国王チソンデツェンのサムイェー寺創建
サムイェー寺は「仏・法・僧」をそなえたチベット仏教最初の寺院です。チベットでは三宝(仏・法・僧)のうち、たとえば僧侶がいなければ、それは神廟にすぎなかったのです。タクナン県のサムイェー寺は、出家した僧侶の一団が住む最初のチベット仏教寺となりました。この寺の建設に関しては、不思議な物語が伝えられています。
聞き伝えるところによると、チソンデツェンが国王の座に就いた頃、仏教とボン教の間に論争が起こり、最終的にボン教が敗れたということです。仏教を推すチソンデツェンはこれをいい機会ととらえ、臣下たちに宣しました。
「このたびの仏教とボン教の論争によって、仏教がボン教よりすぐれていることが証明された。国王の私が今後、雪の国チベットにおいては仏法を推進していくことを宣言する。そのためにはまず寺院を建てる必要がある。寺院を建てるためにはいったいどうしたらいいのかね」
群臣たちは話し合いを重ね、タクマル地方に寺院を建設すべきであるという結論に達しました。チサンという名の大臣が言いました。
「ツェンポ(国王)さま、もし妙策を示さなければ、多くの大臣らが反対するのではないかと恐れます。寺院建設のことはまだ話さないでください。仏法はまだ推進しないでください」
ツェンポと大臣チサンは話し合い、民衆をあつめ、宣言することにした。
「この世界においてわれらチベットおよびツェンポは最強である。私チソンデツェンはもっとも英明な君主である。しかしいまにいたるまで、私は後世に残せるような大事業を何もはたしていない。そこで私はチベットにとって意義のある大事業にとりかかろうと考えている。みなの者はどう思うか」
大臣チサンが前に出てきて奏上した。
「国王の命令におきましては、臣民はしたがうのみです。どんな要望でもおっしゃってください」
国王は言いました。
「私は大きな城を築こうと考えている。その上にあがったところから叔父の唐の国が望めるような場所に建てたい。また水晶の仏塔を建てたい。東山ほどもある高い仏塔である。また金を砕いてワロン谷をそれで満たしたい。また黄銅を用いてハポ山を包みたい。そして内側から留めたい。またヤルツァンポ川から銅管で水を引き、そこから水が流れるようにしたい。またガチュの平原に990尺の深い井戸を掘りたい。また柄杓のような形をした寺院を建設したい。さあ、どうだ。前言を取り消すことはできないぞ」
民衆は国王の命令がどれも実現困難であることがわかりました。でもどれもできないとはいえません。ざわめきが広がっているとき、大臣のシャン・ニェサンが国王に奏上しました。
「陛下、もし唐の叔父の家が見える城を築くなら、それは当然雄大なものとなるでしょう。それは他と比べようがないほど高いものです。それは人に恐怖を覚えさせるような城です。しかし建設は困難でしょう。もし水晶の仏塔を建てるとしても、東山ほどの大きさの水晶をどこに行けば探し当てることができるでしょうか。ワロン谷をそうやって砕いた金で満たすことができるでしょうか。土砂でさえ谷を満たすことはできません。ハポ山もあまりに高すぎます。黄銅はそもそも何かを包むのに適していません。川の水を銅管で引くという話ですが、冬はいいとして、夏になるとかならず洪水が起き、氾濫するのでそれを使うのは不可能です。ガチュ平原に井戸を掘るのもどうでしょうか。一尺掘れば水があふれるような土地なのです。990尺も掘ることなどできないでしょう。
しかしながらこのなかで柄杓の形をした寺院の建設だけは可能です。そんなにむつかしいことではありません」
人々はそれを聞いて拍手喝采し、叫びました。
「そうだ、シャン・ニェサン大臣はすばらしい! 柄杓の形をした寺を建てよう!」
盛り上がりを見せているとき、国の最大功労者のひとりである大臣ダタク・ルコンが、人々が仏教寺院建設を支持しているのを見て怒り、どなるように言った。
「寺を建てるというのは、仏法のためではないか。わしダタク・ルコンはボン教を信じる者である。仏教寺を建てるなど言語道断、断固として反対する!」
ツェンポはこの様子を見て民衆が扇動されることを危惧し、即座につぎのように言いました。
「ダタク・ルコンは私の命令に背こうとしているのか! それならば北方に放逐せよ!」
多くの兵士が彼を取り囲み、縛り上げ、棘の多い木から作った棒を使って、北方の荒野に追い払いました。大勢の人が見ていたので、これ以降反対の声をあげる人はいなくなりました。
しかし寺院はどこに建設すべきでしょうか。ツェンポ(国王)は白昼夢のなかで、全身が金色に輝くターラー女神があらわれるのを見ました。ターラーは言いました。
「ハポ山はとてもいいところです。寺院を建てるのにもっともふさわしい場所です」
目をこすってよく見ようと思いましたが、ターラー女神は姿を消してしまいました。
翌日、ツェンポとインドから招来した大師ボーディサットヴァ(シャーンタラクシタ)らは寺院建設の場所を探しにハポ山へ行きました。その山の西側の麓に大きな平地がありました。そこには白い棘の灌木が生えていて、ほかに白い薬草や白い香草が散らばって見えました。ボーディサットヴァは喜んで言いました。
「ここの風水はとてもいいですね。見てください、東のあの山を。国王が座する玉座といっしょです。その右側のハポ山は白い綾絹を肩にかけた王妃そっくりです。左側の黒い岩山は地中に突き刺さった鉄の杭のようです。その前面のムヤ地方は、ロバが水を飲んでいる姿のようです。私たちが立っている場所は、紅花が満開の銅の盆のようです。ここに寺院を建てるなら、なんとすばらしいことでしょうか」
そういい終わると、彼は錫杖で地面に画を描き始めました。それは寺院の基礎部でした。
12年の苦労の時が流れ、最初の寺院がようやく完成しました。主殿のツクラカン(釈迦殿)は3階建てで、1階はチベット式、2階は唐式、3階はインド式で造られました。主殿は4面ありました。東は東勝神洲スタイルの白い文殊殿、西は西牛賀洲スタイルの赤い弥勒殿、南は南ザン部洲スタイルの黄色い馬頭明王殿、北は北倶濾洲スタイルの青い神仙殿でした。
また太陽殿と月殿が南北に分かれ、赤、白、青、黒の四基のストゥ−パが周囲にありました。囲いのもっとも北側にあるのが、王妃プロンサ・ギャモが建てたブゼ・セカンリン寺です。西には王妃ピンサ・チャンチュブが建てようとしているキキェリ・マリン寺です。南は王妃南には王妃ツァイパンサ・メトクが建てようとしているカンソン・サアンカンリン寺です。
寺院を視察に来たチソンデツェン王は、その規模と様式が想像していたものをはるかに超えていたので、サムイェー、すなわち「考えをはるかに超えるもの」と命名しました。主殿がチベット式、唐式、インド式の三層から成っているため、吉祥三様寺と呼ばれることもあります。
サムイェー寺が完成したあと、盛大に開眼式が開催されました。チソンデツェン、シャーンタラクシタ、蓮華生(パドマサンバヴァ)は自ら儀式をおこないました。各地の長や男女さまざまな人がチベット十から、見ぬが流れるようにあつまってきました。儀式の日、サムイェー寺の前は人だかりが海のようでした。老若男女のみなが着飾り、歌い、踊り、にぎわいはたいへんなものでした。
ツェンポは金の玉座に座り、左右には5人の王妃がはべりました。ケンポ(寺主)のシャーンタラクシタ、パドマサンバヴァ、パンディタがみな経文やマントラを唱え、大臣や将軍たちはツェンポの後ろの席を陣取りました。
金の傘、色とりどりの幟(のぼり)などは正午の太陽の陽ざしを防ぎました。天上の雲雀もここまでは飛んできませんでした。大地は民衆で満ち、それは波のようにうねって動いていました。駿馬もまた入ってこられるだけの余地もありませんでした。若い男女はとくに着飾って、手にヤクの尾をもち、太鼓を叩き、歌をうたい、踊りをおどりました。彼らはヤクの真似をしてほえ、ライオンのように叫び、虎のようにうなりました。彼らがお面をつけて歌い、踊ると、百獣が舞い降りてきたかのようでした。
芸人たちは雑技、競馬、徒競走、歌舞などを見せました。ラクダ競争というパフォーマンスを見せる人々もいました。彼らは競争中に乗り換えて、合計7頭のラクダに乗りました。彼らは馬術のパフォーマンスも見せました。ひとりが馬に乗って全速で駆けると、もうひとりが刀を投げ、それをつかむというものです。彼らは7本の紫檀の木の枝を頭につけました。そして回転しながらサムイェー寺の周囲をまわりました。また彼らは木の柱を這い上がっていき、全身を炎に包ませる魔術を見せました。
儀式が進んでいくと、ツェンポや大臣はもう坐っていられなくなり、群衆のなかに混じって歌いはじめました。参加者全員が歌い、踊ったのです。儀式はそれから一年の間に8度も開かれました。