トーク「ケサルとゾクチェンとシャンバラ」 

     宮本神酒男 

 

 今年は地下鉄サリン事件から20年の節目にあたり、3月はオウム関連の話題が多かったように思われます。考えてみれば、この事件が日本人のチベットやチベット仏教に対する印象に及ぼした影響は、はかりしれないものがあります。20年前、そのイメージは一変したのですね。

たとえば「ポア」という言葉。これは流行語にもなったので、多くの人が覚えているでしょう。この言葉は「麻原彰晃の殺人指令」といった意味に解されることが多いのですが、もとは転移とか変移といった意味のチベット語のポワ(’pho ba)で、魂を浄土に送るということから、死、往生のことをいうようになりました。

 つまりポワとは殺人という意味ではなく、死者の魂を送るという意味の仏教用語なのです。『チベット死者の書』という名でよく知られたチベットの枕経(死者の枕元で読んで魂を送る経典で、日本でも一般的)のなかで用いられます。

 ポワの儀礼は、もともとは人が死んだときにおこなわれるものですが、それを応用して、死に対する準備としてこの瞑想法を実践されるようになりました。ナーロー六法(ナーローパの6つのヨーガ)という、ナーローパ(10161100)が考え出したチベット密教においてもっともポピュラーな瞑想法がありますが、ポワはその6つのうちのひとつです。ここには重要な死生観があり、死の哲学があるのです。

 ナーローパの師匠はティローパという人でした。ふたりともインドの高名なタントラ僧です。この教えはチベット人のマルパに伝えられ、さらに有名なミラレパ、そしてガムポパやレチュンパから多くの人へと伝えられました。この法統はカギュ派と呼ばれていますが、支流が多く、転生制度を最初にはじめたカルマ派も含まれます。

 さて、いつだったか、このティローパのつづりがティローパかティーローパかわからなくなったので、グーグルで調べたところ、最初に上がってきたのは「早川紀代秀」でした。オウムのNo2のホーリーネームだったのです。

 そこでホーリーネームをウィキで見てみると、チベットやインドの有名なタントラ僧や修行者、ときにはヒンドゥー教の神までずいぶんと出てくるではないですか。その大半を占めるのはチベット仏教関連の人名です。(例外的には麻原の妻がブッダの母マハーマーヤー、のちに尼僧の長のヤソーダラーを、井上嘉浩はブッダの側近アーナンダを名乗っている)。かのミラレパも新実智光が名乗っています。上祐史浩はマイトレーヤ(弥勒)です。恐れ多い感じがします。渋いのになると、ニンマ派ゾクチェンの重要な神格の名前であるマンジュシュリー・ミトラを名乗った刺殺された村井秀夫がいます。

このように無限にあるわけでもない名前のリストから高僧などの名がホーリーネームとして信者に割り当てられたのです。もちろんまっとうな仏教徒からすると、ケシカラン話です。しかしカルトとはこういうものなのです。

 オウムの信者の一部は、チベット密教に造詣が深く、実践経験もあったように思われます。上っ面だけでなく、深く理解しようとした人々がいたはずです。けれどもそのことがアダになったような気がします。松本サリンや地下鉄サリン事件などを起こしてしまえば、新興宗教団体が犯罪集団と呼ばれてもしかたありません。ホーリーネームも、たんなるコード・ネームにすぎなくなります。死の哲学を示すポワも、殺人指令となってしまったのです。

 80年代、ニューアカデミズムと呼ばれた知的な流行がありました。その一角を担っていたのがチベット仏教ニンマ派の修行を経験した中沢新一氏であり、著作の『虹の階梯』や『チベットのモーツァルト』もかなり売れました。私もこれらの著作を通じてチベットにあこがれを持ちました。チベットの文化や宗教を語ることが非常に知的で、かっこいいと思われる時代だったのです。

 ところが、地下鉄サリンのあと、オウムが『虹の階梯』をバイブル視していたことがあきらかになったことからすべてが変わってしまいました。中沢氏が対談で麻原をほめていたり、チベット仏教が(ダラムサラの亡命政府が)オウムから多額のお布施を受け取っていたりしたことがわかり、まるでチベット仏教がオウムに加担したかのような誤解を生むことになったのです。テレビカメラがオウムの修行部屋に入ると、前の壁中央にチベット仏教のタンカ(仏教巻軸画)が飾られていることも印象を悪くしました。

 しかしこのような見方の変化(悪化)があったのは、日本だけです。ほかの国、とくに欧米諸国は比較的チベットの難民や亡命者を多く受け入れ、それにつれてチベットの知的財産である各教派の高僧や活仏(転生ラマ)を受容したことから、むしろチベットの精神文化が根付くことになったのです。

 西欧においては、意外と人気のある禅仏教とならんで(ジョブズ氏が禅の愛好家であったことは有名。ベトナム出身のティク・ナット・ハンの著作もかなり売れている)チベット仏教は人気のあるジャンルとなっています。ダライラマ法王やソギャル・リンポチェの本はかなり売れました。最近ではペマ・チュードゥン(米国人の尼僧)の本もベストセラーになっています。いやじつはベストセラーの本を挙げるときりがないくらいなのです。

 元祖ベストセラーといえば、101年の長寿をまっとうしたフランス人女性アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールです。よほどいい家の出なのか、彼女は若い頃からずいぶんと旅行をしています。ベトナムにいるときはなんとオペラ歌手をしていました。ハノイの舞台で歌っている彼女を見たいものです。彼女は日本に来たことがあり、おそらく河口慧海と会って触発され、ラサに入ることを決意したのでしょう。

 彼女が1920年代、ケサル王物語を収集し、翻訳してくれたおかげで(英訳もすぐに出ました)その存在が西欧に広く知られることになりました。このとき彼女は50代半ばだったのですが、男の探検家さえ困難な時代に、よくもまあチベットを単独で(若い僧をひとり連れて)縦断できたものだと感心してしまいます。当時チベットは実質上独立していて、チベットと中華民国の境界でケサルの語り手たちと会いました。

 それまではケサル王物語といえばモンゴルの英雄叙事詩と思われていた節があります。というのも、最初に西欧人によって発見され、ヨーロッパに紹介されたのはモンゴル版ケサルだったからです。

 モンゴルにチベット文化が見られるのはけっして驚くことではありません。朝青龍がドルジと呼ばれていたことを思い出してください。ドルジは、インドのヴァジュラ(金剛杵)を意味するチベット語のドルジェなのです。密教をヴァジュラヤーナと呼ぶことがありますが、そのヴァジュラなのです。

元のフビライ汗がモンゴル僧のパスパ(パクパ)を国師としていたことは歴史の時間に習いました。そのとき以来チベットとモンゴルは仲良くやってきました。ダライラマ3世(実質最初のダライラマ。1世、2世は追認)はモンゴル人の支持を得たからこそ宗教界で力を持つことができました。ダライも大海を意味するモンゴル語です。ダライラマ4世は驚くべきことにモンゴル人から選ばれました。このいずれかの時代に仏教とともに民衆文化も伝達されたのでしょう。 

 ケサル王物語がチベット起源であることは、さまざまなことから証明することができるのですが、話のバリエーションが多いことからもあきらかです。栽培植物の原産地を探るときも、多様性に満ちた場所が起源とみなされることが多いのです。その意味で、もっともバリエーションが多く、地元の文化と密接に関わっているカムのデルゲ(四川省徳格)からアムドのアニ・マチェン(青海省)にかけての地域が「ケサル王物語の揺籃地」であると断言することができるでしょう。

 ここには11世紀頃リンツァンという国があり、ケサル王も実在しました。ケサル王はたしかにいたのです。しかし中国に遠征し、ペルシアと戦うような強大な国王ではありませんでした。これはどういうことでしょうか。

 おそらく四囲を脅かすような中規模の統一強国を作ったのではないでしょうか。遠く離れた雲南西北のナシ族の祭りに、なぜか「ゴロクがやってきた!」と叫ぶシーンがあります。ゴロクといえばアニ・マチェンの勇猛なチベット民族ですから、その兵がナシ族の地域まで攻め入った可能性があります。この戦争は塩をめぐる戦いであるケサルの「ジャンとリンの戦い」に反映されています。

 

 ケサル王物語は、驚くほど広大な地域に伝播しました。もっとも遠い地域は、カスピ海沿岸のカルムイク共和国です。ただしカルムイク人はもともとバイカル湖付近に住んでいましたから、原住地にいた時代にケサル王物語を取り入れ、そのあと西方へ移動したと考えられます。

 じつはモンゴルから中央アジア(西はアゼルバイジャンまで)にかけては、英雄叙事詩の宝庫です。とくに『アルパミシュ』の物語にはケサルとの近似性が見られます。「競馬で勝って姫をもらう」というエピソードはこの地域の英雄譚では定番となっているのです。この地域はほとんどがテュルク系民族であり、伝播もしやすかったのでしょうか。

 西南方向の端は、インド・ラダック、さらにはその西のパキスタン北部バルチスタン地方、またその西のフンザ(ブルシャスキー本)です。なぜこんな遠くにまでケサル王物語は伝播したのでしょうか。

 それはあきらかに「チベット帝国」と関係があります。そんな言い方、聞いたことないとおっしゃるかもしれません。これは中国の史書が吐蕃(最近のチベット人はトボと読みます)と呼ぶ国のことです。中国の史書は、新疆から中央アジアにまで勢力を伸ばしたチベット帝国を矮小化して描く傾向があります。

 吐蕃初期のソンツェン・ガムポ王(?−642)は版図を広げた英雄的な王で、唐の文成公主を娶ったことで知られます。唐からだけでなく、ネパールやシャンシュン、吐谷渾などからも妻をめとりました。

 しかしチベット帝国と呼べる国が作り上げられたのは、ティデ・ツクツェン王(705755)とティソン・デツェン王(755797)の時期でした。長安を陥落し(763)、シルクロードの各都市国家をつぎつぎと落としていく前、8世紀前半には、パキスタンの小ボロール、すなわちギルギット地方(ブルシャ)を、ついで大ボロール(バルチスタン)を攻略しました。

このあたりをいつまで治めていたかはわかりにくいのですが、吐蕃本体が滅亡した(840年?)あとも、藩主として統治をつづけたのではないでしょうか。このあたりの王はマクポン(チベット語で将軍の意)と呼ばれるのです。バルチスタンの言語はチベット語の方言です。バルチスタンのハルマンの住民は近年まで仏教徒だったといいますから、チベットの風習は最近まで色濃く残っていたようです。この地方にイスラム教徒のケサル王の語り部が存在するのには、こういう背景があるのです。

 すぐ隣のラダック(インド)のケサル王物語は百年あまり前にフランケという宣教師を兼ねた研究者が収集しました。そこにあるケサルは東のケサルとかなり違い、仏教色があまり感じられない民話風の物語です。競馬のシーンもありません。仏教色が強くなるのは、カムのゾクチェン寺などがケサル王物語作りに参入するようになってからのことと思われます。とくにジュ・ミパム(18461912)はケサルを壮大な仏教哲学の説話に仕立てようとしました。このミパムはのち、西欧でケサルが新しい命を得るのに鍵を握ることになります。

 

 最近あまり聞かなくなったケサル王の重要な側面があります。それは再臨する救世主としてのケサル王です。なぜ聞かなくなったかといえば、中国にとって都合の悪い話だからです。

 1840年代にユック神父は、シャンバラ信仰の本拠地ともいえるシガツェのタシルンポ僧院を訪ねます。この僧院の主はパンチェンラマです。神父が聞いた予言によれば、仏教が衰えたときに「禁断の国」チベットは中国に乗っ取られてしまうというのです。パンチェンラマを信奉する人々はアルタイとトゥヴァの間(シャンバラ?)に避難します。その間にチベットの民衆は立ち上がり、中国人をみな殺すのですが、じきに満州軍がやってきてチベット人を殺し、町を破壊します。しかしここで転生したパンチェンラマが軍を率いて失われた国を取り戻すのです。そしてチベットだけでなく、モンゴル、中国、ロシアまでも征服していくのです。

 この予言ではパンチェンラマがシャンバラの未来王と同一視されています。パンチェンラマ3世自身は、カーラチャクラ(時輪経)を好み、そこに描かれるシャンバラへ行くための「シャンバラ道案内」を著したほどだったのです。パンチェンラマはケサル王物語をとても愛していたといいます。おそらくケサル王をシャンバラから人々を助けるためにやってくるシャンバラの未来王=救世主と考えていたにちがいありません。

 

 ケサル王とシャンバラを結びつけたのは、英訳本がずいぶんと出ているジュ・ミパムでした。ミパムは108のカンギュル(大蔵経)を7度読んだという大学者ですが、いっぽうで大学者には珍しくニンマ派のテルトン(埋蔵宝典発掘師)でもありました。テルトンというのは普通、岩穴やストゥーパの中などから(多くはパドマサンバヴァが隠したという)経典や仏像などのテルマを発見するのですが、彼の場合、心のテルマ(コン・テル)として、ケサル王がシャンバラのルドラ・チャクリン王に転生するというヴィジョンを見たのです。

 チベット仏教ニンマ派六大寺のひとつ、ゾクチェン寺は1664年(諸説あり)、四川省徳格県(デルゲ)にゾクチェン・ペマ・リクズィン(16251697)によって創建された。一定期間滞在した高僧を含めると、このペマ・リクズィンを筆頭として、ゾクチェン寺は数々のケサルの専門家を輩出してきた。ケンポ・ペマ・ヴァジュラ(18071884)、パトゥル・リンポチェ(18081887)、ミパム・リンポチェ(18461912)、第5世ゾクチェン・リンポチェ(18721935)という錚々たる面々である。

 このなかで、第1世ゾクチェン・リンポチェであるペマ・リクズィンはケサル王物語中の「タジク財宝分配」を、パトゥル・リンポチェは「シェン・デン内紛」を、ケンポ・ペマ・ヴァジュラは「雪山水晶ゾン」を書き、ミパム・リンポチェは「ケサル護法経」を著し、よく知られたケサル賛歌を詠んだ。そして、第5世ゾクチェン・リンポチェ(トゥプテン・チューキ・ドルジェ)は、ケサルやドゥクモのほか、30人の英雄やウェルマ神13柱などさまざまな人物や神が登場するケサル仮面劇を創出した。タシ・ツェリンによれば、このケサル仮面劇は徳格県内だけでも14の寺院(ニンマ派だけでなく、サキャ派、カギュ派、ボン教寺院を含む)でおこなわれているという。青海省にも伝わり、とくに貴徳県のゾナ寺のケサル仮面劇はよく知られている

 ミパムがケサルとシャンバラ信仰を結びつけたのですが、それを継承したのが、現在も著書が売れつづけているチョギャム・トゥルンパ・リンポチェ(19391987)です。彼の本はなぜ売れるのか。彼はクレイジー・シッダ(狂気の成就者、瘋癲僧)と呼ばれるチベットにときおり現れる天才肌の僧侶でした。僧侶といっても問題の多い人物でした。彼はアル中で、女弟子に手を出すようなどうしようもない一面がある一方で、とてつもない学識があり、また洞察力があり、偉大な哲学者でもありました。また幼い頃から詩や文章をたくさん書き、なみなみならぬ創作力があることを示しました。彼が書いた文章は人の心に響くのです。彼が故人になってから四半世紀がたつのに、いまだにロングセラー作家でありつづける秘密がこのあたりにありそうです。

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、カム地方のデルゲ(四川省徳格県)の北方の村の出身で、生まれてすぐにカギュ派の転生ラマとして認定されました。転生ラマですから、英才教育を受けることになります。1959年、インドに亡命し、のちに英国にしばらく滞在し、それから米国に移り、コロラド州のボルダ―に拠点を構えました。ここに全米から、いや世界中から若者が集まり、チベット仏教を学んでいったのです。

 彼はケサル王とおなじムクポ氏族に属していました。つまり驚くべきことに、彼はケサルの後裔なのです。それだからなのか、小さい頃からケサルと身近に接してきました。彼はまた、シャンバラ信仰にも強く惹かれていました。彼はそのふたつを見事に融合させてみせたのです。

 彼はシャンバラ国にちなんで自宅をカラパ宮殿と呼びました。そして自分自身をシャンバラの国王リクデンに、妻を王妃になぞらえたのです。そして弟子たちには自分のことをサキョンと呼ばせました。その他の弟子たちには大臣や将軍、貴婦人などの役を与えました。このように彼はマンダラを現実世界に作ろうとしました。これは壮大なヴィジュアライゼーション(観想)なのです。しかしはたから見ると、カルトの活動のように映るかもしれません。

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは「目覚めた社会」を提唱しました。そのモデルとなるのは、アニ・マチェンの近くの遊牧系のゴロク族でした。じつはゴロクといえば、馬泥棒などの犯罪が多いやっかいな民族というイメージがあります。昔、スパイだった西川一三さんが言っていましたが、子供に隣のテントに行かせ、何かを盗ってこさせる、そんなのが「教育」という民族です。とうていモラルが高い「目覚めた社会」とは言えないでしょう。

 これは現実のアムドの一地方というより、頭の中の世界なのです。頭の中の理想的な遊牧民であり、遊牧民は戦士なのです。そしてわれわれはその戦士精神を学ぶべきなのです。戦士であるわれわれが戦う敵は臆病心です。

 臆病心とは何なのか。それは、誘惑に負け、落ち着きがなくなり、自然の状態で休まることができなくなった、さまよう神経過敏な心のことです。自然な状態とは、われわれが戦士の確信と呼ぶ、揺るぎない、目覚めた状態のことなのです。

 このようにマジックのように、彼はケサルのひとつひとつの戦いを実際の血なまぐさい戦いではなく、形而上学的な戦いに変えていきます。このように考えると、ケサル王は意外と哲学的ともいえるでしょう。

 

 ダグラス・ペニックの著書『ケサル王の戦士の歌』の序文を有名なゾクチェンパ、トゥルク・トンドゥプ・リンポチェが書いています。その冒頭のミパムの詩は私のお気に入りです。

 

本性としては、あなたはヴァジュラ・マンジュシュリー(金剛文殊)である。
顕現するものとしては、あなたは世界の神聖なる王である。
古代においてあなたは知識の保持者パドマサンバヴァであった。
いまあなたはセンチェン・ノルブ・ダドゥツェ
すなわちケサルである。
将来あなたはリドゲン・ルドラチャクリンとなるであろう。 

 

 トンドゥプ・リンポチェもまた、ケサル王物語を比喩としてとらえています。

ケサルの数限りない戦争は、怒り、貪欲、混乱の表現ではない。むしろ人が必要とするものや本質的な真実に寄与するものである。それらはまた、戦争というかたちを取った、慈愛という行為を通し、悪に打ち勝つ正義、敵意にまさる平和、苦悩をしのぐ喜び、抑圧に対する自由をもたらすのだ。

 戦争とはいっても、武器は「慈愛」だというのです。それによって悪を正義の、敵意を平和に、苦悩を喜びに、抑圧を自由に変えるのです。

 すこし難解になりますが、最後に、このゾクチェンパの説明を引用しましょう。

 われわれの迷妄世界の創造主はわれわれ自身の心である。しかし(その心において)はじめも、中間も、終わりもないのである。(心の)はじめの本性は、いかなる迷妄も記されず、原初の基礎(トクマイ・チシ)と呼ばれる。

 そこから「私」において貪欲の観念が生じる。これは自己本人(ダクニ・チクプ)の無知と呼ばれる。

 そこから「他者」としての知恵の5つの光に貪欲が生まれる。これは二分法(ランチク・キェーパ)の無知と呼ばれる。

 そこから概念の思考と分析がはじまる。これは散漫な思考(クントゥ・トクパ)の無知と呼ばれる。

 そこから汚れと51の精神的事象とともに意識感覚が生まれる。

 この時点に置いてあなたは惑わされ、3つのサムサーラ(輪廻)の領域に入る。

 はじめに、われわれの心はどこからも来ない。ただ偶発的な条件によって突然はじまる。

 中間に、われわれの心は安住する場所を持たない。ただ執着し、すがりつくことによってサムサーラのなかに身をとどめ置く。

 終わりに、われわれの心に行くべき場所はない。

 もしこの3点を認識することができたなら、われわれは解放されるのだ。