ウイグル族の村で見たシャーマン儀礼

 タクシー運転手から忠告を受けるまで、私はむしろ有頂天になっていた。およそ十年前から、どこかで読んで知ったハミ郊外のウイグル族の大バクシ(シャーマン)に会いたいと考えてきたのだが、その日念願がかなったのである。あまりに物事がうまく進むので、なにかしっぺ返しをくらうかもしれないと、ふと思ったほどである。

 四堡村はハミの市街地から70キロも離れたゴビ(砂利の多い砂漠)の中にあった。ハミの街中は中国のどこでもそうであるように、近代化の波を受けて、こぎれいでモダンな町になっていた。しかしこのあたりはのんびりとしていて、十年前、二十年前と変わらない。タクシーは綿畑やスイカ畑のあいだを抜けて、村へ入った。道を歩いている人たちに聞いてまわって、すんなりと大バクシの家をつきとめることができた。しかし残念ながら97年にバクシは亡くなっていた。私が会いたいものだと考えたとき、死の床についていたということになる。私は未亡人と会い、昔の写真や遺品をみせてもらった。

 私は大バクシが故人になっていたことを知り、すこしがっかりしたが、30キロ先には魔鬼城と呼ばれる砂漠の中に奇岩が乱立する景勝地があるので、心はそちらのほうに移ろうとしていた。

 そんなときに、じつは跡継ぎがいるという情報がもたらされたのである。大バクシの甥にあたり、17歳のときから学んできたムハマドという現在40歳の男性だった。私がムハマドに会ったのは翌日、ハミの市場の前だった。りりしい、というより筆で乱暴に「」と書いたような眉毛が特徴的だった。体格がよく、ウイグル帽を被っていて、シャーマンというイメージからは、相当かけ離れていた。布市場で我々はピンク、黄、緑など数色の布を買った。そのときは何に使うのか、正直なところわからなかった。

 翌朝、町外れのイスラム教徒用のニワトリ屠殺所で活きたニワトリを買い、村へ向かった。親戚中の人が集まって準備がはじまる。正直、私はこの時点では治療儀礼が行われるかどうか、十分把握していなかった。

 バクシの実家の一部屋で儀礼はおこなわれた。中央の床のレンガをはずし、天井を壊し、たてに丈夫なロープを張った。アクシス・ムンディ、すなわち宇宙軸という語が浮かんだ。古代遊牧民族の突厥人の宇宙観である。天井のあたりのロープに色とりどりの布切れが飾られた。今も、ウイグル族の故郷というべきバイカル湖周辺のシャーマン儀礼で、白樺の木にこうした色とりどりの布切れを飾る。北方の遊牧民族の頃の記憶はこうして息づいているのだ。

 いよいよ儀礼がはじまる。片面太鼓を持った三人の助手は先代のバクシの助手もつとめた老人たちである。患者(50歳代の女性)は白の被り物を深くかぶって目を覆い、ロープにしがみついている。目隠しをすることで、バクシだけでなく、患者もトランスに入るのだ。太鼓を打ち鳴らしはじめる。リズミカルで、見ているこちらもノッてきてしまう。助手らは歌い始める。歌の内容はほかのところで説明することにしたい。

 バクシは神剣や鞭をもち、歌い、踊りながら、ロープと患者の周囲を反時計まわりにまわっていく。もうひとりの助手の女性が部屋の周辺にろうそくを灯していく。バクシは「悪霊よ、去れ」と唱えながら、神剣をふりかざす。活きたニワトリを患部にあてて清めたあと、さらに白熱し、バクシは患者を蹴っ飛ばし、あげくは踏みつける。ほとんど、というか、まったくもってエクソシストの世界である。

 一連の儀礼が終わったあと、裏庭に出て、バクシはたいまつの火で患者を清める。ゾロアスター教(拝火教)の名残ではないかと思ってしまうが、まんざらありえない話でもない。敦煌文書には、伊州(ハミ)のゾロアスター教徒が都長安へ行き、神降ろしをし、刀で腹を切るなどのショーを見せたという記録が見出されるのだ。

 ウイグル・シャーマンの際立つ面は、中央アジアの遊牧民だった時代のシャーマニズムの名残とイスラム教がうまく混じりあっていることである。鳥の羽根を挿した頭飾りのかわりにウイグル帽をかぶり、クルーアン(コーラン)をよみ、アッラーに祈りをささげる。こういう稀有な伝統は保存すべきなのだが、当局の弾圧のもと、近い将来滅びるのではないかという懸念を払拭できない。


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