ボカル・リンポチェの聖なるターラー 

究極の真実と相対的な真実 

 神々ははるか遠くの世界に住む格別にすぐれた存在で、ときおり人間を救済するためにやってくるとわれわれはみなしがちだが、たとえそのような印象を与えるにしても、本質的にはそうではない。

 実際、もしわれわれが心の本質を理解するなら、神々はわれわれの心と異ならない存在としてその姿を現すだろう。そのことを理解しないで「私・他者」という二元性のなかで生きていくと、神々は二元性の劇の演者となり、「私」と「神」の二極の現れの関係が確立されることになる。

 たとえば夢の中で神と出会うとしよう。その神も個別の存在であることをわれわれは確信するだろう。また神を見ることによって喜びや信仰心を感じる「私」のリアリティを確信するだろう。しかしながら、実際、神を感受している人間と神は、両者ともおなじ表現しがたい本質、すなわち心自体からの現れなのである。同様に相対性の世界に住む人々にとっては、本質から分離することのできない相対性の世界において神々は現れる。その場合、本質とは心の本質にほかならない。

 神々の本性を理解するために、われわれはリアリティに2つの相があることを思い起こさねばならない。

 究極の真実:主体と客体の観念を超えるもの。私と他者。概念と言葉を超越するもの。真実はつねに存在し、つねに「真実」である。しかし凡庸な存在には体験することができない。

 相対的な真実:本質的には誤謬だが、それを体験する人々にとっては「真実」である。主体と客体、また「私」と「他者」の誤った感覚に基づいた真実。

 われわれの観点から見て「私」があり「神」があるとしても、神の観点から見ると、私も他者も、主体も客体もない。それは現れがないということを意味してはいない。現れが二元的でないということなのである。それは「円心と周縁」を欠いているのだ。

 心の本性は、あるがままの心の本質であり、心理学的な緻密さやすべての誤謬、幻影、主体と客体から解放されているということである。

 心の本性はなぜ「神聖なるもの」と呼ばれるのだろうか。それは苦悩がなく、いかなることからも乱されない純粋さであり、またそれが至福であるからだ。この幸福は、通常の世界で経験する相対的な幸福とは異なっている。それは客体や「私」と「他者」の関係に左右される刹那的な幸福ではない。心自体に内在する、すべての二元性を超えたところにある幸福なのだ。この幸福は恐怖や苦悩によって変容されることはない。純粋で不変の幸福はそれ自体が神である。