国王即位のための競馬会
第1部を締めくくるエピソードは競馬である。英雄はここでは身なりも生活も卑しく、名をジョルと言った。この1部と2部は対照的である。2部ではケサルと呼ばれ、悪魔や最前線の敵と戦う威厳ある王である。冒頭部分(国の整備、部族の起源、リーダーの必要性と探索、英雄の奇跡的な誕生)とこの部の末尾部分(勝利者が王位に就く競馬、婚約と守護神登場)との間に起きたことといえば、ジョルの追放とマ(rMa)地域の獲得ぐらいのものである。
最後の章でわかるのは、新年の祝賀がこのエピソードの背景にあるということである。祝賀には国王と想定された者や道化師が登場する。最後に来るのはきまって競馬だ。
すでに述べたもの以外にも、たとえば聖なる山を祀るとき、石を積み上げる。このような祭祀活動のときにも、戦士や馬が参加する競技はつきものだ。
一回の競馬で勝った者が王位に就くという事例はほとんどなく、社会制度としてあったという解釈も成り立たないだろう。ケサル王物語のなかで、ジョルの口を通してそのことを言っている。競馬は一種の儀礼なのである。こうした競馬は、特別な時代や祝祭のときに挙行される。
「リン国の競馬は、人を驚かせる競技だ。インドの宗教王なら、競馬によって王位継承者を決めるなんてことはありえないだろう。中国の王はもちろんのこと、地上の18隅の多くの王国においても、そんなことはありえない。しかしリン国においては、国王は馬によって選ばれるのである。ということで、ふたりの乞食、ジョ(ジョル、ケサル)とグル(rGur、rGu-ru 乞食の子)も馬に乗る。もし彼らがだれよりも速く走ったなら、リンの国王になってしまうのだ。もしそうなったら、そしてドン氏族(gDong)の褐色大部落の王室の子息が速く走れなかったら、彼はリン国王家の下僕の身に落ちてしまうかもしれない。こんな奇跡がありえると思うかい?」(リンツォン版、第3章、89a)
この主題は民俗においてはごく一般的である。つまり祭礼のなかで、競技に勝った者が、その社会的地位に関係なく、ひとりの女性を獲得するのである。リンツォン版に関して私が注釈を施したものを読んでほしい。そこに書かれているように、競馬で争われる賞品は王位と宝物であり、それに美女が含まれることがある。ここでは社会的階級の高い人物が競馬に参加できる。王を称するには、この種の儀礼的な競馬を挙行しなければならない。この習俗は広い地域で見られる。
この種の聖地における競馬は、聖なる山で、習慣として決まった日に開かれ、人は名誉をかけて参加する。ジョルのライバルである叔父のトトンは、この競馬会を冬に開催することを望んだ。チベット暦12月15日の法会のときがよいと思われたが、長老のチプン(spyi dpon 総官)は、5、6か月先延ばしにしてしまった。
それが開催されたのは、夏の最初の月であるチベット暦4月の15日だった。その日は神々が集合する日と考えられていたのだ。(リンツォン版、第3巻、13b 14a 17b 20b lha dkar-phyogs ’du-ba’i dus-chen)
このためだれも、新年にするか、夏の3か月にするか、ためらうことになった。それゆえわれわれは、実際の状況を見ることにしたのである。この祭礼のひとつは、戦神(dgra-lha ダラ)の将軍(dMag-dpon マクポン)を祀るものである。このとき霊媒はトランス状態に陥り、若い男女は歌を交互に詠み合う。この祭礼は「神の会合」(lha-’dus)と呼ばれ、6月3日におこなわれる。
リンの競馬は、石積みのオボ(ラツェ)でおこなわれる儀礼を伴う。英雄物語中も、奇跡の受胎のときにその儀礼がおこなわれている。それには13本の槍、13本の矢、13か所の石積み(bses-mkhar セカル)、13のお香を捧げる所(bsang-khang
サンカン)を用いる。(第3巻 21a)[訳注:セカルの綴りはおそらくgsas
mkhar]
二つの山(ひとつは天上の神々の山、もうひとつは地下の神々、すなわち竜の山)がある。これらは演劇の舞台とお香(サン)を焚いて捧げる聖なる場所である。
神々はここに降り立つ。彼らは観衆のなかに入り、人間と混在している。(第3巻 100a 101a)
各種の神々のリーダーたちが競馬に参加する。それぞれがリンの家系に属している。それぞれの氏族は色で識別されることが多い。(たとえば、ニェン神は黄色で表わされ、長系部落を意味する。第3巻 2oa 71a)[訳注:長系che rgyudのほか中系’bring rgyudと幼系chung rgyudがある。リン国の三大王系]
この色は、ケサルの語り手と、競馬のときに歌ったり踊ったりする人々がかぶる帽子の色、また石積みのオボの上に掛ける旗や幟の色とおなじである。その色が欠けると、夏の祭礼の時期に、雹が降ったり、嵐が来ったりする危険性がある。
リン国の競馬の出発点はアウィ(A-wi A-yu)三山だが、それぞれの山で動物の頭を持った女神が支配する。この女神たちは、群衆が山を踏み荒らしたことに腹を立てた。そして競馬をやめさせようと、雷鳴を轟かせ、暴風雨を起こした。ジョルはこれらの女神を調伏した。(第3巻 81b)
われわれは競馬の社会的背景に注意を払う必要がある。ケサル王物語自体が教えてくれるのは、物語のなかの歌は、聖山の祭りの影響を受けていることである。儀礼的な競馬が円満に終了したときに歌う賛歌から喚起されたのだ。
さらにケサル王物語自体が教えてくれるのは、競馬の場面に長時間が割かれるということである。仏教の普及のために、口承文学は必要不可欠な存在なのだ。(第3巻 20b)
他の場所でも(たとえば「モン・リン戦争」Leyde, p2)編集者は、不信心者にこのエピソードを広めることを禁止している。(thig-snying gi rgyud las タントラであり口承のみであること)それは競馬の歌の参加者のみに許されるのだ。(rta-rgyud-pa’i le’u-glu)
ここは注意深く見なければならない。古代から(ソンツェンガムポ王やティソンデツェン王)その晩期まで(グル・チュワンの13世紀)土着の歌や物語があったのは事実である。(sgrungとlde’uすなわち物語と謎かけ歌)それらは仏教の題材と比較され、照合され、結合されたのである。
チベットにおいて、仏教の伝説を伝える役目を担っていたのはニンマ派(つまりゾクチェンパ)とカギュ派の詩人だった。それはあきらかに語り手(吟遊詩人)の歌、歌手、滑稽劇の演者らの口承文芸に相当するものである。
われわれは、現代のケサルの語り手や競馬ぼときの歌い手が、古代のケサルの語り手や謎かけ歌の歌手の継承者であることに、何の疑いも抱いていない。
リンツォン版からつぎのようなことがわかる。競馬のゴール地点であるグラジャ(Gu-ra-rja)で、聖山と天に向かってサン(bsang 香を焚くこと)を捧げて浄化儀礼をおこない、戦神(dgra-lha)の栄光をたたえる歌をうたう。ケサルが変身したもののなかでも、この戦神は代表格といえる。戦神のなかの首領はヴァイシュラヴァナ(毘沙門天)であり、そのレリーフが作られる。ヴァイシュラヴァナは「謎かけ歌がうまく歌える者」(le’u-sgrub-mkhan)と呼ばれる。(le’uはlde’uのバリエーションである)
このようにケサル王物語の第1部を解釈することができるのだが、それだけでなく物語全体を同様に解釈することができるだろう。多くの人が指摘するのは、これらは教育的なもの(世界の地理、氏族の分布、病気など)や系譜の知識、馬の賛辞、馬・帽子・叙事詩の「解釈」(象徴性の解釈を伴う賛歌)などを含んでいることである。
このようになぜケサルという英雄の名が選択されたが理解できる。仏教伝説には戦神と馬という組み合わせは珍しくない。また、土着の伝説では通常、聖山が戦神の姿を取って現れる。戦神はしばしば単に「戦争の首領」と呼ばれることがある。競馬や兵器を供えることによって、それにはさらに栄誉が加わる。
このふたつの概念は容易に結合した。ケサル王物語が形成された地域のひとつであるアムド地方に、かつて「北の戦神」と称する首領が現れたことがあった。たまたまなのか、その称号は仏教伝説中のケサルの称号と一致しているのである。また、戦神と8兄弟の像は、ヴァイシュラヴァナ(毘沙門天)の像とよく似ていた。
さて、競馬の勝者が部族の首領に選ばれ、兵器や宝物が授与されるというのは、聖山と祖先を祀り、共同体の統一をはかる儀礼と解釈することができる。ではおなじ勝者が女性を獲得するというのは、やはり統一のためだろうか。山における男女の歌比べは、結婚のための序曲であることと、関係しているかもしれない。
こうしたことから、われわれは確固とした結論に至ることができる。すなわち古代の対歌、隠喩や諺を入れた謎かけ歌、ボン教の概念が混じった物語などに、また現在、聖山を祀るときや新年の祝賀期間中の歌、競技、儀礼、これらと関係した伝説のなかなどに、「ケサル王物語」の源、すくなくとも源のひとつを見出すことができるのだ。内容と動機はここに結合するのである。ただしそこには作者の表現力の誇りがある。たとえ話や古い言葉、自然から借りた表現などによって表現することもできるだろうが、ケサル王物語がもっとも適した方式だったのである。
よく知られるように、散文形式で物語が叙述される部分は、厖大な歌の部分と比べると、全体のなかで占める割合はきわめて少ない。歌は、輪唱か対唱である。輪唱といってもふたりの間の歌のかけあいである。この特徴は、歌い始めるときに自分の家について明かすことである。
「あなたは私のことがわかりますか? 私は○○です」というふうに始める。場所や家族、馬などの状況について説明する。
いろいろな状況が考えられるが、敵対する者と対することもある。その内容は挑発的であったり、法螺の吹きあいであったりする。美辞麗句を並べたり、苦労を揶揄したり、両者ともおおげさに言いたがる。こうしたことは祝賀の祭礼や競馬のときの雰囲気を反映しているのだといえる。互いに言い合い、対抗し、競技では名誉を得ようとする。
リンの競馬では、競い合いながら、互いに「中国からインドまで駆けてはどうか」とか「地上から天上まで駆けて競争するのはどうか」などと話しかけることもあった。
(第3章 18b-19a)
祭礼のとき、まず自己紹介をしてから、敵と戦うという形式を取ることはよくあることである。こういう言い方は、実際に敵に対しているときにも用いられる。
このような表現方式は、劇や叙事詩と共通するものがある。実際、チベット劇には「あなたは私を認識するか」といったフレーズが用いられるのだ。それぞれの物語には、物語を語る人が存在する。それは猟師や漁師、野人、バラモン僧、ときには道化師である。演者はひとつの対話以外は、延々と輪唱をつづける。
「ケサル王物語」に関していえば、語り手は韻を踏んで賛歌や散文を語る。彼はひとりで対するふたりの役を演じる。彼は説唱芸人であり、賛歌をうたう歌手であり、滑稽劇の演者であり、シャーマン的性格を持った語り部であり、謎かけ歌の歌手であり、ボン教の専門家でもあった。