テュルク人と東ローマ帝国の間
ケサル王物語19巻(第2章参照)のうちの第15巻は「チュク(Tchou-kou)の征服」だが、この中国語音チュクは、ドゥク(Gru-gu 突厥)を表している。
この国はインド洋の彼方に見出されると考えられていた。ケサルはその国から大きな鳥(中国語で鵬、チベット語でキュン)の卵を盗み出した。彼はほかにも珍奇なものや貴重な宝を持ち出したのである。
このテーマはダライラマ5世の年代記に記された伝説と酷似している。その伝説では、ソンツェンガムポ王の大臣ラルパジンが、ドゥクの国から7隻の船満載のトルコ石の宝石(あるいはゾル、すなわち呪術的な護符)を持ち帰る。
ケサル王物語の中では、ドゥクが登場するより前に、カチェ(カシミール)の巻でトルコ石の宝石のことに触れられている。ただし、ラダック版ケサル王物語には「ドゥクのトルコ石の王」が話題に上っている。
トゥッチは歴史上のテュルク人について頭に浮かべ、船が出てきたことから、ジェクンド(玉樹)の北西にあるディチュ(長江)上流のムルス河(Murussu)のことではないかと考えた。しかしこの仮説は伝説の内容を考慮したとはいえず、成立しがたい。
またターチン(大秦。沿岸部。アラサンダの問題)とテュルク人との融合から移動についてのヒントを得ることができるだろう。ケサルは「海の彼方」のテュルク人からロック鳥(伝説の大鳥)の卵を盗ったのだ。
大秦および近隣の条支国(シリア?)は大鳥で有名で、その甕のごとき卵は安息(Ngan-si)人が中国に入貢する際に献上したという。
また大秦は海の彼方にあったので、海西(hai-si)国とも称された。この国は珍奇なものがよく知られていたが、とくに真珠ムナン(玻璃と考えられる)は有名だった。
それによって涎を垂らす金翅鳥が作られた。ムナンはサンスクリット語のスパルニであり、チベット語のダプサン(’dab-bzang)、すなわち金翅鳥、ガルダ、チベット語のキュンだった。
これについては白鳥庫吉の論文「大秦のムナン珠とインドのチンターマニ(如意宝珠)」を参照してほしい。白鳥はすでにこれらの宝石類をインドのチンターマニと比較しているのだ。
彼によれば、これらの宝石を得る者こそが世界の王、チャクラヴァルティン(転輪王)であるということが仏典に記されているという。これらのことと、ケサル王物語のエピソード、ダライラマ5世の年代記中のドゥク人に関する伝説を比較すると、世界の王というきわめて古いテーマであることがわかる。
アショカ王は宝島から戻ってくる途中の商人から海のナーガが奪った宝石を奪回している。(プルツィルスキー『アショカ王の伝説』)ターラナータの仏教史によれば、チベットにこの伝説は流布していた。チベット劇にもこれと似たエピソードが含まれていた。パドマサンバヴァの化身であるパドマ・ウーバルは、ナーガ(ル)の中に願望成就の宝(nor-bu dgos-’dod kun-’byung)を探そうとする。これは如意宝(yid-bzhin
nor-bu)である。
同様のエピソードはサホル国王インドラブティにも見られる。国王は宝を探しに商人たちと海へ出かけ、ジェ・デンマ竜王女(ナーギー)の中に見出している。
ケサル王物語の各巻を見ると、テュルク人のところへ宝を探しに行った大臣ラルパジンの名自体にケサルの名が隠れていることがわかる。
ラルパとは髪や鬣(たてがみ)を意味し、それはケサ(kesa)と翻訳されるもので、獅子(たてがみのムニ)と国王の概念を含んでいる。チベット人はこうしたことをよく知っていたのである。
ケサル王物語中、つねにケサルは「世界の偉大なる獅子(セン・チェン)王」という称号を名乗っている。そして同時に宝石とも称せられるのである。
ケサリン(kesarin)という語は獅子を意味するが、仏典中に登場する有名な宝でもあった。それは巻きひげ、あるいは巻いたたてがみを意味したが、王権という意味も持っていた。
もしドゥク人の伝説中の宝のテーマが、大秦や西方のほかの国から伝わってきたものなら、海や船に関する部分は当然類似しているだろう。
大秦に替わって用いられるようになったプロム(Phrom)を表すフリン(Fou-lin)は、6世紀には海の中の島と考えられていたが、その島の木はすべて宝石と想像された。だれもがその島へ行って大鳥が運んでくるという宝石を探し求めたいと思った。
白鳥によれば、その鳥は色界の天神王(デーヴァ・ラジャ)と称されるという。この王は毘沙門(ヴァイシュラヴァナ)とされ、「大臣遺教」では四方の「選ばれた王」のひとりである。
その方向とは、北だった。その住人はみな美しく、肌の色は赤か白だった。「大臣遺教」は北方の人の明るい肌について述べ、トム人(Khrom)が美しい身体の持ち主であることに言及している。す
でに述べたように、毘沙門は財の神ジャンバラであり、西方およびタジクと関係があった。われわれの表において、第1条と第3条で西方との関係に触れただけだが、玄奘は第4条ですでに、「海の近くの国」に宝の主(ラトナパティ)がいるとしている。16世紀には、タジクの宝王は海中で得られるものであり、船でのみ運搬できるとだれもが考えるようになった。(gzings bcas rgya-mchor phyin-nas rin-chen len)
6世紀当時(「梁四公記」)フリンは海中の島と考えられていた。
こののち、白鳥が引用するように、7世紀の文献には(釈迦方志)フリンの位置がペルシアの北西にあると正確にとらえられるようになる。しかしそれとフリン南西の島との関係が気になるのである。そこにも奇異なるもの、珍しいものがあるのだ。
ここは女国である。ここの女性たちはフリン国から男性を引きずり込み、国を存続させてきた。S・レヴィが指摘するように、7世紀、インドの物語作家は、アレクサンダー大王を暗示する地上の勝利者、アラササシュ・チャンダコーシャが女国へ行こうとしても行けなかった、と書いている。この一節は、偽カリステンによるアレクサンダーを描いた物語を思い起こさせる。
この物語の中で女国は西方に位置し、アレクサンダー大王は女国に入るのを禁止されている。レヴィが指摘するように、玄奘やインド人は女国がチベットの西部に位置すると考えていた。
かつていくつもの女国が存在した。とはいえわれわれが扱っている女国は、中国や大秦、フリンとの位置関係が明確でない。あるときはインド北西部に、あるときは海中に出現するのだ。
ラシッディーンの資料によると、あるカシミール人は(1302−1306頃)北方の仏教徒の地区をアマゾネスの国とみなしているようだ。そこの女性たちは夫を盗んでくるという。
この女国がテュルク人の伝説と密接な関係にあることは疑いない。そのテーマは西から北へ伝播したと考えられるだろう。われわれはすでにルーム(コンスタンティノープル)とシャンバラの間にある好戦的な地域の伝説に遭遇している。
ターラナータはシャンバラの夢について述べている。闘士のように見える白衣の少年がそこに行くと、住人はほとんどが女性だった。アレクサンダー大王のローマ人とケサル王物語の内容とは共通点が見られる。とくに北方に関する見方には特別な意味があるようである。
このように西方は富、北方は美貌と勇敢といった傾向があることを見てきたが、実際は混乱している面もある。ドゥクのケサル(プロムのケサル)は、ドゥクの船と豊かさによって解釈されうるだろう。
イランと東ローマの間にも混乱があるだろう。しかしその他の例証からその意味を説明することは可能だ。
中国のネストリア派(景教)寺院とマニ教寺院は早くには波斯寺、のちには大秦寺と呼ばれた。この大秦は、もともとフリンと呼ばれていたのである。大秦と波斯の間の何度もの変化はチベット文献の中にも出てくる。それはタジクとクロムの間にも言えることなのである。
パオツラグテンワは彼のチベット医学に関する記述(「賢者喜宴」)のなかで、文成公主の時代(641−680)、3人の医者がチベットへやってきたことを記している。ひとりは唐朝から、ひとりはインドから、ひとりはタジクのクリム(おそらくクロム)から来たガレノス(!)という医者だった。
のちの金城公主の時代(710−739)、クロムからビチツァナ(ツェン?)バシラハという名の医師がチベットにやってきて、ツェンポ(国王)の専属医師となり、広く尊敬を集めたという。クロムはタジク(イラン)の一部であり、名医ガレノスの名が現れるなど、ギリシアの影響も感じられる。
大秦(プロム、あるいはクロム)の医師は8世紀中葉の中国ではよく知られていた。インドにおいては同様にヤヴァナという医師が知られていた。老子の化身もまた医学の王として同様の地域に現れた。クロムの医師ビチは「白瑠璃」(Vaidurya dkar-po)を著し、そのなかで四方分類法を考えたトカル(Thod-dkar)の医師ビジ(Bi-rji)とよく似ている。
ここにおいて、財を築いた者としてのタジクと力ある者としてのケサルは併存できている。
ラマの作者たちはトカル人たち、とりわけホータンの人々をモスレムとみなしているが(トカルは白い布の意)、その語のルーツは吐火羅(インド・ヨーロッパ語族のトカラ人)かトゥルスカ(テュルク)人に求めることができるだろう。
ある民族の主題がほかの民族に伝わるという図式は、歴史的事実から支持されうるものでる。これに当てはまるのは、まず月氏(インド・スキタイ、トカラ)であり、ついでテュルク(突厥、ドゥク、トゥルスカ)であり、のちにはホル人である。よく知られたテュルクの称号であるヤブクは、クシャン人が月氏を併合することによって継承された。月氏は白いフン(エフタル)によって滅ぼされる。この新しい局面は6世紀に起きたことである。
突厥人は北方の騎馬民族だった。7世紀になると月氏が占めていた位置を彼らが占めることになる。8世紀から9世紀にかけては、突厥人の位置をウイグル人がかわりに占めることになる。
ただしわれわれは歴史上のこの面を強調しすぎるべきではないだろう。この図式はつねに混乱し、曖昧模糊としているからだ。チュグは突厥と似て、それはドゥクと考えられ、またウイグルとも近いのだ。
敦煌写本の中の九姓ドゥクの首領はウイグル都督と呼ばれる。その一部はウイグル部(ホ・ヨ・ホル)である。九姓ドゥクは中国人のいう九姓胡であり、イスラム教徒のいう九姓ウグスである。この語からわれわれはドゥクの正確な位置を知ることができる。
「ホータン授記」によって、チベット文献のドゥクが漢文の突厥であり、ホルがウイグルであることを確認できる。後期のチベット文献においては、ホルがドゥクにとってかわり、テュルク人やモンゴル人に使われていることがわかる。われわれはケサル王物語において、ホルやドゥクがいかに重要であるかを知っている。彼らがチベットの北西に位置し、ホル人(モンゴル人)がそこに居住していることも知っているのだ。