称号カイサルの運命 

 われわれはもう一度、北西アジアの接点の問題に戻らなければならない。

さて、トカラ(トゥカーラ)はトゥルスカに取って代わられた。カニシカ王はトゥルスカ人の可能性があるが、8世紀のガンダーラの突厥人(テュルク人)はたしかに彼を先祖だとしているのである。歴史学や考古学が示すのは、クシャン人としての彼は、ローマ帝国と浅からぬ関係をもっていたことである。

皇帝の意味をもつカエサルという称号を、当然クシャン人も知っていただろう。ただしその直接的な証拠は出ていないのだが。少ない例として、紀元262年のローマ皇帝と軍隊に関するイランの碑文にカエサル(Kysr)という語が見出される。

294年のパイクリ碑文には、ナルセー国王が祝賀を述べる相手として、クシャン・シャー、ケサレ(カエサル)、フロム(Hrome)、ホラズム(Xvrazmn)シャーなどが挙げられている。

ケサルとフロムが並んでいるのは奇妙なことである。というのもそれらは同じ地域、同じ国王を指すと考えられるからだ。それともわれわれの解釈が間違っているのだろうか。しかしこれだけは言いたいのだが、ずっとのちのチベット文献にも、同様の描き方がされているのである。つまり軍人の王であるケサルと善良なる人々の地域であるクロムが併記されているのだ。

3世紀末になると、ケサルやカエサル(Kysr)という語がイランで見られるようになる。この称号はマニ教徒が中央アジアに伝えたものであるが、ソグド文ではケーサラカーンとなっている。

福音書中のデーナリオン(ローマ時代の金銀のコイン)はカエサル(Cesar)のコインである。彼ら(ソグド人)によってこれらは中国北西部にまで持ってこられたのだろう。アウグストの像が描かれた金のコインはインドでも使用されたのである。

6世紀、西域諸国の金銀コインは中国の河西地区(中国西北)でも使用された。ササン朝ペルシア(2−7世紀)の銀貨は幸運をもたらすと考えられた。それらはローマやインドだけでなく、トルファン、クチャ、西寧、中国中原でも発見されている。

これらの図像は、ホータンやチベットにおいてヴァイシャラヴァナ(毘沙門)の影響を受けたかもしれない。国王の王冠やケサル詩人(語り手)の帽子には、あきらかがにそれらの影響が認められるのだ。

6世紀から7世紀頃、ソグド人はすでにオルドスや沙州地区に定住していた。彼らはテュルク人やビザンツとの間に通商関係を築いていた。彼らはカエサルという称号を、チベット東部や中国西北(そこにはミニャクという国があった)に広めたのである。

それより前、すでに月氏のなかの胡人(イラン人)や漢人、羌人(チベット人)などが広めていた。マニ教の伝播に関するソグド文には、カエサル(Kysr, Cesar)に関する記述がみられる。このカエサルに関する神話がケサルに受け継がれているかどうかだが、そもそもこのカエサルが民間伝説のカエサルなのである。

遺憾なことには、このカエサルと強盗団の民間伝説は不完全である。それは神聖なる守護神ファルンの話である。ファルンはその名を冠した国で、王冠を冠り、王衣を着て登場する。

われわれはまた、8世紀のホータンのヴァイシュラヴァナ(毘沙門)について書かれた文と出会う。そこにはカエサルが変化したケイサラ(Kheysara)が登場するのだ。