タントン・ギャルポ伝 イントロダクション C・スターンズ 宮本訳 

 

2 (くう)の平原の王 

暗褐色に怒った身体で 
あなたはマーラーの一群を撃退します 
カリスマのその凝視でもって 
あなたは思慮深いふるまいを持続します 
隠れたるヨーギンよ 
あなたは生きる者すべての守り神です 
ウッディヤーナの師(グル)に予言された 
生まれ変わりの身であり、このうえないお方なのです 
ああ、空の平原の王、タントン・ギャルポよ 
私はあなたの足元で祈りを捧げます 
                           チューキ・ドンメ 


 タントン・ギャルポはチベットのあらゆる宗教の実践法をマスターし、その教えは超宗派的であったといわれる。受け継いださまざまな伝統を巧みに練り上げ、おびただしい数の聖なるヴィジョンを見た彼の教えはチャクサム、すなわち鉄橋の教え(Lcags zam lugs)として知られるようになった。タントンの教えは中央チベットのチュウォリにある主寺とツァンのリウォチェにある寺院を中心として広まった。

 チャクサムは、ブータンにおいてはサキャ派、ニンマ派、カギュ派などの大きな宗派と肩を並べるほど、ほぼ独立した宗派として存在した。チャクサムの宗派は、ドゥク派カギュの創立者シャブドゥン・ンガワン・ナムギェル(
15941651)が政治的理由からそれを弾圧するまでかなりの力を持っていた。この宗派はタチョク・チュージェのリーダーシップのもとブータンで生きのびてきたが、過去の栄光を取り戻すことはなかった。

 タントン・ギャルポの鉄橋宗派の教えはチベットのすべての大宗派と同様の歩みをたどってきた。タントンのあと、宗派はテンズィン(Bstan ’dzin 教義を護持する者)の称号を持つ者か、中央チベットのチュウォリの寺に主座を持つ鉄橋人(チャクサムパ)に率いられてきた。師のレンダワ(13491412)の予言をもとに、タントンは仏法の体系の伝授と彼の多くの芸術や建築の作品を護持する責任とを後継者たちに委ねた。

 1456年、タントン・ギャルポは息子の僧テンズィン・ニマ・サンポを後継者としてリウォチェ寺の座主の座に据えた。彼は自分の一族が存続し、息子のドンドゥプ・サンポに引き継がれることを願い、またコンポ地方のツァゴン寺の座主に就くようにと、もうひとりの息子キャブパ・サンポを送った。

 彼の甥であり弟子のジャンパ・ニェンダクは、タントンが建設した橋や寺院、ストゥーパのネットワークの長官に任命された。それゆえ彼のダルマの教えがテンズィン・ニマやその他の家族のメンバーから伝わっていないのは、大きな謎である。教えを伝授することに関し、後継者の正確な役割ははっきりしない。

 テンズィンの称号を持つ法統の者は、中央チベットのチュウォリのチャクサム寺内の僧の居住区に住居を持っていた。はるか西方のリウォチェよりも便がよかったからである。タントン・ギャルポの息子で後継者に指名されたテンズィン・ニマ・サンポ(1436−?)は、父親の伝記を書いたこと以外、ほとんど知られていなかった。彼自身の伝記もかつては存在したが、失われてしまった。

 ニマ・サンポの母親は特別な女性で、カンドマ・センゲと呼ばれるダーキニーだった。タントンはカ・ンガパ・パルジョル・シェラブとともに学んでいるときに彼女と会った。ダライラマ
5世によると、テンズィン・ニマ・サンポの遺体はラサのチャクポリの丘にあるタントンの寺の奥の院にある黄金の舎利塔に入れられたという。

 タントン・ギャルポはニマ・サンポを後継者として指名していたので、そして称号のテンズィンが彼の名前の前にしばしば付せられるので、のちのチュウォリのテンズィン称号継承者はニマ・サンポの転生であるはずである。しかし実際はそうではなかった。ジャムヤン・キェンツェ・ワンポ(18201892)はチャクサム8世テンズィン・キェンラプ・トゥトブのもとに学んだので、師の転生の系譜はよく知っていたと思われる。彼はそれについて明確に述べている。

 チャクサム・チュウォリのツェチュ(仮面舞踏)はタントンパが創設した。寺院の座主を継ぐのはチャクサム・トゥルク、すなわち(タントンの)精神的息子キョブパ・サンポの転生である。(この系譜から)テンズィン・イェシェ・ルンドゥプのような多くの偉大なる、博識な、覚醒した大師が生まれた。

 ここに述べられているように、キャブパ(あるいはキョブパ)・サンポはタントン・ギャルポの精神的息子(thugs sras)であるだけでなく、身体的な息子(sku’i sras)のひとりでもあった。キェンツェ・ワンポの言葉には疑問の余地がなく、チャクサム派の長はタントンの息子キャブパ・サンポの転生として認識されてきた。大成就者本人でも、息子のニマ・サンポでもなかった。またニマ・サンポの名が自伝のなかに何度も登場しているにもかかわらず、シトゥ・チューキ・ギャツォ(18801925)は、チュウォリの「精神的息子テンズィン・リンポチェの9つの命」を描いた一連の銅像に言及している。詳細がわかるまでこの疑問は解消されないだろう。

 テンズィンの称号保持者で唯一タントン・ギャルポの後裔であることが確実なのは、テンズィン・ニダ・サンポである。ジョナン派大師クンガ・ドルチョク(15071566)のもとで学んだ彼は、「成就者の世襲の保持者」(grub rigs ’dzin paあるいはgrub rigs ’chang)と、タントンの後裔であることを表わす表現で呼ばれた。この系譜の後期のもっとも偉大な人物は7世チャクサムのテンズィン・イェシェ・ルンドゥプ(1738−?)である。彼はまた、テルトン(埋蔵経典発掘師)のディメ・リンパ(?−1775)の後継者でもあった。

 テンズィン・ニマ・サンポとテンズィン・イェシェ・ルンドゥプの間には300年もの時が流れているが、その間のチャクサムの長たちのことはほとんどわかっていない。いかなる歴史文書も残らず(もし書かれたとしても)、タントン・ギャルポ以降、イェシェ・ルンドゥプを除くとだれの伝記も書かれなかった。チャクサムの名前だけは、さまざまな歴史書や伝記などにいくつも現れるが、彼ら自身のことについてはほとんど知られていない。

 タントン・ギャルポの主要な寺院のなかでもっとも西方に位置するリウォチェは、依然として彼の教えを広めるセンターの役目を負ってきた。弟子のシェラブ・パルデンはタントンの最初の摂政としてそこに住んだ。そのあとの何世紀もの間、ギュルメ・デチェンやンガワン・ヨンダク(17141767)らタントンの後継者たちはリウォチェに住み、教えた。リウォチェは大成就者の後継者の主要な住居だったのだ。すくなくともチュウォリのテンズィンの称号保持者のひとり、テンズィン・ニダ・サンポは父方の後裔者のなかで認められていた。19世紀はじめに書かれたグル・タシの「ニンマ派の歴史」はリウォチェについて決定的なことを記している。

 チュン・リウォチェははじめ大成就者タントン・ギャルポによって建立された。それはロンチェン・ギュルメ・デチェンがヨルモのテルトン、テンズィン・ノルブに渡すまで、継承者の系譜は護持されてきた。そのあと寺院の座主の座はテルトンの弟、ガム・ニョン・チャクドル・ノルブ、そしてその後のガム・ニョン・トゥルクによって守られた。

 この一節からわかることは、17世紀前半、ギュルメ・デチェンが弟子の3世ヨルモ・トゥルク、テンズィン・ノルブ(15981644)に寺院を譲るまで、タントン・ギャルポの後裔がリウォチェを管轄していたことである。それからは、寺院の座主にはヨルモ・トゥルクの兄弟であるガム・ニョン・チャクドル・ノルブとその転生が就いた。

 しかしながらタントンの法統がつづく一方で、ガム・ニョンの法統はある時点で死に絶えた、あるいはリウォチェを総べる力を失った。というのもタントンの後裔は、18世紀はじめには力を取り戻していたからである。たとえば、サキャ派大師クンガ・レクパイ・ジュンネ(
17041760)は1745年にリウォチェを訪れている。そのときリウォチェの座主ンガワン・ヨンダクや兄弟の住持ロサン・トプデン・パルジョルと教えを交換している。彼らはタントン・ギャルポの父方の後裔だった。

 タントン・ギャルポの教えはシャンパ・カギュやニンマ派の(埋蔵経典)北伝派、断(チュー)の修行法などと関連して残った。彼の教えが超宗派のなかで発展したのは驚くことではない。タントン自身インド、ネパール、そしてチベット内のすべての宗派の500人の大師から学んだのだから。とくにインドの大師ナーローパの妹、ダーキニー・ニグマの教えは重要だった。

 ニグマはシャンパ・カギュ派の創始者、11世紀のチベット人大師キュンポ・ナルジョルに教えを授けた。彼女の教えは「7つの宝石」と呼ばれる系譜とジャグチュンパ・ツァンマ・シャントン(
12341309)を経て、大師ジャンセム・ジンパ・サンポへと伝えられた。タントンはこの大師からニグマの教えを授かった。彼はまたおなじ教えをギャルツェン・パルサンの弟子、ドルジェ・ショヌとムチェン・ナムカイ・ナルジョルのもとで習った。タントンはジンパ・サンポから教えを受けたあと、隠遁生活に入った。

 深遠なるヴィジョン体験の間、ダーキニー・ニグマ自身が4つのイニシエーション儀礼や金剛偈句(げく
Rdo rje tshig rkang)の秘密の意味に関する教え、白と赤のケーチャリー(ヴァジュラヨーギニー)を瞑想することによって意識を転移させる技法などをタントンに教えた。タントンはこれらの実践法をマスターすることによって即座にさまざまなものに生まれ変わったり、他人が何を考えているかわかったり、他者のために遠くの意識を変移したりすることができるようになった。これはニグマから得た3つのヴィジョン体験のひとつである。

 何年かのち、ウッディヤーナから戻ってきたタントンは生地からラサへ旅をした。その途中、シンポ・ゾン(魔の城の意)という場所の杜松の森にさしかかったとき、15歳の遊牧民の少女の姿をしたダーキニー・ニグマが近づいてきた。今度は瞑想の間の観想に関する技法をタントンに教えた。そして幻身(sgyu lus)の祝福(byin brlabs 加持)を施した。

 タントン・ギャルポがニグマから受け取った秘教的教えは、ずっとのちの1458年まで書かれることはなかった。その年、最後の教えである3度目のヴィジョンのなかで、ニグマはタントンに書く許可を与えていた。場所はリウォチェであり、記録したのはタントンの弟子ロド・ギャルツェンだった。この系譜に伝授されたもののほとんどは彼が記したものである。

 『精髄集大成』(
Snying po kun ’dus)やそれに関連した教えは、タントンの教え(Thang lugs)と呼ばれ、数少ない大成就者自身が署名した著作のひとつとして、シャンパ・カギュ派に受け継がれていった。彼のシャンパの教えはほかの宗派の教えとはまったく異なった特徴を持ち、この系譜の師から師へと継がれていった。タントンの他の厖大な教えと同様、この伝承をのちに受け取ったのがジャムヤン・キェンツェ・ワンポだった。師から教えを受け取るとともに、ヴィジョンのなかで直接タントン・ギャルポと会ったのは、キェンツェが15歳のときのことだった。

 もっとも固く守られてきたタントン・ギャルポの秘教的な教えは断(チュー)の行である。タントンはけっしてこれについて書かなかった。各地を旅し、学ぶうちに、タントンはチベット中のチューの方式に通暁するようになった。ラドンパ・ソナム・チョクパからは、パドマサンバヴァが残し、グーキ・デムトルチェン(13371408)がテルマとして発見した、ニンマ派の北伝派が伝えるチューの行を学んだ。

 しかしながらラーメーシュヴァラのカシミール人の墓地でタントンの前に現れたのは、マチク・ラブドゥン(
11世紀から12世紀頃)の姿をしたヴァジュラヴァーラーヒーのヴィジョンだった。これはのちにもっとも意味深い教えとなる。マチク・ラブドゥンはチベットにおける影響力の強いチューの行法の母ともいえる存在だった。

 そして、ヴィジョンによってマチクからタントンに伝えられた教えは、『タントン・ニェンギュ(タントンの口伝
Thang stong snyan brgyud)』、あるいは『マチクの秘密の行の口伝』(Ma gcig gsang spyod snyan brgyud)として知られる。それは途絶えることなく現在まで伝えられている。タントンは最初の建築事業を始める前にチューの行をおこない、地元の霊を鎮めている。

 タントンの口伝の行はヴァジュラヴァーラーヒーとそのマンダラの神々に焦点を当てている。マチク・ラブドゥンとパダムパ・サンギェ(?−1105)の分類法によると、この技法はチューとシジェ(鎮静)の行法に含まれる。タントン・ギャルポはラーメーシュヴァラでヴィジョンのなかに得たこれらの教えを混合し、そのことは秘密にすべきと考えた。そして彼は「チューの行者の王」(Gcod mkhan gyi rgyal po)と彼自身が呼んだ弟子ナムカ・レクパにのみ伝授した。

 タントンはナムカ・レクパに口頭で厳しく、レクパの家族内で3世代のみ、唯一かつ特殊な法統によって継承されることを誓わせた。3世代のちに秘密の封印は解かれ、もしそのとき教えが広く伝播していたら、それは有益なことであるとした。教えはナムカ・レクパから甥のケドゥプ・シャーキャ・シェンイェン(?−
1549)へと継承され、彼はまた甥のパゴ・ギャルツェン・パルサン(1519?−1592?)へと伝授され、さらに彼から甥のションチェン・ケツン・テンパイ・ギャルツェンへと受け渡された。

 この法統のなかでは偉大な人物として知られるションチェンは、はじめてこの教えを書き記し、タントンの予言に従ってひとつの法統のみの独占を解除した。のちにはタントンの後裔であるリウォチェのンガワン・ヨンダクやチュウォリのテンズィン・イェシェ・ルンドゥプのような多くの偉大な師がこの法統を護持した。イェシェ・ルンドゥプとジャムヤン・キェンツェ・ワンポはふたりとも、18世紀、19世紀の継承が断絶しかけた頃にその残り火のような教えを受け取った。

 『タントンの口伝』は極端に秘教的な全集だが、大成就者の「生きる者への無限の恩恵」(’Gro don mkha’ khyab ma)として知られるアヴァローキテシュヴァラ(観音)の覚醒瞑想法はチベット仏教でもっとも人気のある修行法となった。タントン・ギャルポはアヴァローキテーシュヴァラの化身と考えられ、その教えはボーディサットヴァ自身と同等のものと考えられてきた。カルマパ15世カキャプ・ドルジェ(18711922)はタントンが書いたものに対しつぎのように述べた。

「成し遂げたタントン・ギャルポ師はじつに人類全体の利益のために現れたアヴァローキテーシュヴァラである」

 多くのタントンに関する予言が彼はアヴァローキテーシュヴァラの化身であると認識している。そして生涯を通じてヴィジョンや教えによってボーディサットヴァの庇護を受けてきたと考えられた。

 タントン・ギャルポは最初、義理の兄ダクサンパ法王のガイダンスのもと、『マニ大要(マニ・カブム)』のアヴァローキテーシュヴァラの行法と古代の実践法を学んだ。タントンはこれらの教えを学び、アヴァローキテーシュヴァラが彼の師カ・ンガパ・パルジョル・シェラブに与えた帰依法を受け取りながら、『生きる者への無限の恩恵』は彼が見た多くのアヴァローキテーシュヴァラのヴィジョンがもとになっているのではないかと信じられていた。それにもかかわらず、瞑想祈祷文の一部はあきらかに初期の実践的な教えから借りたものだった。

 タントンのテキストは相変わらず人気があった。そしていくつかの論文のテーマとして取り上げられた。そのなかで最初に現れたのは、大成就者とつながる法統の中心人物であったクンガ・ドルチョク(
15071566)が書いた美しい小文だった。『生きる者への無限の恩恵』もまた、カルマパ16世ランジュン・リクパイ・ドルジェ(19231981)やカル・リンポチェ(19051989)、そして欧州や北アメリカにチベット仏教が広がり始めた1970年代にチベット人でない学生たちに仏教の瞑想を紹介したひとりであるデシュン・リンポチェなど現代の師によって選択された。

 タントン・ギャルポの伝記はさまざまなエピソード、とくにアヴァローキテーシュヴァラの話を数多く含んでいる。多くの教えはボーディサットヴァとつながっている。たとえばタントンがマニ信奉者(マニパ)に与えたものは簡単な口上からはじまる。

「ヴァジュラダーラの言葉、マハーカルニカ、タントン・ギャルポの文」

 タントンとマニ信奉者(マニパ)が結びついていることは、例をいくつもあげるまでもなくよくわかる。彼らがその名を戴いているのは、アヴァローキテーシュヴァラのマントラ、「オーム・マニ・パドメ・フーム」を繰り返し口にするからである。この放浪するマニ信奉者(マニパ)との結びつきは興味深い。彼らはマイムと踊りによってアヴァローキテーシュヴァラの教えを表現しているのだ。

 アチェ・ラモと呼ばれる大衆オペラと劇風パフォーマンスがあるが、これはタントンが創作したと考えられている。どのタントンの伝記にもアチェ・ラモのことは記されていないが、このオペラやその他ケサル王物語などの大衆文化にはあきらかにタントン・ギャルポの影響が見られる。タントンが作ったとされる吉祥のマニ丸薬(
mani ril sgrub)や紅白の色のついた「百病に効く薬」(nad rgya sman gcig)も、アヴァローキテーシュヴァラから霊感を受けたという。民間信仰や宗教に目を転ずると、タントンが創案したという悪霊祓い儀式の「石壊し」(Pho bar rdo gcog)にも、タントンとアヴァローキテーシュヴァラとの結びつきの強さが現れている。

 タントン・ギャルポはニンマ派のなかで確固とした地位を占めてきた。ジャムゴン・コントゥルはタントンの生涯を描くにおいてつぎの言葉からはじめている。

 成就した者タントン・ギャルポは、子宮から生まれたかのように見えるが、アヴァローキテーシュヴァラ、栄えあるハヤグリーヴァ、グル・パドマサンバヴァ、それらすべての化身である。

 ニンマ派の父、パドマサンバヴァは蓮の花から生まれたと信じられ、タントン・ギャルポは彼の心の化身としばしば言われる。タントンの伝記には、彼が堕落の時代に戻ってきた第二のパドマサンバヴァだとし、チベットの最初の仏教伝播期にウッディヤーナの師が残したテルマを発見することになっていると言われた。

 タントンのオリジナルの伝記はその名を残すのみだが、『予言の明るい灯』から引用された箇所は生き残った。あきらかに彼の5つの宝(テルマ
thugs gterまたはdgongs gter)は、仏道を達成し、肉体を地上に残さなかった5人の特別な者たちのために残したものだった。タントンはまた当時の人々に理解されないと考えたテルマをもう一度隠したともいう。こうした教えのすべてはのちにタントンのテルトンの法統を復活させたジャムヤン・キェンツェ・ワンポによって明らかになった。

 タントン・ギャルポはおもにニンマ派の4人の師から学んだ。このうちテルマの北伝派に属するふたりとは、タントンはインドで出会った。このクンガ・ニンポとカルデン・ドルジェ・ダクパについては、それ以外のことはなにもわかっていない。伝記に登場するタントンがネパールやインドで会ったほかの大師たちはサンスクリットの名前を持っているのに、このふたりだけチベット語の名前で呼ばれていることから、彼らは当時インドに滞在していたチベット人大師なのだろう。

 チベットのタントンの師、クンパン・ドンヨ・ギャルツェンやラドンパ・ソナム・チョクパはふたりとも、ニンマ派のテルトン北伝派の創始者グーキ・デムトルチェン(
13371408)の弟子だった。タントンはこのふたりの師から、ニンマ派の法統が継承する教えのすべてと、北伝派が伝えるヴィジョンの教えとをとくに学んだ。

 ニンマ派の教えに通暁していたことはまちがいないが、タントンがどれだけ北伝派の教えを知っていたか、彼自身が編んだテキストがなく、実態は判然としない。彼はときどき「ウルギェン・タントン・ギャルポ」と称することがあったが、これは自身をウッディヤーナ(ウルギェン)のパドマサンバヴァになぞらえていたのだろう。そして母親が人生の終わり近くになって尼僧になったとき、彼は母親にニンマ派のゾクチェンを教えているのである。

 彼のウッディヤーナのパドマサンバヴァの天国への旅、大成就者フームカラとの幻視のなかの出会い、数えきれないほどのテルマの発見などは、どれも彼の人生におけるニンマ派の重要性を物語っている。さらにほかの大師や弟子たちはタントンがドルジェ・ダクポツェルであるというヴィジョンを見ている。あるいはこの姿のタントンと会っている。ドルジェ・ダクポツェルは、グーキ・デムトルチェンの教えのなかではパドマサンバヴァの憤怒形である。タントンはしばしばゾクチェン、とくに北伝派のゾクチェンのようなニンマ派の教えを講じた。その法統は彼から受け継がれていったのである。

 ンガリ・パンチェン・ペマ・ワンギャル(14871542)とリクズィン・レクデン・ドルジェ(15001577)の父親であるニンマ派大師ジャムヤン・リンチェン・ギャルツェン(1446?−?)はタントン・ギャルポの死が迫っていた頃に会っている。テルトン(埋蔵経典発掘師)のクンキョン・リンパ(13961477)のアドバイスにしたがってジャムヤン・リンチェン・ギャルツェンはリウォチェへ行った。ある独立した情報源から、年老いた隠棲者の生活のすばらしい輝きを示すエピソードをわれわれは知ることができる。

 ジャムヤン・リンチェン・ギャルツェンは大成就者タントン・ギャルポと会うためパルチェン・リウォチェへ向かった。そのとき大成就者は隠棲生活を送っていた。この期間、彼の「身口意(身体、会話、心)」とは一年の間会うことができた。彼の体と会うことができるのは翌年の一年だった。彼の身体と会話は翌年、まったく会うことができなかった。ジャムヤン・リンチェン・ギャルツェンが到着したとき、大成就者の身体が会うことができる期間だったので、大成就者は話すことはできなかったが、日中、彼の顔のマンダラを見つめ、食べ物が与えられた。

 夜の間タントンは話すことができたので、「10の高貴なスートラ」や「ニグマ六法」、「マハームドラー」「(3種の)マハーカルニカ」「心の実践」「北伝の大要」などの教えを与えた。半月の間に、大成就者は多くの未来の予言や数えきれないほどの口伝やアドバイスを与えた。ジャムヤン・リンチェン・ギャルツェンがいかにして113年生きるかという話も含まれていた。

 ジャムヤン・リンチェン・ギャルツェンが出発する日、大成就者は彼に33の長寿丸薬を渡し、両腕を伸ばしながら「パッ!」と3回叫んだ。近侍の者がつぎのように説明した。

「あなたの前世において蓄積されたカルマが仏法に目覚めました。仏法と世俗的な障害を取り除いてください。あなたの髪が腕の長さに伸びるまで修行をしてください。そしてあなたが33歳か64歳になったときはとくに気をつけてください。父と子はアカニシュタの天国で会えるでしょう。そこではどこへ行くこともでき、障害はないでしょう。家に帰るに際し、不愉快な点があれば私が取り除きましょう」

 この描写部分はリウォチェでの人生最後の時期、タントン・ギャルポが長い間こもりの生活をしていたという伝記の描写とマッチしている。竜の年、おそらく1484年、タントン自身、23年間おなじ瞑想座布団の上で動いていないこと、そのうち14年間は黙したままであると書いている。タントンの謎めいたふるまいを解釈し、彼らの出会いに重要な役割を果たした近侍とは、おそらくまちがいなく伝記の作者であり、リウォチェでの摂政だったシェラブ・パルデンである。彼はタントン最後の16年間、ずっとそばにいた近侍だった。

 タントン・ギャルポと北伝派との関係においてもっとも重要な大師はクンパン・ドンユ・ギャルツェンである。タントンが最初に要請するよりも前に、ドンヨ・ギャルツェンは彼がグーキ・デムトルチェンのテルマの教えのひとつ「鉄の木の行法」(Lcags kyi sdong po)をおこなうことによって、寿命を伸ばす能力を得るだろうと予言している。

 グーキ・デムトルチェンの「心の行法」に分類される「鉄の木の行法」とは、アミターバやアミターユス、ハヤグリーヴァなどを瞑想することによって、生命の本質を持続させる技法のことである。このテルマの経典は、パドマサンバヴァの明妃女神チャンダーリーによってダーキニーの秘密の言語で書かれたと言われ、グーキ・デムトルチェンが再発見するまで暗褐色の犀の皮製の箱に隠されていた。サキャ派大師ンガワン・クンガ・タシは、これらの教えの手ほどきのための小論のなかで、「鉄の木の行法」を実践することによって不滅を手に入れることができたと書いている。

 「鉄の木の行法」は、パドマサンバヴァ自身が不滅を得るために用いた特別な技法だという。パドマサンバヴァがインド人明妃マンダラヴァとともにマラティカ洞窟で瞑想をしているとき、実際にアミターユスが現れたという。パドマサンバヴァはアミターユスにたくさんの教えを請うたが、そのなかに「鉄の木の行法」が含まれていた。彼とマンダラヴァは、それによって、不滅の、破壊されることのない金剛身を得ることができた。タントン・ギャルポの伝記的予言であるパドマサンバヴァの『予言の明るい灯』にはつぎのように書かれている。

彼の寿命は八十一である 
しかし命を支える女神の 
霊薬の行を実践すれば 
それよりもはるかに長く生きられるだろう 

 タントラ修行のパートナーを見つけることは、テルトン(埋蔵経典発掘師)として最低限必要とされることである。というのも、達成をもたらし、秘密の教えを守るのはダーキニーだからである。タントン・ギャルポは生涯を通じて寿命を伸ばす行を実践し、息子テンズィン・ニマ・サンポの母となるカンドマ・センゲやジェツン・チューキ・ドンメのような女性とタントラ式の瞑想修行をおこない、途方もなく長い寿命を得ることができた。

 今日まで伝わっているタントン・ギャルポの数ある教えのなかでも、生命保持の技法はもっとも知られている。これらの技法は「不死を与える輝かしい者」(’Chi med dpal ster)と呼ばれ、永遠の生のブッダであるアミターユスと、アヴァローキテーシュヴァラの畏怖の形であるハヤグリーヴァに焦点を当てている。タントンはチャーマラ島の、あるいはウッディヤーナにあるパドマサンバヴァの蓮の光の宮殿を訪ね、この蓮華に生まれたグルから直接教えを授かったと信じられている。

 一説によると、彼はおなじ内容の教えを1420年代、サムイェ寺近くのチンプー洞窟から、5巻の埋蔵経典として再発見したという。「不死を与える輝かしい者」はこのように純粋に幻視の啓示であり、隠された秘密の教えと考えられた。北伝派とチャクサム派は、それぞれタントンの長寿は、自分たちの方式にしたがって生命保持の瞑想修行をした結果であると主張した。

 タントンはチャーマラ島のパドマサンバヴァから「不死を与える輝かしい者」の教えを受け取る何年も前に、北伝派の「鉄の木」の修行法を学び、実践していた。そしてチンプー洞窟で埋蔵経典を発見した。北伝派の技法とタントンの技法が関連していてもおかしくはないが、この場合は当てはまらないだろう。

 「不死を与える輝かしい者」は、不滅に焦点を当てたタントン・ギャルポのオリジナルのヴィジョンの教えを儀礼化したものである。この技法は長寿を達成するためのものだが、究極の目的は死が誤った観念であることを悟ることである。もし心が生まれないものであることを人が知ったら、それが死なないことも知ることになるだろう。教えは口伝で三代伝えられた。

 最初はタントンからサキャ派大師クンパン・ドリンパ(
14491524)とシェニェン・タシ・サンポへ、つぎに彼らからクンガ・ドルチョク(15071566)へと伝わった。彼はチャクサム派の高僧であるテンズィン・ニダ・サンポに教えを伝えた。ニダ・サンポははじめにタントンのオリジナルの言葉を書き記し、技法の歴史とその実践法のマニュアルをまとめた。これがのちに「不死を与える輝かしい者」と呼ばれるようになった。

 タントンのヴィジョンからのちにこれを発展させたのは、ダライラマ
5世だった。そして19世紀にタントンから幻視的な啓示を受けたのがテルトンのチョジェ・リンパ・ザムリン・ドルジェである。それは依然として生命保持の修行法として広く実践されていた。「不死を与える輝かしい者」や「生きる者に無限に与える恩恵」はチベット中の新旧の宗派に広がった。

 テンズィン・ニダ・サンポのあと16世紀後半、これらの教えからさまざまなバリエーションが生まれた。「不死を与える輝かしい者」はチベット仏教においてもっとも広がり、影響力を持った長寿の実践法である。

 タントン・ギャルポは不滅の純粋意識(’chi med rig ’dzin)の持ち主とみなされていた。そして純粋なヴィジョンのなかで、カルマのつながりでだが、つねに現存していると考えられた。これらのことに加え、何世紀もの間、幻視のなかでタントンと会ったというような物語が語られてきた。

 サキャ派大師クンガ・レクパイ・ジュンネ(
17041760)は生涯を通じてタントンの夢やヴィジョンを見てきた。たとえばあるときは、幻のタントン・ギャルポが彼に新鮮で湿った人間の心臓が入った宝飾の器を差し出し、見えるように心臓を切って開けた。クンガ・レクパイ・ジュンネはそれがシェントン(shentong)、すなわち他空性の究極的な意味の象徴的な啓示だと理解した。彼は他空性を深く評価していた。もうひとりのサキャ派大師シュチェン・ツルティム・リンチェン(16971774)はひどい眼病に苦しみ、失明しようとしていた。そのあとに起こったできごとを彼は自伝のなかでつぎのように記す。

 夢の中のある時点で、私は窓から外を見やった。遠くの山の上の牧草地に白いラバに乗った成就者タントン・ギャルポの姿が見えた。住まいから瞬時にそこへ行くと、彼は言った。

「なにか問題をかかえているようだな」

 彼がいつ小便をしたかわからないが、彼は小便に見える液体がいっぱいに入ったコップを私に渡した。

「これを飲めばどんな障害も除去されるだろう」と私は考えた。

 それを飲むと、私は目覚めた。大成就者は消えていた。

 幻視や夢のなかでタントン・ギャルポの原初の意識の身体と会い、その慈しみを享受した者は少なくない。しかしながらタントンの教えが21世紀まで生き残るには、ジャムヤン・キェンツェ・ワンポの存在が欠かせなかった。彼は19世紀にタントンの教えのすべてを受け取り、実践し、伝授したのである。キェンツェ・ワンポはタントン・ギャルポの化身とみなされ、しばしば彼に会いに来た人々の前で実際にタントンの姿として現れたという。ジャムゴン・コントゥルはキェンツェ・ワンポ自身から直接、つぎのような話を聞いた。

 ジャムヤン・キェンツェ・ワンポ、あるいは秘密の名前でウーセル・トゥルパイ・ドルジェは、15歳のとき、つまりチベット暦第14周期の「木・男・馬の年」(1834年)、その秋の真ん中の14日目の明け方、夢を見た。どこか認識できないが、すばらしく美しく飾られた邸宅に彼はいた。そこに大きな赤い円形のマンダラがあった。その上には信じられないほど美しい白い雲が浮かび、そのなかに5種類のダーキニーたちに囲まれた大成就者タントン・ギャルポの姿があった。

 彼の前にはイニシエーション儀礼のための道具が整えられていた。彼はイニシエーション儀礼をおこない、教えを講じてくれた。ジャムヤン・キェンツェ・ワンポが目覚めると、実際にそこにタントン・ギャルポがいた。タントンは教えの頌を詠み、物事の本質をいざなって彼に送ると、それはキェンツェ・ワンポのなかに入って溶け込んだ。それは教えの熟成と解放をもたらし、彼の心の中で明るく輝いた。それから彼は修行法マニュアルや第
14日目の大成就者の心滴(本質)などを書き記した。

 おなじ夢、あるいはヴィジョンのなかで、キェンツェ・ワンポはマハームドラーのお守りやニグマの六法を直接伝授された。それはタントン・ギャルポ自身が瞑想マニュアルとして作ったシャンパ派でもっとも重要な教えだった。キェンツェ・ワンポはひそかにこの「大成就者の心滴(本質)」を実践していたが、1866年、47歳のとき、はじめてジャムゴン・コントゥル、チョクギュル・リンパ(18291870)、トゥプテン・ギャルツェンに教えた。

 これらの教えはのちに多くのすぐれた弟子たちに伝えられた。ジャムゴン・コントゥルもまたヴィジョンのなかでタントン・ギャルポと会った。それらは編集されて「美しい宝の教え」という全集になった。キェンツェ・ワンポは、これらのヴィジョンによる啓示のほか、タントンから伝わるすべての法統の継承者であり、現代にいたってもこれらの教えの伝授者であり、守り手である。

 「大成就者の心滴(本質)」はタントン・ギャルポが生地近くのラツェの洞窟やサムエ・チンプーの岩穴にふたたび隠した宝(yang gter)を代表するものである。ラツェ近くの洞窟に隠棲し、修行しているとき、インドやネパールで大師たちから受け取った多数の深遠なる教えを伝えるには、時機尚早と彼は考えた。彼は大量のスレートを集め、2本の太い鉄のペンが擦り減るまで、スレートに文を刻んで教えを記録した。

 カルマによってだれかが発見するまで、そして未来の世代が恩恵を受けるように、彼はこの石板を残したのである。しかし「大成就者の心滴(本質)」は地のテルマ(
sa gter)として発見された宝とみなされることはなかった。それはタントン・ギャルポが原初の意識の身体でキェンツェ・ワンポに教えた「心のテルマ」(dgongs gterまたはthugs gter)なのだった。タントンは心の究極的な奥底にすべての本質的な教えを隠した。キェンツェ・ワンポはタントンの転生だったので、彼の心がしかるべき状態に達したとき、覚醒が生じたのである。

 タントン・ギャルポのオリジナルの(テルマの)著作が失われ、その内容がはっきりとはわからなくなっているいま、「大成就者の心滴(本質)」はたいへん重要である。教えは3つのグループに分けられる。

 基本となるテキストはタントンに焦点を当てたグル・ヨーガの行法である。それは深い気づきによって精神を統一するために使われる。5つの方法は、静寂なパドマサンバヴァ、憤怒のパドマサンバヴァ、四手のアヴァローキテーシュヴァラ、ハヤグリーヴァ、ヴァジュラヴァーラーヒーの5つの姿の大師に焦点を当てたものである。

 もうひとつのテキスト群は、ニンマ派の8大ヘールカを慰撫する方法の集大成である。その行法は、タントンがパドマサンバヴァの宮殿に旅を、8つのヘールカを見て、その技法を学んだときのヘールカに焦点を当てている。いくつかのテキストは、生命の本質を強化し、保持することと関連している。そして全体の鍵となる点を金剛偈句(げく)を詠ってあきらかにしている。

 この種の直接的な伝授は通常の歴史的なできごとを超越している。そして師から弟子への伝授という通常の伝統的なやりかたに風穴をあけるものである。タントン・ギャルポは聖なる世界とこうした直接的な交流によって重要な教えを受けることができた。そして同様にこうしたヴィジョンによる伝授や啓示は現在でも起こっているのである。5世紀がたった今も、歴史上は「過去」の大師にあらたな弟子が生まれることがあるのだ。