金城公主チベット入り
ずっと昔、チデツツェン王にチツンという名の王妃があり、王子を生みました。王子の鼻は高く、額が広く、長じるにしたがい堂々とした英俊な若者になりました。そのさまはまるで天神が降臨したかのようでした。また王子の母親チツンはジャンユル(ナシ族の地域)の公主だったので、「ジャンツァ・ラウン」すなわちジャンの甥の天神一族と呼ばれました。
ジャンツァ・ラウンは成長して、妻をめとる年齢に達しました。ツェンポ(国王)のチデツツェンは大臣らを招集し、このことについて話し合いました。
「王子はすっかり大きくなったので、妻をめとらねばなりません。しかしわれらチベット人は猿の子孫であります。神の子のような王子に、そんな民のなかから選んだ娘は不相応というものです。唐の皇帝の娘が王子にはふさわしいでしょう。われらチベットの歴代ツェンポのなかでもっとも傑出しているのはソンツェン・ガムポ王でしょう。このツェンポは、唐の太宗皇帝の娘文成公主をめとりました。ツェンポは太宗皇帝に通婚を申し込み、それが認められたのです。それから何代か皇帝も替わりました。現在の皇帝は中宗ですが、中宗には金城公主という美しく賢い娘がおられます。ソンツェン・ガムポ王にならって、われわれも唐の都に使者を送り、ジャンツァ・ラウン王子との結婚を申し込んではいかがでしょうか。金城公主こそジャンツァ・ラウン王子の王妃にふさわしいかと思われます」
ツェンポと大臣らは話し合いをしたあと、ニャ・チサンを使節代表とする30名の従者から成る一団を結成した。彼らは珍しい宝物でいっぱいの贈り物と、通婚を求める書簡が入った箱をもって唐へ向いました。
ニャ・チサンと従者たちは都の長安に達すると、皇帝に謁見し、結納の品を贈りました。謁見のあと皇帝は、金城公主がジャンツァ・ラウン王子のもとに嫁ぐことを約束しました。このことを聞いた金城公主が喜んだか、憂えたかはわかりません。なぜならチベットがどういうところか公主はまったく知らなかったからです。さらにはジャンツァ・ラウン王子がどういう人であるかという情報ももっていませんでした。
公主は未来と遠方のことを知らせてくれる神秘的な鏡をもっていました。この鏡をよく見て、チベットのヤルルン地方がとても美しいこと、王子が勇猛で英俊な若者であることがわかり、公主はとても喜びました。
金城公主が出発する頃、中宗皇帝はチベットと唐の関係の大切さを娘に聞かせました。そして娘を送り出す荘厳なる儀式をひらきました。とくに文学や芸術が好きだった公主は、各種工芸の本や数万匹の絹の布などを車いっぱいに載せたほか、楽器奏者や雑技をする者などもつれていきました。
中宗皇帝が婚約を認め、その知らせをもった使者が都長安を出発し、チベットへ送り届けられようとしているとき、ツェンポのチデツツェンや大臣たちはみな大喜びでした。とくにジャンツァ・ラウン王子はこれ以上にない幸せを感じていました。
ところが暗転直下、金城公主を迎えるため、多数の従者をつれて駿馬に乗り、国境方面へ向かったとき、落馬して命を落としてしまったのです。
その頃、金城公主と使節代表のニャ・チサン、その他唐やチベットの従者たちの一団は国境に近づきつつありました。公主は突然心臓を針で刺されたかのような痛みを感じました。心配になった彼女は宝鏡を出して、もう一度よく見ました。鏡の中にはそれまで見えていた英俊な若者の姿が消え、そのかわりに顔中ヒゲだらけの醜悪な老人の顔があらわれていたのです。
「これはどういうことなの? あのすてきな人の顔はどこへ行ったの? 鏡が壊れてしまったのかしら。それとも何か不幸なできごとが起こったの? 」
そのとき彼女は手に持っていた宝鏡を落としてしまいました。それは二つに割れ、二つの大きな山になりました。いまの日月山です。
金城公主は、昼は銀の琵琶を弾きながら、夜は笛を吹きながら自らの悲痛な気持ちを歌いました。
インドには尊い仏法があると聞きますが
その手前のネパールが耐えきれないほど暑いそうです
インドに行って仏法を求めるのはとても困難です
唐には占星術があり、なんといっても両親がいます
でもあまりに遠すぎて家に戻るのはとても困難です
チベットにはツェンポがいます
でも大臣たちの権力があまりに強すぎるといいます
チベットへ行くのも困難です
この歌は人から人に伝わり、ついにラサに到達しました。耳にはさんだ大臣がチデツツェン王にそのことを奏上しました。王にとってはつらいことでしたが、すぐに公主に使者をさしむけました。
「神の子と呼ばれたわが子ジャンツァ・ラウンはあなたの夫となる予定でしたが、不幸なことに、あなたを迎えに行く途上、事故で亡くなりました。チベットの風習にしたがえば、あなたは朕(わたし)に嫁がなければなりません。もしそれがいやなら、故郷に帰ってもらうことになります。どちらがいいかは、よく考えて決めてください」
このツェンポからの言葉を聞いた公主は考えました。
「英俊なる若い王子が死んでしまうとは、なんてことかしら。しかも私に会いに来る途中で命を落とすなんて。唐の都を離れるとき、父が私に託したのは、チベットと唐の友好関係の構築だった。その命令にそむくわけにはいかないわ。しかも娘が嫁に行くのはただ一度。もう私は長安に戻れない!」
金城公主はチベットの使者に言いました。
「チベットと唐の友好のためにも、私はチベットへ行く決心をしました。戻って、そのことをツェンポにお伝えください」
そう言って使者を送り出した公主は、自身も従者たちをつれてチベットへ向かいました。しばらくしてラサに到着しました。チデツツェン王と大臣や民衆は大きな歓迎儀式を開いて金城公主を迎えました。
のちに金城公主は王子を生みました。ツェンポはそのときタクマル・オムブ宮にいました。公主は使者を送って「子どもが生まれました」と伝えました。
ツェンポはたいへん喜び、生まれたばかりの子どもを見るためにヤルルンにかけつけました。ところがツェンポが来たときには、子供はすでにナナム妃に連れ去られたあとでした。ナナム妃が赤子を連れ去ろうとしたとき、金城公主は頑強に抵抗し、「この子は私の子よ!」と泣きわめきました。
金城公主の母乳をもった乳房が、母親であることを証明していました。しかし早くからそのことに気づいていたナナム妃は、特殊な薬を自分の乳房に塗って母乳が出るようにしていました。このためどちらの子どもであるか、ほかの人にはわからなかったのです。しかし最終的には、ナナム王妃が生まれたばかりの子どもを略奪していったのです。
ツェンポのチデツツェンと大臣たちは、赤子がどちらの子か判別するために、谷間にある洞窟にその子を置き、公主と妃に抱かせることにしました。公主は必死になって先に子供のところにやってきて、抱き上げました。遅れてやってきた妃は、子供が公主に抱かれているのを見て、うらめしく、心の中で思いました。
「子どもなんか死んでしまえ! そうしたらあんたも抱けないだろう!」
赤子が死んでもかまわないと思ったナナム妃は、むりやり公主の胸から赤子をひったくりました。彼女のただならぬ様子を見た公主は、子供が傷つくのではないかと恐れて叫びました。
「このあばずれ女! この子は私が生んだ子よ! 奪っていくんなら、絶対に傷つけないで!」
そう言いながら公主は手を放してしまいました。子どもを奪ったナナム妃は意気揚々として走り去りました。大臣たちはこの様子を見て、心の中で子供は金城公主が生んだにちがいないと考えました。しかしナナム家はたいへんな権勢を誇っていたので、だれもそのことを言い出せずにいたのです。ツェンポもこれ以上の解決策を示すことができませんでした。
一年が過ぎて、誕生一年の祝賀行事がおこなわれることになりました。チデツツェンは考えました。
「真の母親がだれかを調べるのにいい機会だ。唐人の友人たちとナナム氏の友人たちがみな参加するのだからな」
祝賀会のとき、ツェンポを中央にして左右に公主とナナム妃が座り、大臣たちがぐるりとそのまわりを囲むように座りました。ナナム氏の友人たちは右側に、唐人の友人たちは左側に並びました。
みなが着席したところで金の杯をもったまま立ち上がり、杯を美酒で満たし、それから王子にそれをわたしながら、話しかけました。
ふたりの母親から生まれたひとりの王子
幼いとはいえ、聡明さは卓越している
さあ、この美酒で満たした黄金の杯を
ほんとうの母親の家に渡してもらおう
そういうと、王子が自分のほんとうの母方のおじの家族のところへ向かうよう仕向けました。
このとき右側に並んでいたナナム妃の友人たちは、首飾りや服、おもちゃなど子どもの注意を引くようなものを見せて、子供をおびき寄せようとしました。
「さあ、こってにおいで! こっちへ来たら、だっこしましょ! おもちゃ、みんなあげるよ!」
王子は彼らや彼らがもっていたものには一顧だにせず、大声でいいました。
「ぼくチソンデツェンは、唐の家の甥だよ! ナナム家は全然関係ないよ!」
そういうと、王子は美酒で満たされた黄金の杯を高くかかげました。そしてよちよちと歩いていき、笑みを浮かべながら左側のほうへ行き、唐人の家族の手に渡していました。そして王子は唐側の人の懐に抱かれていたのです。このように、チソンデツェンという名も王子自身が選んだものでした。
金城公主はこの光景を見て喜びを爆発させ、走って前に出ると、王子を抱きかかえました。そして王子を抱きしめながらいいました。
「ああ、ほんとにいい子ね」
歓喜の涙が公主の頬を伝って落ちました。ツェンポや大臣たちもおおいに喜び、みな歌い、踊り、そして祝杯をあげました。