カルムク語で書かれた『バザ・バクシのチベット旅行記』の記事にそのことが記されているという。

[46] 三川の西およびイテルゴル河(Itel-gol エジナ河)流域にガマカ(Gamaka)、ザトゥンチ(Dzatunci)、ダムビーシール(Dmbisir)、トゥムチ(Tumuci)、リミーン(Rimin)という5つのタングート人の村があった。彼らは将軍王ケサル(Ge-sar dmag-gi rgyal-po)を崇拝し、祀った。これはガマカ村出身の文盲サムバラの情報による。(ポターニン1893年)

[47] モンゴル人やカルムク人によると、ケサルは黄河源流付近に生まれた。(パラス1793年)

[48] 最大級の僧院のひとつであるクンブム(タール寺)のなかに巨石がある。石の上にはケサルの足跡が残っている。それはバターで覆われ、その上には大量のコインがくっついている。(タフェル1914年) おなじ僧院では、新年を祝ってケサルや「西遊記」の登場人物の塑像をバターで作る。

[49] 三川の人々が言うには、この地域の農民は夏になると劇を上演する。その演目はケサルの物語から取ることが多かった。(ポターニン1893年) 作者が言うには、その場面が七月会の出し物とおなじかどうかはわからないとのこと。

[50] ココノール湖の南西およびゴリン湖(Ngoring)とツァリン湖(Tsaring)の北部のバロン山脈(Baron)に、特殊な形をした崖がある。(ロックヒル1894年)地元の人はそれらを「ケサルの帽子」「ケサルの馬靴」などと呼ぶ。ドゥランクス(Dulankus)へ向かう道の途上、ドルン河(Dorung)から遠くないところに土地を削って造られた遺跡がある。それはクァン・ギュ(Kuan gyur)すなわち「関帝(ケサル)によって建てられたもの」と言われる。

[51] ラプラン寺のゲシェ(博士)リン・ドンドゥプ・ギャツォ(Gling Don-grub rgya-mcho)の転生ラマ、アラグ・リンツァン(A-lags Gling-chang)は「ケサルの剣」を持っている。それはゴンカン(mgon-khang 護法神殿)に保管されている。このアラグ・リンツァンはポターニンがアリーグラセン(Aligraseng)と呼ぶ大師である。

ラプラン寺のあるタングート人が主張するように、アラグ・リンツァンはケサルの化身であり、それゆえ刀を持っているのである。彼はまた、ジャムヤン・シェパツァン(’Jam-dbyangs bzhad-pa chang)はケサルの叔父チョトンの化身と述べている。ジャムヤン・シェパ・ナグワン・ツォンドゥ(’Jam-dbyangs bzhad-pa Nag-dban brcon-’grus 16481722)は1710年に創建されたラプラン寺の創始者である。

[52] 黄河(マチュ)以北のゴロク人は、勇敢なるケサルが刀をこの地で失ったという伝承を持っている。その剣はいまも崇拝されている。(タフェル1913年)

 コズロフはより具体的に語る。ゴロク人はチベット人と同様である。彼らは好戦的であり、戦争においては略奪行為もよしとする。ケサルがアルチュン(Arcung)を通り過ぎたとき、その神秘的な剣をなくしてしまった。新しい剣を得ることはできなかった。しかしゴロク人の戦闘本能はその剣に由来すると考えられているのだ。

[53] アニマチェン山(あるいはマチェンポムラ)はゴロク人の地域にあり、俗にケサル宮殿(Ge-sar pho-brang)と称される。(レーリッヒ1942年)

 こうした祖先(a-myes)の山と呼ばれる神聖なる山は、同時に神がいます山である。ロックヒルはケサルが神々のなかでも最強なる者であると指摘する。ジョセフ・ロックによると、アニマチェンはケサルの剣を秘蔵し、ケサルが馬をつないだ岩や天神の兄弟の岩なども擁するという。

おなじ山脈には宝馬(タムチョク)山(馬頭、つまりハヤグリーヴァの別称)があり、それはケサルが馬上にあることを表すとともに、叔父のチョトンの姿を表わすともいう。コズロフによると、神山マチェンポムラはケサルと同様、ゴロク人が勇武にあふれ、好戦的であることを表しているという。実際この神山は戦神(ダラ dgra-lha)とみなされているのだ。

タフェルによれば、クンブム(タール寺)近くの地域もアミ(Ami)、またはアニ・ゲセル(Amye Geser)と呼ばれているという。ケサル王物語のカム版には、地神(gzhi-bdag)マギャル・ポムラにケサルの財宝が保存されていると述べられている。(ダヴィッド・ネール1931年)

リン土司版には、この財宝がマ地域のシェルダク(Shel-brag 水晶の崖)に蔵されていること、またマチェンポムラがケサルに剣を贈ったことなどが述べられている。この神がおなじ本の別のところではどのように描かれているか、研究する必要がある。『ミパム願文』は、センチェン・ノルブ(ケサルの別名)を財宝の保護神(gter-srung)としている。

パリ国立図書館が所蔵するケサル王物語「地獄救妻」には、ケサルの武器がマギャル・パブラ(rMa-rgyal spab-ra)(=マギャル・ポムラ)であると記されている。また、レーリッヒの引用するアムド文献には、アニマチェン山がケサルの守護神であり、崇拝されていると述べられている。

 ケサルとマチェンポムラの関係についてはすでに「ミギュ・ドルジェ伝」(Mi-’gyur rdo-rje 1645-1667)に書かれていた。もしその内容が事実であるなら、17世紀半ばに伝統が途切れてしまったということになる。この文献は黄河上流地区の専門ではないが、非常に重要なので、全文を公表するする価値があるだろう。それに関する1章は、ミギュ・ドルジェが本物の化身であることを示している。作者はこの機を利用して、まず偽の預言者と偽の発掘師(テルトン)を挙げる。

「あるホル人の青年がシャクモからやってきて、姿が見えなくなった。長い年月をへて、山羊の皮を頭にかぶった姿で突然現れ、自分は土地や家などに関する神の予言を行う者であると宣言した。地元の住民はすっかりだまされてしまった。

彼は自ら、自分はウギェン(ウディヤーナ)のパドマ(サンバヴァ)の転生であるラトナ・リンパ大師(1500年頃)であると宣した。

彼はまた玉のように美しい少女を連れていた。その名はパドマサンバヴァの妻とおなじチョギェル(mCho-rgyal)だった。彼はさまざまな供え物を求めたが、多くはデルゲから来たものだった。

ドゥンドゥ・ドルジェ(ミギュ・ドルジェと同時代の有名なテルトン。ミギュ・ドルジェが19歳のとき、すでに相当年老いていた)は彼を侮辱し、話し合い(?)に応じるよう求めた。

2か月後、彼はソグポの軍隊に捕えられた。しかしホル人に引き渡されるときには、屈辱を晴らそうと考えた。(あるいは呪術によって人を殺せることを示そうとした?)彼は自分がケサルであった頃は、すべての兵士を制圧することができたと主張した。

彼は石上げ競技(gyad-rdo brgyab)のように、病人に向かって石を投げつけたり、大量の石を積んで圧迫したりした。そうすると病人はすべてよくなったという。しかししばらくのち、国王は彼を処刑するよう命じた。これがわれわれの聞いた話である」

「マニェンポムラ(rMa-gnyan sPom-ra)付近では、幻影を見せることのできる人が3人いた。彼らは自分のことをウギェン(パドマサンバヴァ)やケサル、ブッダの化身であると称した」

 伝記はこのようにイカサマ師のことについて述べるが、リン土司らからは批判を受けていたようである。



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