スヴォボーダのプラクリティ論 

序 

 自然とそのふるまいは、死すべきものにとってはまことに謎である。もしあなたが西に向かって旅をはじめたとしても、自然があなたを東へ向かわせたかったら、あなたが東に向くまで道を曲げるだろう。

1973年3月の凶日(イードゥース)に米国を出発したとき、私はインドで生活することになるとは想像すらしなかった。オクラホマ医学大学での9月新学期が始まる前に、短期間アフリカで過ごせればと考えていただけである。

 一か月後、アイヴォリー・コーストのアビジャンで、すさまじい赤痢に見舞われた私はベッドに仰向けになっていた。ふたりのフランス人が私に同情し、週末を過ごせるよう私を彼らのアパートに運んだのだった。その間に彼らは医者を探していた。

じつは彼ら自身、「ウイッチ・ドクター会議」なるもの、すなわち密林のヒーラー、呪術師、トランス霊媒の集まりを企画していた。彼らのガイドがそもそもウイッチ・ドクターだった。彼がやってきて、ベッドの上でひどく消耗しきっている私を見るや、この患者を治療したいと彼は言った。私は衰弱しきっていたので、異を唱えることができなかった。

 彼は三十代のたくましい体をした身なりのいいアフリカ人で、銀行員と見間違われてもおかしくなかった。私に考えるだけの余力があったら、もっとも尋常ではないウイッチ・ドクターと彼をみなしていたかもしれない。しかし衰弱して思考能力がなかったので、彼が私の頭の近くで水差しの純水をグラスにそそぎ、それをじっと見つめ始めたとき、私は何も考えていなかった。彼がそのグラスに向かって呪文のようなものを唱えている様子を私はぼんやりと見ていた。彼はグラスを私に渡し、水を飲ませた。

 促されるままに私は水を飲んだ。たとえそれに効果がなくても、水が害を与えるということはないだろうと確信して。ドクターとフランス人たちは私に「アジュー」と声をかけた。私は深い眠りに落ちた。

 何時間か後に目覚めたとき、病気の不快さとともに意識がよみがえってくるものと思っていたのに、意外にも内臓の調子は穏やかだった。その日も、翌日も調子は悪くなく、その後もずっと穏やかな状態がつづいた。この穏やかさは、病気にたいする食餌療法の効果としていまでは認識できるものである。この件から学ぶことは多かった。シャーマンは一時的に私を治すことができたが、私のほうからすれば、信仰の力に効果があったというわけではなかった。

 回復期にあったつぎの数日間、私はそのアパートで「あるヨーギの自伝」を読んだ。それは内なるコンパスをインドへと向けさせた。

 しかしつぎの一歩を踏んだのはケニアの地だった。私はケニア民族博物館の民族学調査チームに参加し、ポコット族の地域に遠征したのである。私は部族の儀礼に招待され、参加した。私は男女のメディスンマンに聞き取り調査をし、同行したヨーロッパのドクターと意見交換をした。ドクターは部族の伝統的な治療法に一定の効果があることを認めた。ポコット族の医学をもっと研究することを決心し、南アジアを訪問したあとケニアに戻ってくることを誓った。

 降り立ってすぐにインドのことが嫌いになり、私はネパールに駆け抜けた。そこでピース・コープスの医師からアーユルヴェーダという言葉をはじめて聞いた。

 1974年1月、ダライラマが主宰するブッダガヤで行われたカーラチャクラ・イニシエーションに参加するため、インドに戻った。カーラチャクラによって私はヨーガの実践的利益について知り、インドに関するさまざまな不安があったにせよ、古代の身体的、精神的、霊的ヒーリング技術を研究するためにも、ここに残るべきだと確信した。