ディグン・ツェンポと馬丁の戦い
ディグン・ツェンポはヤルルン部落の8代目の首領です。ティはチベット語で刀や剣を意味し、グンは殺すことを意味します。どうしてこの王はこのような不吉な名前をもっているのでしょうか。ディグン・ツェンポはどのような死に方をしたのでしょうか。伝え聞くところによると、彼の祖母と馬丁ロンガム・タジ(Lo ngam rta rdzi)に関係があるようです。
ディグン・ツェンポの祖母は年を取って両耳が聞こえなくなっていました。赤子のディグン・ツェンポがオギャア、オギャアと、泣き止まないとき、両親はこの泣き止まない子供に名前をつけるよう祖母に頼みました。すると祖母は答えました。
「キ地方のタクマ岩山に崖崩れがありますか。テンマ地方のシャンパン草原が火事で焼けていますか。ダレウェ湖の水は干上がりましたか」
ディグン・ツェンポの両親は答えました。
「岩山に崖崩れはありません。草原は焼かれていません。湖水は干上がったことがありません」
老母は耳が遠かったので、岩山の崖が崩れ、草原が焼け、湖水が干上がったのだと思ってしまいました。それで心が重くなり、つぶやきました。
「この子が国政にあたるのはむつかしいよ」
こうして泣き止まない子供にたいし、それを抑えるための名がつけられました。それがディグンなのです。
ディグンは長じて王位を継承し、メロ天仙のルサメジャンを妃に迎えました。二人の間には、シャティ、チャティ、ニャティの3人の王子とひとりの王女が生まれました。平安な日々がすぎていきました。
そんなとき、インドとペルシアの境界上のグリワタというところに、アシャのボン教徒のシャーマンが出現しました。このシャーマンの神通力は天空を飛翔する鷹のように強大で、手で樹木を切ったり、岩を砕いたりすることができました。
ディグンはこのシャーマンたちを尊敬し、彼らをグルとしてあがめ、宝石で飾られたユンドゥン(まんじ)字型の虎皮のかばんと宝剣を献上しました。ボン教の権勢はますます強くなったのですが、ディグンの叔父や兄弟は彼らに恨みをもつようになりました。
ボン教のパワーに心酔していたディグンは、そんな彼らに苛立ちを覚え、ひとりごとをつぶやきました。
「このディグンという名をいただいた以上、刀剣の下に死ぬべき運命にあるのだろう。それなら本気で闘える相手を探そうではないか。この運命をも変えることができるかもしれないぞ」
彼は臣民のなかから武芸に誉れ高いロンガム・タジという名の馬丁を選び、雌雄を決することを望みました。
当時チベットはカシミールと武器をもってあいまみえているときでした。殺しあっても引き離しがたいほどの激戦でした。のちにチベットが勝利を得ると、カシミールの兵士たちは国に引き上げていきました。その途中、あるカシミール兵が仲間に向かって叫び声をあげました。
「おい見ろよ! チベットの英雄はほんとうにたいしたものだ。あいつらの弓は柱のようだ。放たれる矢はゴムのようだ」
兵士の仲間たちが指さした方向を見ると、大きな岩があり、そのうえからゴムに似た矢がいまにも放たれようとしてふるえているのです。彼らはああじゃない、こうじゃないと、議論をはじめました。
「あの矢は絶対にツェンポのものだ」
「いや大臣のロンガム・タジだろう」
そもそも誰が矢を放とうとしているのでしょうか。疑問は沸き起こってきますが、結論は出ません。最後にひとりの兵士が声をあげました。
「おまえらみなばかだな。結局知りたいのは、射手はだれかだろう? 国王とロンガム・タジが腕比べするらしいから、それではっきりするだろう。いま論議したってはじまらんよ」
この話はディグン・ツェンポの耳にも入りました。彼はこれがかえっていい機会になるととらえ、興奮気味に言いました。
「よかろう! では腕試しをしようではないか」
ロンガム・タジはツェンポと腕試しをすると聞いて、とても困ったことになったと考えました。
「要するにおれは負けなければならないのだ。しかも罰をくらうことになる。おれと国王の武芸はほぼ同程度だ、いったいだれが戦って負けたいと思うだろうか。ただ国王は宝物をたくさんもっていて、天の梯子もいつでも使える。天の縄も所持し、神霊の保護も受けている。それでもおれが勝利を収めようとするなら、策略を練らねばならぬ」
そこで彼は腕比べをする場所としてニャンロジの盛り土園を指定し、開催時間もまた星々が山頂にかかる時間を選びました。こうしてロンガム・タジは国王の挑戦を受けることにしたのです。
ディグン・ツェンポは同意したものの、安心はしていませんでした。神変の犬を派遣して、情報収集させたのです。ロンガム・タジはこの犬を発見すると、意識的に大きな声を張り上げました。
「国王の頭には黒頭巾が巻かれていて、額には鏡がかけられています。右肩には狐の死体が、左肩には犬の死体がのせられています。宝剣はのどのところに掛かっています。赤い牛の上に乗っていますが、牛にはかまどの灰がまかれ、羽毛の包みが載せられています。こうすれば勝利は疑いないでしょう」
神変の犬は盗み聞きしたことを記憶にとどめ、ディグン・ツェンポに報告しました。
翌日、ディグン・ツェンポは神変の犬がもたらした情報をもとに武装して戦いにのぞみました。まさに山の上に星々がみつる頃、ふたりの取っ組み合いがはじまりました。そのとき突然強風が吹き荒れ、盛り土園内の砂や石を吹き飛ばし、あたりは暗くなりました。するとツェンポを乗せていた赤い牛が驚いて暴れはじめました。牛の上に掛けられていた布包みが破れ、羽毛やかまどの灰があたりに飛び散り、ツェンポは何も見えなくなってしまいました。彼の頭に巻いた頭巾や肩の上の死んだ狐、死んだ犬も、守護神としてのパワーを失ってしまいました。天の縄や天の梯子も切れてしまい、ツェンポの宝刀も割れてしまいました。ロンガム・タジはこの絶好の機会をのがさず、すかさずツェンポの額の鏡めがけて矢を放ちました。ツェンポは「あっ」と声をあげ、そのまま倒れました。ロンガム・ タジの矢によってディグン・ツェンポは命を落としました。
ロンガム・タジはツェンポの遺体を銅製の棺におさめると、鉄の釘でしっかりと閉じました。そして激しく渦巻くニヤン川に棺を流しました。棺は流れていき、ジャンカルパツェンという場所に7日間漂っていました。そのあとティタングルマルというところに13日間漂いました。そして最後にコンポに行きつきました。この地の竜神ホルティルの女使用人チマラレンゲロがそれを見つけ、珍宝として倉庫におさめました。
ディグン・ツェンポの死の知らせはルサメジャンと王子、王女のところに届きました。彼らは悲しみに暮れ、食事ものどを通らなくなりました。ロンガム・タジは3人の王子、3兄弟もまた殺しました。また父王の宝庫から神牛ジウルガを取り出し、この飛牛に乗ってコンポ地方に逃げました。
ロンガム・タジの長男シャティはコンポ王となり、二男チャティはボミ王、幼い三男ニャティはニャンポ王となりました。ロンガム・タジは公主を自分の妃とし、4人の子供の母であるルサメジャンは放逐し、自分自身はヤルルン部落の首領となりました。