人間から来る聖なるもの
これまで説明してきたように、ブッダのような覚醒した存在は、生きるものに恩恵を与えるため、とくに意識することなく、自発的に、普通の人間には到達できない純粋な現れの段階においてさまざまな姿をとる。彼らは報いの身体と呼ばれる。その姿はさまざまである。男、女、静寂、憤怒、その他のいくつかの様相。これらの神々はブッダの慈しみの活動から直接来ている。これらの神々が女性の姿を取っているなら、彼らは女神と呼ばれる。
相対的な観点から見ると、神々の一部は人間が昇華して聖なるものになったとものである。男たちや女たちは仏法の道に入ると、通常の状態から不完全なものをそぎ落とし、自分自身のなかに覚醒したものが花咲くのを見ることになる。彼らが聖なる状態に到達したとき、神や女神になる。
ターラーは教育上の真実という観点から見れば少なくとも後者のカテゴリーに属しているといえるかもしれない。このあと見ていくように、彼女ははじめ普通の(凡庸なる)存在だったが、あらゆる段階を経て、最後は成就して女神となった。
<質問>
男の神々は熟達した方法、すなわち慈しみのある活動、覚醒のダイナミックな極地を表わし、一方、女の神々は知識、覚醒の安定した極地を表わしているといわれますが、そうなのでしょうか。
<答え>
対極的に表われているかという話でいえば、そのとおりです。実際、私たちの感覚は習慣的にそれを受け入れています。私たちは人間の性を男と女に分けますが、おなじように神々をも男と女に分け、それぞれに特徴を加えて考える傾向があります。しかしながら報いの身体のリアリティという観点から見た場合、方法と知識はつねに分かちがたく結合して神の本質となっているのです。
<質問>
神々はチベット語でイダムと呼ばれることがあります。これはどういう意味なのでしょうか。
<答え>
イダムは実践修行する場合の神に関する語彙です。私たちの願い、切望、私たちに縁のある神が選定されるのです。
*イダムは本尊と訳される。誓約という意味もある。
<質問>
それはつまりだれもが、彼も彼女も、イダムを選ばなければならないということなのですか。あるいはラマが個人それぞれに特定のイダムを与えるのですか。
<答え>
それらに対する答えのほとんどは「いいえ」です。実際すべてのイダムはおなじ役目を果たしています。私たちが特定の神と強い縁があるかどうかは、さだかではありません。しかしながらカルマのなせるわざで、私たちはチベット仏教の大きな宗派のひとつと出会います。そしておなじようなカルマの働きによって、ある環境下に導かれ、ほかではなく、あるひとつのイダムと出会い、それと関連した修行をおこなうのです。
カギュ派の修行には3つの大イダムがあります。それはヴァジュラヴァーハリ(ドルジェ・パモ)、チャクラサムバラ(コルロ・デムチョク)、ジナサガラ(ギェルワ・ギャムツォ)です。ゲルク派の修行ですと、グヒヤサマージャ(サンワ・ドゥパ)、ヤマンタカ、サキャ派ですとヘーヴァジュラ(キェパ・ドルジェ)といったふうに。
しかしながら個人個人でいえばあるイダムの実践修行を強く欲することがあるかもしれません。この場合、その人は自分の属する宗派のかぎらずそのイダムの実践修行をおこなうことになるでしょう。またそれほど多い事例ではないのですが、特別な縁があることを認識したラマが特定のイダムを弟子に与えることがあります。
チャクラサムバラの修行をはじめたビルワパがこの例にあてはまります。しばらくして彼は悪い夢を見たので、すべての修行をやめました。そしてヘーヴァジュラの修行を実践するよう要求されました。この修行によって彼はすぐに覚醒したのです。このことはチャクラサムバラが悪いイダムだったということではありません。過去生において彼のチャクラサムバラとの縁は薄く、ヘーヴァジュラの修行はすでに相当積んでいたのです。このことはよい結果をもたらしました。それゆえヘーヴァジュラを実践するために、チャクラサムバラをあきらめる必要があったのです。一般的に縁というのはそれほど明確なものではありません。
<質問>
おっしゃったイダムのなかにターラーの名はありません。ターラーはどのような位置にあるのでしょうか。
<答え>
ターラー(ドルマ)はマンジュシュリー(ジャムペヤン)、アヴァローキテーシュヴァラ(チェンレシグ)とおなじく、すべての宗派、すべてのチベット仏教徒のためのイダムなのです。
<質問>
男のイダムは男に、女のイダムは女に適しているのでしょうか。
<答え>
とくにそういうことはありません。男が女のイダムの修行を死、女が男のイダムの修行をすることもあれば、その逆もあるのです。