ターラーの歴史 ケンチェン・パルデン・シェラブ 宮本神酒男編訳 

ターラー修法の初期の歴史 

 三度目の転法輪をおこなったとき、お釈迦さまはターラーについての教えを外タントラ、内タントラ、大究竟(ゾクパ・チェンポ)に分けて説かれました。「ターラーへの21の賛歌」を含むこれらはインドでとても人気が出ました。それらは8世紀のグル・パドマサンバヴァ、チソンデツェン王、大師シャーンタラクシタの時代にチベットにもたらされました。グル・パドマサンバヴァはチソンデツェン王や智慧のダーキニー、自身ターラーの生まれ変わりであるイェシェ・ツォギェルを含む心の弟子たちに多くのターラーの教えを授けました。その数世紀のち、ターラーはチベット仏教でもっとも人気があり、パワフルな神格となりました。

 ニンマ派、すなわちチベット仏教の旧訳派で、ターラー修法はカーマとテルマの両方の伝統において発展しました。テルマの伝統のなかでターラー修法には大中小3つの系統がありました。これらの系統では、それぞれターラーの静寂、半憤怒、憤怒の姿を見せています。またこれらの修法はそれぞれ長さも量も異なっているのですが、その性質も結果もまったく同じです。しかし時間を経るにしたがい、別物になっていったのです。つまり伝達の仕方や灌頂、伝承のシステムは崩壊してしまったのです。これらの経典もまた消失してしまいました。

 ターラー修法の「大」系統は、12世紀、グル・ツェテンという著名なテルトンによってテルマが発見されて明らかになりました。グル・ツェワンが教えを広め、人気を博したのですが、数百年後、人間の修行者のレベルにおいては滅んでしまいました。地上からそれは消え去ったように思われたのですが、天上の神の領域においては存続していました。それはのちに再発見されることになりますが、この話についてはあとでまた取り上げることにしましょう。

 ターラー修法の「中」系統は、グル・パドマサンバヴァとイェシェ・ツォギェルがチベット北東部のシャン・ザンプ・ルンに隠したテルマと言われています。もうひとりの有名なテルトン、グル・ジョバルがそれを明らかにする者になるはずでした。ところが時を間違ったか、彼がほかの活動に忙しかったか、時機を失ってしまったのです。結果として経典はのちの時代に発見されることになりました。

 ターラー修法の「小」系統もまたグル・パドマサンバヴァと智慧のダーキニー、イェシェ・ツォギェルによって隠されたもので、有名なテルトン、レシ・ラモによって発見されました。彼は教えを広め、それは長い間大変な人気を博したのですが、「大」系統と同様、その系統は途絶えてしまいました。

 こうしたことになったからといって、人々がターラーの修法をやめたわけではありませんでした。ブッダがターラーについて教えを説いたときから今日まで、ターラーは人々の信仰心によってつねに呼び起こされてきたのです。グル・パドマサンバヴァがイェシェ・ツォギェルやほかの弟子たちに教えたより深奥で隠された修法の伝統は耐えることがなかったのです。

 なぜこのような困難な事態になったのでしょうか。深みのあるターラーの教えは母タントラと関係があります。これらの修法は智慧のダーキニーたちと親しみがあったのです。おそらくこれらの教えの一部は十分に保持されなかったのでしょう。それはつまり、一部の修法の実践者は智慧のダーキニーとイェシェ・ツォギェルに、適切な敬意を払わなかったのです。そのためこれらの系統は困難に直面することになったのでしょう。考えられるのは、修法があまりに独特で、秘密であったため、当時の人々はうまく取り扱うことができなかったのでしょう。