第5章 リン国の歴史 

中国およびカルマパとの関係 

 ジェクンド(玉樹)とターチェンルー(康定)との間に実在したリン国は、15世紀にまで遡ることができる。中国の王朝も地位を高めつつあるリン国を軽視できなくなっていた。その首領には高僧がなり、重要な役割を果たしていたと考えられる。当時、皇帝はその他の高僧と同程度の名称授与と冊封でもって遇した。

 トゥッチは『明史』からそれに当てはまる名を抽出している。そのひとつは「大乗法王」と呼ばれる人物で、サキャパ・クンガ・タシ・ギャルツェン(Sa-skya-pa Kun-dga’ rgyal-mchan)だ。また「闡化王」とは、パクモ・ドゥパ(Phag-mo gru-pa)。「闡教王」とは、ディグンパ('Bri-gung-pa)。「護教王」とは、タグチャンパ(sTag-chang-pa)。「仏法国師」とは、ドカム(アムドとカム)の各土司のことである。これらは見てのとおり、サキャパやカギュ派など各教派の高僧である。

 『明史』のおなじ巻には、「賛善王」という名が見える。そこには「賛善王なる者、霊蔵僧なり」と書かれているのだ。この「霊蔵」は「Gling-chang」であろう。18世紀以降これには「林葱」という文字が当てられてきた。「林蔵」はいま「林葱」と呼ばれる地域とおなじとみて間違いないだろう。『明史』は、四川の境界の外側(つまりターチェンルーの西側)に位置していて、中国(中原)よりもウ(dBus チベット中央)やツァン(gTsang ラサより西のシガツェやギャンツェを中心とした地域)のほうが近いと述べている。

 中国からネパールへと通じる一本の道がある。それは東から四川東部の罕東(Han-tong)、リンツァン、ピリコンワ(Pi-li-kong-wa, ’Bri-gung-pa ディグンパ)、烏斯蔵(dBus, gTsang 中央チベット)へと通じていた。

 ディグンはラサの東に位置する。ということは、この道はジェクンド(玉樹)とナチュカ(Nag-chu-kha)を通る北のルートであったということだ。このことからも、リン国は現在の位置とほぼ同一であることがわかる。

 1403年、明の成祖が帝位に就いたとき、僧智光が特使として派遣されている。1406年には、リンチャンのラマ、著思巴児監蔵(Chos-dpal rgyal-mchang?)が遣使として明朝の朝廷に入貢している。このラマは灌頂国師という封号を賜っている。そして、翌1407年には賛善王国師として冊封を受けている。同時に彼は金印も賜った。

 1419年、明朝は中官の様三保(楊三保の間違い)を派遣した。1425年、リンの国王が逝去し、その甥にあたるナムカ・ギャルツェン(Nam-mkha rgyal-mchan)があとを継いだ。叔父と甥の間で後継が成り立つというのは、彼らが僧侶であることを示している。当時の習慣をみると、甥(dbon-po)は僧侶と同義語であり、寺院内では役職が叔父から甥に受け継がれることが多かった。1427年、新しい王は明朝の中官侯の特使を受け入れた。

 1440年、彼は朝廷に上奏文を提出し、そのなかで自らが老いたこと、子のパンデン・ギャチョ(dPal-ldan rgya-mcho)に王位を譲りたい旨を書き記した。皇帝はそれを認めず、都指揮使という称号を賜っただけだった。

 1467年、皇帝はタルパ・ギャルツェン(Thar-pa rgyal-mchan)なる者に継ぐよう詔を発しているが、われわれは彼と老国王とが親戚関係にあるのかどうか知らない。

 のちに皇帝はナムカ・ギャルツェン・パザンポ(Nam-mkha’ rgyal-mchan dpal-bzang-po)なる者を賛善王に封じている。彼は1503年に逝去している。

 そのあとを継いだのは弟のドントゥブ・ギャルツェン(Don-grub rgyal-mchan)だった。『明史』によれば彼はリン国の最後の王である。彼は嘉靖年間(15221566)に朝廷に上貢している。

 このように中国の朝廷とリン国との密接な関係は1世紀以上にもわたってつづいていた。漢文の歴史書がリン国の存在を証明してくれるのだ。チベット語の歴史書もリン国について知らないということはない。それよりもむしろ大量の著作がリン国の重要性について述べているのだ。リン国とサキャパおよびディグンパの地は隣り合っていた。そのため多くの人はカルマパがリンへ行ったという伝説を信じているのだ。

こうした情報に関しては、われわれは歴史家パウォ・ツクラク・テンワ(dPa’o gCug-lag phreng-ba)に負うところが大きい。以下も、彼の資料によってあきらかになったものである。カルマパ5世デシン・シェグパ(De-bzhin gshegs-pa 1384-1415)の記述中にリンのことが出てくる。

 鶏の年の1393年、10歳のデシン・シェクパはまずカルマ(Karma)へ行き、それからボム(’Bom ボムチョ・チュグモ湖がある場所)へ移動した。

「ゴンギョ地区(Go-’gyo)でイナゴの大群が発生し、大きな被害が出ていた。彼は勧告文を発布し、その害を食い止めた」

 その後彼は旅をつづけ、プウォ(Pu-’bo)、そしてコンポ(Kong-po)に至った。

「かつてトガンテムル(13331368 元朝末帝)という皇帝がいた。このホル(モンゴル)の王は35年間統治した。1367年にロルペ・ドルジェ(Rol-pa’i rdo-rje)がチベットに戻ってから5年後、中国人の反乱があり、皇帝はホル地区に逃げ込んだ。明朝の太祖(13681398)が統治をはじめてからそれほど時間がたっていなかった。このとき以来大明王朝は中国、モンゴル、ミニャク(オルドスの甘州)を支配下に置いた」

 中国の皇帝成宗は、デシン・シェグパに侯顕リキャム・シャウ・キャム(li-skyam ca’u-skyam)を派遣し、都に来ることを要請した。1406年、23歳のデシン・シェグパはカルマ(チャムドとリウォチェの間)で朝廷の使者と会見した。

 デシン・シェグパはふたたび旅路についた。6程(1程で一日の行程)ほどディチュ(’Bri-chu 金沙江、長江)を下り、(テンマへ向かっていたので)ロンタン寺(Klong-thang)に到着した。

 そこで彼はリンツァンの人々から熱烈な歓迎を受け、たくさんのお布施をもらった。それから10程ほど進み、ラギャ寺に就いた。それから6程進んで(10程のはず)トムブ(Khrom-bu)に至った。彼はそこで住民から500頭もの馬を得ている。

そこから1程ほどの場所で、彼は朝廷の代表者「偉大なる大人(ta’i-zing)」の歓迎を受けた。さらに2程ほど進み、でガチュ(河州)に着いた。

 翌1407年、彼は捕らわれの身となっている大量の仏教徒(ban)と道教徒(bon, zin-cin)の解放を願い出た。皇帝は恩赦の令を発布した。またパクドゥパ、リン、ゴンギョに冊封と賜印を認めた。

 デシン・シェグパは、明朝皇帝に軍隊でもってチベットを制圧しないようにと願い出た。皇帝は同意し、大量に冊封を与えることにしたのである。パクモ・ドゥパには闡化王、ディクンパにはカウワン(『明史』では闡教王)、ツァンのタグチャンパには輔教王、リンチャンパには賛善王、ゴンギョには護教王という封号を賜った。

 このほかパウォ・ツクラク・テンワの『青冊史』の説明によれば、デシン・シェグパは1401年にゴンギョの大首領オセル・ナムカ(’Od-zer nam-mkha)の接見を受けている。彼はのちにリンへ向かっている。これらの地区はドカム地方のなかにあるようだ。