亡魂(たま)送りの山

西北インド・キナウルの死の習俗  宮本神酒男


チャガオン村遠景。村の上に岩の多い聖地がある。

2 チャガオン村のウキャン祭

 焚き火の炎が燃え上がり、暗闇のなかの8人をあかあかと照らし出した。ギトカレース(gitkares)と呼ばれる歌手たちである。秋深まる10月中旬、真夜中の午前1時、彼らはこの一年以内に死んだ人々のための送魂歌(gitkares geethang)を歌い始めようとしていた。

 私は感無量だった。パキスタン北部から長距離バスを何本も乗り継ぎ、ラホールからインドへ入り、さらにバスを乗り継いで、なんとかこのマイナーだがきわめて重要な意味合いを持つチャガオン村のウキャン祭に間にあったのだった。この夏だけの苦労話ではない。何年間もこの祭りをこの目で見たいと願ってきたのだ。

三つの寺院のうちの一つ

 私はこの数年間、ずっと送魂路を追ってきた。

 東から、あるいは北から順にチャン(羌)族、イ族、ナムイ人、ルズ人、モソ人、ナシ族、リス族、ヌー族、ジンポー族、ハニ族、ラフ族、ジノー族、ラワン族(独竜族)、リンブー族、ライ族、グルン族、マガール族、ビャンス族(ラン族)……。

中国、ミャンマー、インド、ネパールのヒマラヤ山系に沿って分布する送魂路をもつ民族を、私は数多く訪ねてきた。送魂路というのは、シャーマンや祭司によって、死者の魂を祖先の地へ送るその旅程を指す。チベット・ビルマ語族の送魂路の特長は、村や山、川、谷などの具体名を含んでいることだ。A村からB川にかかる橋を渡ってC村へ行き、D山を越えてE谷に至る……というふうに魂の旅程はつづき、幸福に満ちた永遠の祖先の地に着く。無事に冥界にたどりつけないということは、悪鬼などに危害を加えられたり、迷子になったりし、魂自体が彷徨する悪霊になったことを意味するので、より正確な道筋が必要とされるのである。

 送魂路は民族移動を示すという側面がある。チベット・ビルマ語族はもともと遊牧民で、定着したあとも移動することが多かった。彼らは祖先崇拝を強く保ち、祖先の来た道を口承のなかに記録した。祖先が元来住んでいた場所は美化され、魂の帰るべき永遠の休息地とされた。その魂の道をたどっていけば民族の原郷に行き着くはじなのだ。

こうして調べると、チベット・ビルマ語族、とくにナシ族やラフ族、ハニ族などは、現在の黄河上流からモンゴルにかけての地域からやってきたことがわかる。ただしイ族のような例外もある。イ族の送魂路の最終地点は、雲南省北部の昭通付近であり、他の民族と比べるとずっと南方である。イ族の伝承によれば、アトゥという族長によって六つの部落がまとまり、古代国家が建設されたという。その都が昭通だったのかもしれない。もっと前、はるか古代、イ族の祖先は中国西北あたりにいたと思われるが、イ族の形成自体は昭通あたりだったのだ。

 文書記録が少ないなか、口承の送魂路から民族移動を推量するのはきわめて有効な手段である。とはいえ、村や山、川などの名前は古名で現在のものと一致せず、結局そのルートはよくわからない、という場合も多々あるのだが。

 目下のところ、もっとも西に位置する送魂路はインド・ヒマチャルプラデシュ州のキナウル地方の送魂路である。キナウルにかつてはたくさんあったが、現在チャガオン村だけが送魂路を伝えている。

 ナシ族やイ族の送魂路とキナウルの送魂路が同源のものかどうか、もちろんさらに吟味する必要がある。しかしキナウル語がチベット・ビルマ語族に属し、しかもボン教と関係があるシャンシュン語に近いとすれば、「魂を永遠の休息地へ送る」習俗は、はるか古代においてつながるだろう。

 8人のギトカレース

 チャガオン村のウキャン祭の主役は8人のギトカレースである。8人のうち4人はいわば永久メンバーで、固定されているが、残りの4人はほんの三日前に神によって選ばれた、にわかメンバーだ。「神によって選ばれた」というのは、パンギ村と同様、神輿で選ばれたという意味である。

 チャガオン村はモラスティン(Molasting)、ランメイ(Rangmei)、ヤシャン(Yashang)、ダルマリン(Dharmaling)の四つの地域から成り、そのうちヤシャンの上方にルンコット(Rungkot)という岩だらけの聖地がある。このなかの岩の下の洞窟に8人は祭りの前日、一日こもり、徹底的に歌を習得するのだという。残念ながらそこに近づくことは許されなかった。祭りが終わったあとそこを訪ねたが、なかなか見つからなかった。生い茂る草をかきわけて洞窟を発見した。高さは1mくらいなので、腰をかがめてなかに入る。直径15mもあるかなり広いスペースで、中央には太い柱のような石があった。空のマッチ箱を発見し、ここに人がいたことが確認された。

巨岩の下に入り口がある中に大きな空間が広がる

 一字一句まちがえずに歌うために、合宿でもするようにこもり、歌詞を覚え、厳しく練習しただろう。しかしただそれだけでなく、聖なる場所にこもり、身をきよめる、ということ自体が重要なのではなかろうか。洞窟はいわば子宮である。ギトカレースはここで生まれなおすのだ。8人は洞窟に入る前は汚れた人間だが、このイニシエーションを通して神に近い存在となるのだ。

 ギトカレースは夜半に歌い出し、夜明けまで歌い続ける。彼らは立ったまま歌い、坐ってはいけない、といわれる。もし途中で倒れたら、そのギトカレースはかならず死ぬという。なんとも恐ろしい話である。

しかし聞いていた話とちがい、少なくとも三度は休息を取っていた。なにしろ私は寸前に飲んだ酒がよくなかったのか、おなかを壊し、いつ緊急を要するかわからなかったが、明け方までに三度、暗闇の茂みのなかに入って用を足したのだった。「立ち続けなければならない」という不文律は過去の話なのか、あるいは誇張されているのか、わからなかった。

ギータン(送魂歌)は予想していたものとはまったく違っていた。簡単な節が繰り返され、えんえんとつづく。歌詞はまったく理解できなかったが、グゲ・チャンタンということばを聞き取り、はじめてそれが送魂歌だということがわかった。

 歌は古いキナウル語で歌われていた。そのため地元の人でさえ理解するのはむつかしいという。その内容は、故B・R・シャルマ氏の調査したものをもとに再構築するとつぎのようになる。

ギトカレースのひとり

 

四角の玉座のような丘がある。そこが(レコンピオ上方の)ブレリンギ(Brelingi)村。ブレリンギ村には寺がある。村の端にスムギャル(Sumgyal)兄弟がやってきた。村の真ん中には川が流れていた。川の真ん中には大きな石があった。その石はスムギャル兄弟が作ったものだ。

ゴムポルト(Gomport)の真ん中には法灯(mchod me)が燃えている。チャガオン村の特別な場所に神の宮殿(石造寺院)が建設される。スキュラム(sukyuram)樹が燃やされる。この聖なる樹はどこから運ばれたのか? スキュラム樹はモラスティン(Molasting)の地に生えている。石造寺院を建てたのはだれなのか? 大工キャンガトゥ(Kyangatu)が建てたのだ。

神(地方神)の乗り物(神輿rothang)を作ろう。寺の中央の像を作ろう。神らしく装飾を施そう。ヤクの尾をその頭に巻こう。神様はどこ? ヤクの尾はどこにある? グゲ・チャンタンにある。鼻水を垂らした(汚らしい)男、ジャード(J?d チベット人)の息子がグゲ・チャンタンからヤクの尾をもってやってくる。竹細工で神様の乗り物を飾ろう。竹はどこにある? 竹はニグルサリ(Nigulsari)にある。だれが竹をもたらしたのか。胡桃で神様の乗り物を飾ろう。だれが神様の乗り物を作ったのか。作ったのは大工キャンガトゥ。キャンガトゥが建てたのは チュムレー寺(chhumale sangthang)寺、いやカイムレー寺(kaimle sangthang)。ダルマニン(Darmanin)の中央に寺を建てた。

さらに上ると小さな流れがあり、水車がたくさんある。

さらに上るとモファヤン・サンタン(Mophayan Sangthang)がある。

さらに上るとモラスティン(Molasting)の地の中央に出る。オーム(Aum)、スリー(Sri)サリン(Saring)。御身(チャガオン村のシャンカラ神、Shamkar)は仕事をお忘れになったのでしょうか。われわれには歌詞の意味がわかりません。ゴレ(Gore)とベナ(Bena)にはじまる歌の意味がわかりません。

さらに上るとロバイ・サンタン(Robai Santhang)、古代の寺院に出ます。苔による装飾が施されています。

その上方にはロルメ・サンタン(Rolme Santhang)。

さらにずっと上ると二匹の蛇(のような地形)がいる。ギョタン(Gyothang)という。

さらに上にはコタン(kothang石積み)がある。ここはトゥムシャカラ(Tumshakala)と呼ばれる。古代、トゥムシャカラでウキャン祭がおこなわれた。当時は三つの地域に分かれていた。そのひとつドゥトラン(Dutlang)にはバイラン・マトゥス(Bailang Matas)という女がいた。ここの神様(の神輿)はあまりきれいでなく、人身御供によってきれいになった。女はドゥタス(Dutas)の娘だった。後ろ髪には箒を結っていた。女は人身御供となるべく捕らわれていたが、息子を背負って逃亡した。

さらに上ると、丘の上のウルニ(Urani)村から水が流れ落ちる場所があり、ここは休息するのにちょうどいい。白と黒のふたつのコタンがある。

さらに上るとモエニン(Moening)の丘がある。金と銀と塩に関する紛争があった。上方からやってきた敵ジャード軍(チベット軍)とシモル(Simol)王軍が戦った。ジャード王は頭飾りに角をつけ、シモル王は竹の装飾をつけた。チャガオン村の人々はシャンカラ神に供え物をして神の力を得た。またrishi(仙人)が敵方に呪文を投げかけた。

さらに上ると二つの飲料になる川が流れていた。

その上方は二つの黒い水の流れだった。

その上はウルニ村。

そして二つのコタン。白と黒のコタン。ボジョという地名。これはシェルパの名前。

さらに上るとグゲ・チャンタン。洞窟のなかには動物(羊やヤク?)がたくさんいる。

さらに上るとカドゥガリ・カトレ(Kadgari Khatole)。

さらに上るとグムレングス(Gumrengs)。

下ってチョテロ・チャオス(Chotero Chaos)へ。

さらに下ってテレイ・ダル(Terei Dar テレイ丘)へ。

下ると泉があり、泉には雌蛇がいる。雌蛇は「わたしには仲間がいない」と呼びかけてくる。ここはルンティ(Runti)という地名。「あなたの仲間は穴の中の動物ではないか」とこたえてやる。

そこから下ると、運河の水が蛇のようにくねっている。

また上るとそこは(『マハーバーラタ』の)パーンダヴァ(Pandava)五兄弟の丘。丘の上では五兄弟が馬に乗っている。ヤルチの花で作った王のベルトを巻いている。

下るとカトー(Kato)川という小川が流れている。

上るとマザラン岩(Mazalan)の中央。ここには「蜂」鳥と「脂」鳥がいる。またバンギャル岩(Bangyal)があり、ウルニ村の神がいる。

上るとローラ(Rora)村から小川が流れている。

さらに上にはムッキン岩(Mukking)岩がある。力を込めて、岩の扉を開けなければならない。イェ・プルボ・ナラヤン(Ye Purbo Narayan)神にたのんで開けてもらう。扉は銀の扉。ねじは金。

上方には水無し川。

川に沿って上っていくと女がいる。「川の娘」である。ここはチキム・ドンカル(Chikim Donkhar)と呼ばれる。村の神はサルガ・チョロニー(Sarga Cholony)。サルガ・チョロニーによって扉が開けられる。

レオ(Leo)村に着く。ロープを投げ渡して川を渡る。「金の橋」とは金色のロープ橋のこと。

さらにずっと上ってラルダン(Raldang = Kinner Kailash)の奥深くへ。そこにはシルコット寺(Silkot santhang)があるだろう。シルコット寺はバラン(Barang)村の神が管理する。バラン村の神は蛇神(Nag)。蛇神は神の不義の子である。ひとの不義の子はチトクル・ラクチャム(Chhitkul Racchham)村(実在)の人々である。シルコット寺の扉を開けなければならない。金のねじのついた、錠前は竹製の扉を開けなければならない。

それからまたモラスティンの地へ。何度も繰り返し歌う。

八人の歌手(ギトカレース)は七種類の穀物を神に供える。また赤麦で作ったプーリー、ザンパ、現金なども供える。雄ヤギを捧げたいが現金がそのかわり。村人はソライ(大きな甕)にワインをいれ、モラスティンの中央で地面に注ぐ。

遺族はまた亡魂にたいし、「けっしてそのこと(死)があなただけに起こったと思わないで。はるか昔からあなたの先祖みなに起こったことなのです」と説明して、死者をなだめる。

この祭礼はグゲ・チャンタンからやってきたバナスル(Banasur)王とめかけのヘリンバがもたらしたものだ。ラルダンは死の王の国。ラルダンはまたの名をシヴダン(Siv-dang)という。死の王でもあるシヴァが死を掌るのである。

 

 夜明け前、歌っている8人のギトカレースに遺族たちが花輪をかけ、さまざまなもの、とくにキャンディやビスケットなどのお菓子を捧げる。しかし本来は上述のように七つの穀物だったのだろう。

 水瓶の踊り

 夜が明けはじめる頃、ギトカレースは解散し、人々は踊りを楽しむ。水瓶を持った踊りはスピティでも見たことがあった。これがグゲやシャンシュンの文化圏に特有なのか、ヒンドゥ文化の影響なのか、明確でない。

 おなじ亡魂送りの祭りでも、パンギのダクレーニ祭のある時間帯(二日目未明)と比べると、号泣や嗚咽が聞こえることはなかった。とはいえ、ギトカレースの歌う場面に外部者が入るのは容易ではなく、タブーの多い秘儀に属するものだった。亡魂が悪鬼に堕することなく、冥界へ行けるようにすることが、パンギ村、チャガオン村両者の祭りに共通な要素なのである。


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