婚礼
アチェ・ギャサの一行は、昼間進んでいくのはもちろんですが、夜もまた暗路を進んでいきました。困難な道を行くこと1年あまり、ようやくラサにたどりつきました。ガル・トンツェンはすぐにソンツェン・ガムポ王に使者を送り、唐の公主が到着したことを知らせました。
チベットの国王はこの知らせを受け取って、言葉では表現できないよろこびにつつまれました。すぐに国王は、ラサ周辺の道路を整え、白土を壁に塗ってすべての家屋を真新しくし、町中の道を清掃してきれいにし、雪山の清水をそそぎ、吉祥の図案を描くことを人々に命じました。また衛兵を赤い宮殿(ポタラ宮)の屋上にのぼらせて、日夜四方を監視させました。
公主を歓迎するため、四方に人員を置きました。東はラサ川(キチュ川)の渡し場に100隻の馬頭船を準備しました。西はジャクダム・ナカルの草地に100頭の駿馬を準備しました。北はグラ峠に100人の若い娘を集めました。南はティブ谷に100人の若者を集めました。
チベットの国王は言いました。
「公主はターラー女神の化身である。そんなおかたなので、公主が東から来られるのか、西から来られるのか、わしにもわからない。それゆえ四面八方に歓迎の準備をすすめているのである」
実際、正月十五日、四面八方の歓迎の準備をすすめていた人のすべてが、チベット人や唐人をひきつれたアチェ・ギャサの姿を見たのです。
東で迎えた人々は、ギャサは東から来てここで休んだと主張しました。それゆえその地をギャサ谷と改名しました。南で迎えた人々は、ギャサは南から来たと主張しました。それゆえティブ山の谷の氷は(聖なる)右旋白法螺貝になりました。西で迎えた人々は、ギャサは西から来たと主張しました。それゆえ西の崖の上には憤怒相の菩薩が彫られています。北で迎えた人々は、ギャサは北から来たと主張しました。みなで公主と釈迦牟尼像を歓迎しました。それゆえグラ峠の草地は迎神灘と改名されたのです。
ラサで歓迎した人の話によれば、アチェ・ギャサの4人の化身が東、南、西、北からラサに入ってきて、赤い宮殿の下で合体してひとりとなり、宮殿のなかに入っていったということです。
伝説はともかく、実際は北からグラ山を越えてラサの北の郊外、ラオムチ(?)砂洲にやってきました。釈迦牟尼像を載せていた車が砂洲のなかで動けなくなってしまったため、力持ちのラガ(神喜)とルガ(竜喜)が「九牛二虎」の力を発揮して引っ張ろうとしたのですが、途中で動けなくなってしまいました。アチェ・ギャサは、これは釈迦牟尼がここにいたいという意味なのだろうと解釈しました。彼女はチベットの邪魔をしようとする悪霊を祓い、仏像の周囲に柱を立てました。さらに緞子(どんす)で周囲をかこい、ラガとルガを護衛として立たせました。
翌日、アチェ・ギャサは綾絹(あやぎぬ)の衣をまとい、金銀翡翠の宝石をからだに飾りました。25人の美しい侍女たちをしたがえて、笙(しょう)の笛や琵琶などの楽器が奏でられるなか、宮殿の下の柳烏湖(現在の宗角禄康、すなわちゾンギャプ・ルカン公園にあった?)のほとりで、チベットの風景を眺めながら、優雅なひとときを楽しみました。チベット中から公主を一目見ようと群衆があつまってきました。同時に彼らは歌ったり踊ったりして、自分たちも楽しんだのです。
このときまだ若者であったソンツェン・ガムポ王が大臣らとともにやってきました。そしてしばらく宴を楽しんだあと、アチェ・ギャサをつれて宮殿へあがっていきました。そこで盛大な婚礼の宴がおこなわれました。それからの幸福円満なる生活は、千年のちまで語り継がれることになったのです。