神医ユトク・ユンテンゴンポ
ユトク・ユンテンゴンポはチベット医学においてもっとも傑出した大師のひとりです。彼の医術は卓越していて、著作も30冊を超えました。そのなかでも彼が中心となって編纂した『四部医典』はチベット医学の基礎となりました。それは古代チベット医学の著作をすべて研究してまとめた大著なのです。千数百年以上の間、チベット人は彼を薬王の再来とみなしてきました。病人にとっては救世主でした。雪山の麓の村々には彼に関する多くの伝説が伝えられてきたのです。
薬王再来
この神医の母ギャサ・チューギェ・ドルマが妊娠したとき、夜、夢を見ました。夢の中に白衣を着た白い顔の仙人があらわれ、彼女のおなかを割いて、医学関係の書物をたくさん放り込みました。そして彼女にこう言いました。
「あなたはこの稀有なる宝を大切に保存しなければなりません」
それから数日後、彼女はふたたび夢を見ました。こんども白衣を着た白い顔の、しかし別の仙人があらわれて言いました。
「薬王はあなたのおなかのなかに入った」(薬王はメンパイ・ギェルポ。薬師仏の別名)
サルの年、サルの月の十日の夜、彼女が半覚醒状態のとき、東方にまばゆい光を見ました。闇夜を照らして白昼のように明るくなったほどです。このとき手に医術の袋を持った8人の仙女、薬の袋を持った3人の仙人が導くなか、薬王仏を長とする八大仏、八大菩薩、梵天、帝釈天、ダーカ(空行)、薬仙人、護法神、憤怒明王らがやってきました。神々は彼女に言いました。
「チュージェ・ドルマよ、おまえのおなかのなかに住んでいるのは衆生の救世主である。この子を守るのがおまえの役目である」
ギャサ・チュージェ・ドルマはその言葉を聞くとあわてて問い返しました。
「この子にはどんな名前がよろしいのですか」
薬王はこたえました。
「この子は私の生まれ変わりである。将来は学識のある思慮深い人間になるだろう。だからユトク・ユンテンゴンポという名がよかろう、かわいそうな者よ」
その年のサルの月の十五日、妊娠していた彼女が産気づきました。この日山が揺れ、地が響きました。天からは耳に心地よい音楽が聞こえ、幾筋もの吉祥の光が射し、鮮やかな五色の虹が現れました。ギャサ・チュージェ・ドルマが陣痛に苦しみながら歌うと、母体から色鮮やかな霞に包まれた子供が地面に落ちました。
春が来て、秋が去り、ユトク・ユンテンゴンポは3歳になりました。彼は母親にだっこされているときも、しきりに「あわれ! あわれ!」とつぶやいていました。母親は子供にたずねました。
「ユトクよ、いったいだれがあわれなんだね?」
「病人だよ」
またしばらくして彼は突然空を指して父親に言いました。
「お父さん、はやく空を見て!」
父親のキュンポ・ドルジェは息子の言っていることが理解できず、たずねました。
「空を見て何をするんだ?」
「薬王さまが仙女をともなって、衆生の病を治すためにやってこられたのです」
キュンポ・ドルジェは空を見上げましたが、白い雲のかたまりが西のほうへ流れていくだけです。
ユトク・ユンテンゴンポはまた父親に言いました。
「お父さん、ぼく薬王みたいに大怪我した人を助けるよ!」
父親は地元でも有名な医者でしたから、子供は何を言っているのだろうかと思いました。それで笑いながら言いました。
「おまえはまだ子供じゃないか。でたらめなことを言ってはいけないよ」
でもユトク・ユンテンゴンポは言い張ります。
「ぼくが言っていることは本当のことだよ。ぼくを試験してもいいんだから」
キュンポ・ドルジェはなお半信半疑でした。そして実際にあれこれ質問して試してみると、たしかになんでもよく知っていて、医学の書物にも通暁しているのです。彼は驚くとともに喜び、息子に言いました。
「ほんとうにたいしたものだ。医療道具を持って民衆のために尽くしなさい!」
こうしてキュンポ・ドルジェは、自分の弟子を付き添わせて、息子ユトク・ユンテンゴンポを送り出したのです。ふたりは病気の人を見つければ治療していきました。彼らが診ると病気は除かれたので、だれもがこの小さな神医をあがめるようになりました。彼の医療技術は相当に高かったので、10歳のときにチベットの王子チソンデツェンの専属医になりました。