神山の父、オデ・グンギェル
天地創造の頃、チベット高原に9座神山の父と呼ばれる山神オデ・グンギェルがあらわれました。白い衣を着て、雪のように白い宝馬に乗り、右手には色とりどりの弓矢と矛を、左手には雲から雨を降らせるネウレ(ne’u le)こと宝を吐くマングースを持っていました。この神は世界でもっとも古い神なのです。
オデ・グンギェルは氷と宝からできた要塞の城のなかに住んでいました。その山頂には7つの国の宝があり、山の斜面には8つの吉祥のしるし、16尊者、21のターラー女神が並んでいました。山麓には波が激しく打ち寄せています。この奔流はヤルツァンポ川です。
神王オデ・グンギェルの王妃の名はポラ・ウースンといいました。ふたりはさまざまな高低の雪山の峰々で、昔から今にいたるまで、相対して坐っています。どれだけの歳月が流れたのか想像もできないほどです。
ふたりは9人の男の子と女の子をもうけました。子供たちは健康そのもので、父母のまわりを囲んで坐っています。ともに田んぼや牧草地、人々らを守ってきました。
その頃、オデ・グンギェル神山を見さえすれば、雨が十分に降り、穀物が豊富にみのり、家畜は肥え、元気あふれ、戦争や災害、疫病もなく、子供たちは天真爛漫で活発に遊び、青年たちは勇敢で労働に励み、老人は健康で長寿をまっとうするのでした。日々はこのように心地よく過ぎていきました。
のちに世の成り行きが変化し、無量光仏(アミターバ)の時期が終わり、神々はみな尋香城に戻っていきました。つづいて釈迦牟尼の時期がやってきたのですが、チベットでは天神と地神の守護が手薄になってしまいました。高山には雪が少なく、降雨も足りなかったので、樹木は成長せず、作物は不作で、水害や旱魃、虫害がやむことはなく、疫病や病気、傷害が人や家畜を悩ませました。人々の生活は苦痛と不幸で埋め尽くされていたのです。
この時期、各地の首領は富と力と知恵をもった男たちをあつめました。また経験豊富な年長者たちが討議し、苦難から脱する方法を探し出しました。彼らは異口同音に言いました。
「われわれ黒頭チベット人はなぜこんなひどい目にあわなければならないのか」
髪の毛が雪山のように白く、口の中に真珠のような歯はなく、老いて目が緑色になった老人がおもむろに言いました。
「わしが見たところでは、雪山神と土地神の保護がなくなったことに起因しておる」
首領たちは老人に聞きました。
「おじいさん、それじゃあいまどうしたらいいのでしょうか」
「はるか昔から世間大神オデ・グンギェルとその妻、また子供たちがおってだな、その方々が人間をお守りくださってきた。それで毎年風雨の害もなく、人は幸せを享受することができたのじゃ」
首領たちは老人が言っていることをもっともだと同意し、四方八方からあつまってきた人々もオデ・グンギェルのもとへ助けを請いに向かったのです。
神山の夫婦と子供たちは何日も、何晩も話し合いをして、最終的には人々の請願にこたえることにしました。子供のひとりは北部のチャンタン高原へ派遣されることになりました。その名はニェンチェンタンラです。ひとりの女の子は東方のコンポ地区の森に派遣されることになりました。その名はコンツン・デモです。ほかの女の子ははるか遠くのメンパ地区に派遣されることになりました。その名はメンユル・デモです。ほかに、ロダク地区に派遣される男の子はクラ・ガンリ山、ヤルルン谷に派遣される男の子はヤラシャンポ(ヤルラ・シャムポ)山、ウー地区(中央チベット)の境に派遣される女の子はジョモ・カリ、メド・コンカル地区に派遣される女の子はドゥツィ・メンモ、山南(ロカ)のチューコルギェル地区に派遣されるもっとも小さな男の子は、吉祥天母(パンデン・ラモ)の湖(ラモラツォ)の護法神となるダグィ・シェンチャン(?)でした。*この神の名は未確認です。
子供たちが派遣先に出発する日がやってきました。日々いっしょに暮らしてきた父母のもとを去るのは、子供たちにとってとてもつらいことでした。別れのとき両親は彼らに言いました。
「おまえたちはチベット各地の守護神となるのだ。肩の上に山を担ぐのとおなじくらいに責任は重いぞ。われらは自分たちの分はとらずに、富と財産をみなに分配することにきめた。それぞれから家畜や穀物を好きなだけ持っていくがいい」
彼らはヤクをチャンタンのニェンチェンタンラに持って行かせました。ラバをコンポ地区のコンツン・デモに持って行かせました。米をメンパ地区のメンユル・デモに持って行かせました。チンコー麦と牛、羊をロダク地区のクラ・ガンリに持って行かせました。チンコー麦と小麦、ソラマメ、油菜をヤルルン谷のヤラシャンポに持って行かせました。ヤギと綿羊をウー地区のジョモ・カリに持って行かせました。馬とラバをメド・コンカル地区のドゥツィ・メンモに持って行かせました。ただもっとも小さいダグィ・シェンチャンだけは、日ごろから親の言うことを聞かず、あばれることが多かったので、何ももらえませんでした。
最後に両親は言いました。
「われらふたりはすっかり老いてしまいました。手元には乳牛と牛が一頭ずつあれば十分でしょう。生活はなんとかなるでしょう」
聞くところによりますと、この女の子たちに与えた家畜や穀物はそれぞれの地区でたいへん繁栄しました。ニェンチェンタンラに与えたヤクは増え続け、いまではヤクの郷と呼ばれるほどになりました。ヤラシャンポに与えた五穀は発展し、チベットの食糧庫と呼ばれるほどになりました。
オデ・グンギェルの両親は手元に乳牛と牛だけ残しましたが、現在オデ・グンギェル山の麓では乳牛と牛の飼育がさかんです。
神山の父オデ・ゴンギェルと神山の母ポラ・ウースンは山南地区サンリ県の北東に対峙しています。愛情が深く、別れがたいのです。天気のいい日だけ、夫婦そろった白い雪を冠る壮観な美しい姿を望むことができます。