五人の聖者 

スンダル・シン 宮本神酒男訳 

 

 かつてガンジス川上流のハリドワルで、釘のベッドに寝ているサドゥー(行者)に会ったことがある。私は彼のところへ行ってきいてみた。
「なんの目的のために自分を傷つけ、苦しめるのですか」
 すると彼はこたえた。

 なぜこんなことをしているかだって? あなたもサドゥーのひとりなら、知らないわけもあるまい。これはおれの苦行だ。おれは肉体とその欲望を破壊しているのだ。おれはこのようにして神に身を捧げている。欲望のなかの罪と悪の痛みをおれははっきりと感じることができる。こうした痛みは釘の痛みよりもはるかに大きいのだ。おれのゴールはすべての欲望を殺すことであり、つまり自分自身からの解放と神との合一を探すことである。この修行をおれは18か月つづけてきた。しかしいまだにゴールには到着していない。じっさいそんな短い時間のあいだに解放を得ることはできない。それは何年もかかるだろう。もしかすると解放を得るまでに、さらに多くの転生が必要となるかもしれない。

 私はこの男の人生について考えてみた。真の平安を見いだすために多くの転生を通じて自分自身を虐げる必要があるだろうか。この人生においてゴールに到達できなかったとしても、転生した人生においてゴールできるチャンスがどれだけあるというのだろうか。何千もの人生において何千もの可能性があるというのだろうか。そのような平安は私たちの努力によって得られるだろうか。それは神からの贈り物ではないだろうか。たしかなことは、私たちが探し求めているのは神の生であり、肉体の死ではないということだ。

 私は苦行をおこなっているもうひとりのサドゥーと会った。足にロープが結わわれ、木の枝からさかさまにつりさげられるという苦行である。苦行を終え、木の下で休んでいる彼にたずねてみた。

「なぜこんなことをするのですか。この苦行の目的はなんですか」すると彼はこたえた。

 木からさかさまにつり下がっているわたしを見て人はみなびっくりします。でも思い出してください。創造主はすべての子どもが母親の子宮のなかで頭を下にするよう創っておられます。これが神につかえ、苦行をするわたしの方法なのです。世間の目から見ればこれは愚行でしょう。でもこの修行のなかでわたし自身や他者に、わたしたちすべてが罪にとらわれていて、神の目から見ればさかさまであることを知らしめているのです。わたしは何度も、何度もさかさになります。神の目から見てさかさでなくなるまで、それはつづくのです。

 世界がさかさまであり、道が逆であるのは真実である。しかしわれわれ自身の強さによって自分自身を正そうと望んでもいいものだろうか。ただひとりまちがったものをただし、悪い考えや欲望からわれわれを解き放つことができる神のほうを向かなくていいものだろうか。

 のちに私は別のサドゥーと会った。暑い夏、そのサドゥーは4つの火のなかに坐っていた。頭上には燃えるような夏の太陽が照っていた。冬になると、彼は氷のように冷たい水のなかで何時間も過ごした。しかし彼は自身の修行を悲しみと絶望でもって表現した。彼はこの修行をすでに5年間おこなっていた。私は彼にちかづいてたずねた。

「この修行から得るものはありましたか? 何を学んだのでしょうか?」

 しかし彼は悲しそうにこたえた。
「わたしはこの生でなにも得たいと思わないし、学びたいとも思っていません。将来もおなじで、私はなにもいうことがありません」

 翌日私は沈黙の誓いをたてて修行しているサドゥーに会いに行った。彼は純粋に真実を探し求めていた。彼は6年間も話をしていなかった。彼のところに行って私は質問をぶつけてみた。

「神が舌を与えてくださらなかったら、我々は話すことができなかったでしょうか。なぜあなたは沈黙を守るかわりにあなた自身の舌を用いて創造主を崇拝し、ほめたたえようとしないのでしょうか」

 高慢さも傲慢さもなく、彼はスレートに文字を書いて私に示した。

 あなたは正しい。だが私の性格はまがっているので、口からどんないいことばが出てくるとも思えない。私は6年間沈黙を守ってきた。でも性格は悪いままなので、他者を助ける祝福やメッセージが得られるまで沈黙を守ったほうがよさそうだ。 

 かつてヒマラヤ山中で仏教徒の隠者から学んだことがあった。この老いたラマは山の中の洞窟に住んでいた。彼は洞窟の内側から石壁を築いた。空気を入れるための小さな穴をのぞけば密閉状態だった。彼は洞窟から外に出ることはなかったが、お茶と麦こがしだけが運ばれ、小さな穴から入れられた。相当長い間暗闇の中で生活したので、彼は盲人になってしまった。そこで彼は残りの人生を洞窟の中で送ることにした。この隠者を見つけたとき、彼は祈りの言葉をとなえ、瞑想に入っていた。それで私はそれらを終えるまで待った。それから私は彼と話ができるかどうかたずねた。私たちは互いの顔を見ることはできなかったが、壁の小さな穴を通して会話をした。はじめに彼は私の霊的な旅についてたずねた。つぎに私が彼にたずねた。

「こもって、瞑想をして、あなたはなにを得ることができたでしょうか? ブッダはわれわれが祈る神については何も教えていません。ブッダにたいしてあなたは祈っているのですか」すると彼はこたえた。

 私はブッダに祈ります。しかし祈ることから、あるいはこもって生活することから私は何も得たいとは思っていません。むしろまったく反対なのです、得るという考えから脱する道を探しているのです。私はニルヴァーナ、すなわちすべての感覚や欲望を滅した状態を探しているのです。それが痛みであっても平安であっても、です。しかし私はいまも霊的な暗闇のなかにいます。最後にどうなるか私にはわかりません。たしかなことは、いま欠けているものは、別の生においては得られるだろうということです。

 私はそれにたいしてこたえていった。

 たしかにあなたの渇望や感覚は、あなたを創った神から生まれています。それらが満ちるために創られたのであって、壊すために創られたのでないことはまちがいありません。すべての欲望の破壊は解放を導き出しません。それは自殺行為です。われわれの欲望は生の継続と分かちがたくからみあっているのではないでしょうか。欲望をそぐという考えも、益のないことです。欲望を解放や平安ととりかえることができるでしょうか。欲望をそぐことによって平安が見つかるものではありません。それを創造した者のなかにその充足と満足を見つけることによって平安が探し出されるのではないでしょうか。

 隠者は会話をやめて、つぎのようにいった。
「私たちは私たちが見るであろうものを見るだろう」


(つづく) 

 

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