タントン・ギャルポ考

〜チベットのダヴィンチは聖僧か、風狂僧か〜

 パドマ・サンバヴァ(8世紀頃)、リンチェン・サンポ(958−1055)、ミラレパ(1040−1123)、ツォンカパ(1357−1419)……。チベットは飛びぬけた学識を持つ僧や、法外な呪術力を擁するタントラ僧、あるいは常人が想像する域をはるかに超えた修行僧ら傑出した僧侶の宝庫である。

 しかしそのなかでもひときわ異彩を放ちながら一般には名前も実態もあまり知られていない(もちろんチベットの民衆には根強い人気がある)のがタントン・ギャルポ(1361?−1485?)である。

 私がタントン・ギャルポに興味を持ったのは、スピティ・ピン谷の「旅する芸能僧侶集団」ブチェン(写真上右。マニパとして知られるが、本人たちは好まない)が祖師として崇拝していたからである。タントン・ギャルポといえば「チベットの各所に鉄の橋を架けた」白い髭の老修行僧という通り一遍のイメージしか私はもっていなかった。パドマ・サンバヴァを「第二の仏陀」とするニンマ派の在家僧でもあるブチェンが、ことさら崇めるにはそれなりの理由があるにちがいない、と私は考えるようになった。

 そうして調べれば調べるほど、タントン・ギャルポの驚くべき面が現れてきたのである。二面性、といってもいい。

 第一に、橋を架けるという功利的、実利的一面。橋は、チベット高原において、人の行き来だけでなく、物流にも役立ち、また軍事的にもきわめて重要である。唐代、チベット(吐蕃)は、唐や南詔と争っているとき、南詔の辺境を担うモソ(ナシ族)の地域との境界にすでに鉄の橋を架けていた。タントン・ギャルポの少し前も、パクモドゥ派のタイ・シトゥ・ジャンチュプ・ギェルツェンやギャンツェ知事のラブテン・クンザン・パクが橋を建てている。しかしタントン・ギャルポの橋造りはその数、範囲ともはるかに先人を超えるのである。ラサのキチュー河やチュウォリ、ニャゴのヤルルン河、東チベットのザチュ(メコン河上流)やディチュ(長江上流)、西チベットのトリン、ブータンのパロなど、おそらく数十箇所(108とも言われる)にも及ぶ。

 タントン・ギャルポはしばしば鉄あつめを行っている。一度など集めた鉄が盗難にあったため橋の建設が頓挫し、ふたたび集め直したという記録も残っている。おそらくお布施として鉄の農具や器を得たと思われるが、鉄の採掘場となんらかの関係を築いていたのかもしれない。

 またコンポ地方の自身の寺ツァゴンに、鉄の精錬工場を持ち、多数の鍛冶屋をかかえていた。ブータンに残る橋の一部(鎖)から、使用された鉄の質が良質であることがわかっている。たしかな技術をもっていたのである。

 こうして見ると、タントン・ギャルポは聖人という一言ではとうてい表すことができない。良質の鉄を擁したテクノロジ−集団であり、タントン・ギャルポはその長なのである。

 橋だけでなく、寺院、ストゥーパなどを各地に建てた。とくにいくつかのストゥーパはそのスタイル、デザインとも評価が高いが、多くがなくなり、近年まで残ったものも残念ながら文革の時代に破壊されてしまった。

 タントン・ギャルポは芸能の祖でもある。自身が作った数々のチベット・オペラはいまもなお演じ続けられているのだ。チャム(仮面劇)もタントン・ギャルポ考案とされるものが少なくない。

 医薬の面でも貢献が大きかった。タントン・ギャルポの作った赤い丸薬は伝染病に大きな効果があったとされる。

 このようにタントン・ギャルポは寺院やストゥーパを建て、橋を架け、命を救い、娯楽を与えたスーパーヒーローなのである。ひとつひとつの技術をもっていたわけではないだろうから、一種の総合プロデューサーのようなものだと考えればいいだろう。一説には仏典などにはさほど興味をもたなかったといい、ツォンカパのような学究肌でなかったことはたしかだ。

 学究肌どころか、見かけは乞食のようだったともいう。これが第二の面である。「石割儀礼」の章で述べたように、伝説によれば、ラサで疫病が発生して被害が広がったとき、ツォンカパはタントン・ギャルポを呼び寄せた。ところがいつまでもラサに着いたという知らせが来ない。じつは門前で、その汚くてあやしげな風体を見た警護たちが、タントン・ギャルポを牢屋に閉じ込めてしまっていたのである。

 もちろん乞食などではなくて、ヨガ行者の風貌だったのである。たんなるヨガ行者ではなく、ニュンパ(瘋癲)という狂人と聖僧のはざまにあるような修行者の風貌だった。

 この時代、なぜか突然ニュンパが多数現われた。クンキョン・リンパ、ペマ・リンパ、ツァン・ニュン・ヘールカ、ウー・ニュン・クンガ・サンポなど、数え切れない。一種の流行だったといってもいいだろう。このなかでもミラレパの伝記を書いたことでも知られるツァン・ニュン・ヘールカの数々のエピソードは常軌を逸している。

聖地ツァリで、彼は右手に砂糖、左手に糞を持ち、それらを交互に口にしながら、他人に向かって小便をひっかけた。また死体から内臓をえぐって首飾りにし、皮膚を外衣として着用した。いったいこれのなにが修行なのか……。

 タントン・ギャルポのエピソードは、馬に乗ってズカズカとお堂に入るなど、ツァン・ニュン・ヘールカと比べれば理解可能な範囲だといえる。しかしそれでも常識の殻を打ち破る破天荒なふるまいが多かった。もちろんこれらは後代の伝記作家がその価値観を強調するために書かれた可能性があるので、若干差し引いて考えねばならないが。彼らのふるまいは、一見すると狂気としか思えないが、逆説的な意味で悟りを開くための手段だった。

 ニュンパであるということは、遊行僧であるということだった。ツァン、ウー(中央チベット)、ブータンが主な活動エリアだが、ンガリ(西チベット)、ミニャク(東チベット)、五台山、カシミール、ラダック、インド、スリランカ、そしてカルルク(テュルク系民族だが新疆かカルムクを指す)にまで足を伸ばしているのである。

 タントン・ギャルポはシャンパ・カギュー派の正統な後継者であり、ニグマの六法やカーラチャクラの六支ヨーガなどを伝えた。彼はヴィジョンのなかで三度、ダーキニーの姿で現れたニグマに会い、教えを伝授されている。
 タントン・ギャルポはおそらくヴィジョンのなかで、パドマサンバヴァの宮殿も訪ねている。のち、サムイェ寺近くのチンプーの洞窟でパドマサンバヴァが匿した巻物(テルマ)も発見している。
 彼はまた自身、ドルポパ・タシ・ギェルツェンの生まれ変わりだと考えていた。ドルポパといえば「他空観」で知られるチョナン派の祖である。このようにタントン・ギャルポは宗派を超えた存在であり、19世紀頃にさかんになる「超宗派運動」リメの先駆者なのだ。

 タントン・ギャルポが没して3世紀、サキャ派のクンガ・レクペ・ジュンネ(1704−1760)は夢の中で彼に何度も会い、他空観について教えをいただいている。またジャムヤン・ケンツェ・ワンポはタントン・ギャルポの転生だと考えられるようになった。現世を離れてからも、いやいっそう、タントン・ギャルポは神秘的な存在となったのである。

 タントン・ギャルポの実利的、功利的な一面と、神秘的な一面、この二面性ははたして共存可能だったのだろうか。伝記を信じるならば、彼は120年以上の長寿を全うしたことになり、108の鉄の橋を架け、寺やストゥーパをたくさん建て、同時にニュンパとして常軌を逸した行動を取りながら、シャンパ・カギューやチョナン派の教えを伝授した。まさにスーパーヒーローである。

  しかし不思議なことに、タントン・ギャルポは実務的でありながら、神秘的な存在でありえたのである。彼は言う。

「大いなる河に鉄の網をかけよう、生きとし生けるものが悟りの彼岸に渡れるように」。

 

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