大昭寺(ジョカン)と小昭寺(ラモチェ)の創建の伝説
文成公主がキショル(キチュ川下流)の、のちラサと呼ばれるオタンに着いたとき、オタン湖の北側に将来寺院を建てようと考え、長安からもってきたジョウォ(釈迦牟尼十二歳のときの像)をそこに置きました。
このことを聞いてあせったのは、ネパールのチツン公主でした。というのも、彼女もネパールから8歳の釈迦牟尼の像をもってきていたからです。紅宮のすぐ下に小さな寺を建てようとして供養をささげたりもしたのですが、建設中に何度も倒れ、3年たってもまだ完成していなかったのです。
大臣のガル・トンツェンは言いました。
「文成公主さまは陰陽五行の術にたけておられます。地形をその術によって見て、良し悪しを決めるというのはどうでしょうか。選ばれた吉祥の地に寺を建てるのがよろしかろうと存じます」
ある日ネパールの公主は、そのまま贈り物となる金の砂で作った衣を侍女に着せて、文成公主のもとに送り、寺を建てる場所を選ぶよう頼みました。長安から持ってきた五行図を使ってこまかく見たところ、キショル・オタンのある場所がとてもいいことがわかりました。そのことを言うと、天には八幅(や)の法輪があらわれ、地には八弁の蓮花が浮かび上がり、周囲は吉祥八宝に囲まれたのです。
しかしチベット全体には、魔女があおむけに横たわっている相があらわれていました。オタン湖は魔女の心臓にあたっていたのです。紅山(マルポリ)、鉄山(チャクポリ)、磨盤山(バルマリ)は魔女の心臓の上の骨でした。オクタン湖の上だけが、チベットに平和をもたらすとして、釈迦牟尼の寺を建てるのに適していると文成公主は述べました。さらに、白いヤギを用いて土を運び、オクタン湖を埋め、そこに寺を建てるなら、仏法は永遠に伝承されるだろうと付け加えました。
侍女はこの話をネパール公主に伝えましたが、彼女はよく理解できないようでした。むしろ彼女は文成公主が寺を建てるのを妨害しようとしているのではないかと疑ったのです。
「あなたは自分の寺を地上に建て、わたしの寺は湖の上に建てよという。わたしにいやがらせをしようとしているのでしょう!」
文成公主がこの訴えを国王ソンツェン・ガムポに話すと、ツェンポは笑って、「文成公主のほうに分がありそうだな。オタン湖に行って見てみようではないか」と言いました。
翌日、ツェンポとネパール公主はゆっくりと散歩しながら湖のほとりに出ました。ツェンポは言いました。
「チツンよ、指輪を放り投げなさい。それが落ちたところが寺を建てるのにもっともいい場所だ」
ネパール公主はツェンポが言ったとおり、指輪をはずし、手を合わせて何度か祈りの言葉を口にしたあと、遠くへほうりました。それは空中で光りながら、最後は湖のなかに落ちてしまいました。もうどこに落ちたかわかりません。ソンツェン・ガムポ王は言いました。
「急ぐことはない。私がおまえを助けから、心配することはない。文成公主も助けてくれるだろう」
こうしてチベット各地から技術をもった人々が集められ(彼らにはたっぷりと飲食がふるまわれ)湖をうめ、寺を建てる工事が開始されました。まずキチュ(ラサ川)の流れがキショル・オタンのところで二股に分かれるように工事をしました。オタン湖と北の流れをつなげて水を排出し、湖の深さを半分にしました。
オタン湖が浅くなると、工事人たちは大きな石板を湖のまわりから敷き詰めていって、湖の面積を小さくしました。ソンツェン・ガムポ王は大臣らをひきつれて、みずから湖に石を投げ入れました。そうすると湖の中心に石塔ができあがりました。石塔ができると、湖を埋める作業の核となる部分ができたことになります。彼らは周囲の山から杜松の木を伐ってきて、石塔と湖岸のあいだにならべました。すると全体的に黄金の傘が開いているように見えました。そして杜松の木の上に棘の木(ラワ)をならべると、全体的に網のように見えました。
そして信じられないほどたくさんの人々が、北のドティ山のほうから白ヤギに土をのせてオタン湖に運び込みました。こうしてオタン湖は土で埋められていきました。熱気はすさまじく、そのさまはバターを鍋で煮ているかのようでした。
この地を開墾し、塀をつくり、建物を建て、仏像を作りました。ソンツェン・ガムポ王は二階建ての寺(ラカン)を建てるよう命じました。ひとつは柄杓のような梯子型の寺、もうひとつは船ほどの大きさの寺院を要望しました。
工事は急ピッチに進んだのですが、大工と労働者の数は十分ではありませんでした。そこでソンツェン・ガムポ王はみずから108人の大工に変身し、工事を進めました。
ある日ネパール公主は侍女にごはんをもたせてソンツェン・ガムポ王のところへやりました。ところが王の姿はどこにも見当たりません。ただ108人の大工が働いているだけです。彼らはみな108の獅子王の鼻を彫っていたのです。彼女はこれが噂のソンツェン・ガムポ王の変化(へんげ)かと思って、クスクスと笑ってしまいました。するとそれを聞いた王は鼻をまちがって削ってしまったのです。その損じた痕は、いまも大昭寺に行くと見ることができます。
ネパール公主はソンツェン・ガムポ王と文成公主に助けられて、一年後、オタン湖の上に寺(ラカン)を建てることができました。そして故郷からもってきた8歳の釈迦牟尼の像を奉納しました。この寺は白ヤギが運んだ土を盛った土地の上に建てられたので、山羊土幻化寺(ラサ・トゥルナン Ra sa ’phrul snang)と呼ばれました。
またおなじ時期にチベットの王や大臣らの指示のもと、文成公主はオタン湖北岸に寺を建造し、12歳の釈迦牟尼像を奉納しました。その名はギャタク・ラモチェで、漢虎神変寺という意味です。
山羊土幻化寺は西に向き、漢虎神変寺は東に向いていました。ふたりの公主とも故郷と両親のことが忘れられなかったのです。のちに文成公主がもってきた仏像は山羊土幻化寺の本殿に移されました。ネパール公主の仏像は漢虎神変寺に移されました。これらの寺は現在、大昭寺、小昭寺と呼ばれています。*大昭寺、小昭寺は中国語。チベット語でツクラカン(ジョカン)、ラモチェと呼ばれている。
この二つの寺はほぼ同時期に竣工し、同時期に完成したので、そもそも大小の区別はありません。これらが開かれたとき、キショル・オクタン周辺の人々はみなめでたい日の衣で着飾り、お酒やごちそうを持ち寄り、豪華な式典に参加して祝いました。少し前まで湖であり、湿地帯であったところに突然おおきな寺が出現したのです。まるで天上の神宮と海底の竜宮が国王と二人の妃によってもたらされたかのようでした。若いソンツェン・ガムポ王と二人の美しい王妃が大臣や貴族をつれて、立派なお寺を巡り、尊い仏像を礼拝するさまは壮観であり、美しくもありました。群衆もまた歌い、踊り、お酒を飲み、娯楽をたのしみました。チベットの歴史上、もっともはなやかな日々でした。