ロンとタクロン
タクロン(sTag-rong)の位置を確定するのはそんなに簡単なことではない。トドン(トトゥン)がタクロン地区に4大戦神(dgra-lha)を招請するエピソードが語られ、その要塞の場所がわかる。それはつぎの2つの地点だ。
1 黄河上流域。すなわちマユル・リンティ(rMa-yul gling-khri)。
2 マ(rMa)とジェ(rJe)のセモガン地区(Ze-mo-sgang)。
1は黄河上流の盆地で、バエンカラ山脈の北側。2はデルゲ地区。バエンカラ山脈の南側。タクロンはこの地域にあったようだ。リン国自体もこの両者の間のどこかにあったということになる。
トドンはロン・ミチョ・マルポ(Rong Mi-cho dmar-po)の首領と称されることがあった。このロンはタクロンの略称である。またミチョ・マルポとだけ称されることもある。この呼び方はとくに、打箭炉(ターチエンルー、現在の康定)の北西に位置するタウ(rTa’u 道孚)で見られるものだ。旅行家によると、彼らはホルパ(Hor-pa)であり、非チベット語を話すという。ホルパの王女は1914年の時点においても、100戸以上の家族を統治していた。
この地区にはカンゼのホル人も含まれていた。それはホル5部とも言われた。すなわちマシュ(Machou)、カンサル(Khangsar)、チャング(Tchangou, Brag-mgo)、チュウォ(Tchouwo, Tre’o)、ザ(Dza)である。ホル人に関してはまたあとで論じたい。
このホル5部はどれもマシュから分かれたようである。マシュという名称は、中国人探検家の「母基」にちなんだものという解釈がされたこともあった。しかしチベット語の綴りでいえばマシ(ma-gzhi 基本)のはずである。ケサル王物語のなかで、トドンはしばしばマシ(ma-bzhi)と呼ばれている。これは4人の母という意味なので、トドンは4人の母に育てられたという俗説が生まれることになった。しかしこのマシ(4人の母)はマシ(基本)の異なる綴りにすぎないだろう。
このことから、タクロンとトドンはタウと関係がありそうである。またマとジャのセモガンと比較し、場所の照合をすることができるだろう。そして一部のゴロクの部落は、アニマチェン山東南の聖山をまさにタウと呼んでいるのである。これは地名が北から南へ移動したという一例かもしれない。