手段と現実
すでに述べたように、相対的な意味においてだが、神々はさまざまな形、色、属性、また装飾品をまとってわれわれの前に姿を現す。
これらの神々は究極的な段階にあるわけではない。われわれの感覚がとらえる観点から見れば、神々は究極から切り離されているわけではない。
事実上神々の本性とはこのようなものであり、神々を信仰すれば、究極の神、すなわち心の存在のありかたの理解へとつながる。この意味において、神々は「手段」から構成されている。しかしながら、神々が単純に方策であるわけではない。
実際、それらは「覚醒の報いの身体」(サンボーガカーヤ 報身)と呼ばれるものである。言い換えるなら、極端に微細なレベルのあらわれである。この愉悦の身体は絶対的身体(ダルマカーヤ 法身)、すなわち究極の神と変わらず、あらわれを超え、目覚めた心と切り離されることはなかった。愉悦の身体は、絶対的な身体のエネルギーの表現である。この表現はその起源と切り離すことができない。神々は心の究極の本質とつながっていて、接触する手段であるだけでなく、まさに本性そのものである。
覚醒に導く道という観点から言えば、これらの神々はわれわれの心の外部に、進歩を助けるブッダとして現れる。われわれは二元的な考え方から離れられないのである。
結実という観点からいえば、つまりひとたび心の本性を完全に理解することができたなら、神々はもはや外部の現象として見られることはない。二元性を超えたものとして、「私」と「他者」の観念を超えたものとして、絶対的な身体のあらわれとみなされる。そして絶対的な身体とともに心があらわれるのだ。