スーフィズムの真髄 

ジェームス・ファディマン ロバート・フレージャー 宮本神酒男編訳 

スピリチュアルな体験 

 

私は鉱物として死に、植物になった 

私は植物として死に、動物になった 

そして私は動物として死に、人間になった 

それならば死を通じて消えることの何が恐いだろうか 

こんど私が死ぬとき 

翼が生えて、天使のように生まれ変わるだろう 

そのあとさらに高みへ 天使よりも高みへ飛翔するだろう 

そのときあなたが想像することもできない何かに 

私は変身していることだろう 

(ルーミー) 

 

およそ三十年もの間、私は神を探してきた 

しかし注意深く観察することによって私は理解することができた 

探しているのは神であり 

探されているのが私であることを 

(バーヤズィード・バスターミー) 

 

本質を見つけることができたとき 

あなたはなお形を欲するだろうか 

命の水を飲んだとき 

なおもそれを入れるグラスが必要だろうか 

(ルシャッド・フィールド) 

 

私たちはあなたのなかにモノを、探している、渇望しているモノを置いた 

そして私たちはそれをずっと見ている 

それが失われることがないようにと 

しかしそれは運命づけられた場所へと運ばれるだろう 

(ルーミー) 

 

 「神」という言葉を発し、即座に立ち上がるといい。するとあらゆる苦悩が雨あられのごとくあなたに降ってくるだろう。預言者はこうおっしゃった。

「われらの信仰があるところ、人を根底から変えずには、家を一掃せずには、人を洗い清めずにはいられないだろう」

 こうしたことからあなたに平穏は訪れないだろう、訪れるのはむしろ痛みだ。悩みの種によって、喜びと当初の無知から来る楽観は底をつくことになるだろう。

 困難にも耐えよ。「困難を食べる」とは、食べ尽くすということである。すべてがなくなったあと、喜びがあらわれる。困難を知らない喜び、それは棘のないバラ、二日酔いを起こさないワインである。

(ルーミー) 

 

 喉が渇いてコップから水を飲むとき、あなたはそこに神を見るだろう。神を愛さぬ物がそこに見るのはおのれの顔だけだ。 

(ルーミー) 

 

 普通の人にとって沈黙とは舌に関することである。神秘主義者にとって沈黙とは心に関することである。愛する者にとって沈黙とは、もっとも奥深いところへ思いが迷い込まないことである。 

(民間伝承)

 

 恋人たちは、彼らが必要とするほどしか人と話をしない。

 彼らはたいてい彼らだけでいることを望み、彼らだけで話をしたいと考える。最愛の人と甘いときを過ごしたがるのだ。彼らはつねに瞑想状態にあるようなものである。過度なおしゃべりは楽しまず、むしろ話をしないほうを好む。彼らが理解できるのは神のことだけである。

 彼らは災難に遭ったとき、ぼやいたり不平をこぼしたりしない。彼らは災難が「友人」からやってきたことを知っているからだ。災難には恩恵が含まれていることを理解しているのだ。それをもたらしたのは聖なる愛であり、それが彼らを愛の炎のなかに投げ入れたのである。帽子をかぶらず、はだしで、着るものもわずかであれば、その者は何事も心配することはないだろう。

 彼らが聞くのは神の言葉だけである。神を思念すること(*ズィクル)をやめようとしない。彼らはすべてのものに神の美を見る。彼らが求めるのは神だけであり、渇望するのは神の喜びだけである。

(シャイフ・ムザッファー) 

 

 ある日ハサンの隣に坐っていた男が、水の入ったタンブラーから生きた魚を取り出すという奇跡を見せた。するとハサンは燃えさかるオーブンの上に手を置き、生きた魚を取り出してみせた。男はハサンに、ともに火に飛び込んでどちらが生き残るか競おうと、挑戦状をたたきつけた。ハサンはこたえた。

「そんな安っぽい奇跡なんかどうでもいいさ。いっしょに非存在の海に降りていこうじゃないか。そして聖なる存在の衣を身にまとって戻ってくることにしよう」 

 男は黙りこくった。

(アッタール) 

 

 だれかが食べている姿を見ても、あなたの飢えを癒すことはできない。だれかのスピリチュアルな体験もあなたのスピリチュアルなものへの渇望を満たすことはできない。

(民間伝承) 

 

 いま、愛を主張する人々にたいし、つぎのような質問を掲げたい。

 どれだけ頻繁に愛する人が神のために涙を流し、拭ったか。

 あなた自身、一滴でも神の愛のために涙を流したことがあるだろうか。

 いままでに幾晩、あなたは神の愛のために眠ることができなかっただろうか。

 神の愛のためにあなたは何を犠牲にすることができるだろうか。

(シャイフ・ムザッファー) 

 

 スーフィーがすることのすべてを神がお喜びになる、そのために神がなされたことすべてをスーフィーは喜ぶ。

(アブ・サイード) 

 

私は心の中であなたを抱く 

揺すぶって、うたって、あなたを眠らせる 

あなたはだれのなかにも、どこにもいる 

私たちのなかの聖なる赤ん坊 

どこででもあなたは遊んでいる 

 

美しい者よ 

私たちが愛するときにあなたは生まれた 

輝く子どもよ 

 

あなたは心の中に花開いた「意味」である 

(バワ・ムハイヤッディーン) 

 

 「下等な自身」から抜け出し、友情のそよ風を感じた者はしあわせである。彼の心は愛する者で満ち溢れ、ほかの者の入る余地はない。愛する者はすべての血管と神経を通って体中に沁み渡る。身体のすべての細胞が「友人」で満たされる。

 真の恋人は彼ら「自身」につけられた香りも色も感知しないだろう。愛する者以外に興味はないのだ。彼らの心が王座や王冠に執着することはもはやない。貪欲と欲望は荷造りして彼らの居場所から出ていくだろう。もし彼らが話をするなら、それは「友人」にたいしてだけだ。もし探すとするなら、それは「友人」のほうからだ。彼らはもはや自分自身のことは考えない。愛のためだけに生きていく。彼らは「生(なま)」を去り、「熟」へと向かう。そうして自分自身を完全に捨て去る。

(ジャーミー)