絶対的ターラー
一般的な神々について言えることはターラーにもあてはまる。ターラーのアイデンティティは他の神のアイデンティティと同様、二つの異なる視点から、すなわち教育上の真実と確固たる真実から見ることができる。教育上の真実は通常の考え方からなり、確固たる真実はそれを超えたところにある。ターラーのこの二重のアイデンティティは矛盾しているわけではない。一方が他方を否定することはできないのである。
絶対的な見地からすると覚醒した神としての彼女の本性ゆえ、ターラーは私たち自身の心の本性そのものである。
心の本性が何であるかあきらかにしていこう。それはいかなる概念をも、いかなる精神的緻密さも、つぎのようないかなる二項観念をも超えている。
●存在と非存在
●「なし」と「何か」
●素材と非素材
概念を超えることは「無」を意味するのではない。心の本性は意識そのもの、つまり純粋な意識の体験そのものの領域である。知識も理性も言葉もそれをとらえることができず、表現することもできない。しかしそれは存在し、否定することはできない。
だれのなかにも内在するこの意識はいかなる精神的緻密さを超え、究極的な場所におけるターラーである。
究極のターラーを表わすためにほかの名が用いられることが多い。よく知られた例では「知識の完成」、すなわちプラジュニャーパーラミターの名で呼ばれる。
「知識の完成」は形を持っていない。それは絶対的な身体(ダルマカーヤ)の「空」である。この「空」はすでに説明したように、それ自体純粋に「報いの身体」(サムボーガカーヤ)を表わすことができる。「報いの身体」の段階において、ターラーやヴァジュラヴァ−ラヒー(ドルジェ・パモ)などのような女性の神々が現れるのだ。それらのすべてが本質的には知識の完成であり、私たちの心の本性である。
またターラーは「すべてのブッダの母」と言われる。それは彼女の本質的なものなのである。心の本性、知識の完成、そして「空」は同義語なのである。すべての過去仏は「空」を理解することによって(あるいは心の本性を理解することで)覚醒した。それは現在のブッダにとってもおなじであり、未来仏にとっても同様だろう。このように、時間、空間、すべての概念を超えたターラーはすべてのブッダの母なのである。