ツェンポ(国王)の宝座をめぐる争い 

 チベットの国王ランダルマにはふたりの娘がいました。長女はナナンサ、次女はツェパンサと言いました。ランダルマが暗殺された頃、ツェパンサは身ごもっていて、しばらくしてから子供が生まれました。彼女は子どもが長女に害されるのではないかと恐れ、昼間は太陽光のもとに置き、夜は灯りで煌々と照らして王子を守りました。こうしたことから王子はウースン(光の保護)と呼ばれるようになりました。

 長女ナナンサには子供がなかったので、水のなかに溶けるツァンパ(麦焦がし)のように、日増しに権勢と地位が消えていくように感じられました。ナナンサにとって、ツェパンサ母子は目に刺さった棘のようであり、朝から晩まで彼らのことが頭から離れませんでした。

 ナナンサにアイデアがひらめきました。衣の内側のおなかの上に羊毛をつめこんで、妊娠したふりをするのです。

 ある日彼女は赤ん坊を抱いて現れ、喜びをおさえきれない様子で大臣らの前で宣言しました。

「昨夜、わたしの子どもが生まれました!」

 大臣らは赤子を見てギョッとして、舌を出してしまいました。というのも、生まれたばかりの赤ん坊の口から真っ白い乳歯が何本か生えていたからです。

 実際その子は彼女が生んだのではなく、王宮の外の乞食から買った赤ん坊でした。そのとき生まれたばかりの子どもがいなかったので、乳歯が生えた赤ん坊を買ったのです。

 ナナンサはかつて国王ランダルマの寵愛を一身に集めていました。彼女の家族は権力を持ち、権力争いをするライバルもいない状態でした。だれもが腹の中に不満をためていましたが、あえて異を唱える者はなく、表立っては従順なふりをして、黙認することにしたのです。

 王子にはヨンデン、すなわち「母の心」という名がつけられました。

 国王ランダルマが死んだあと、しばらく王位を継ぐ者がありませんでした。ところがいま、突然、王子がふたり現れたのです。どちらが本物で、どちらが偽物なのでしょうか。どちらが年上で、どちらが年下なのでしょうか。王位はどちらが継ぐべきで、どちらが継ぐべきではないのでしょうか。

 王宮の中には喧々諤々(けんけんがくがく)の論争が巻き起こりました。大根は長いほうがいいと、蕪(かぶ)は丸いほうがいいと主張するようなもので、それぞれの派閥がそれぞれのほうがまさっていると主張しました。羊毛と火は相いれません。

 一部の大臣らはウースンを国王に擁立し、グティ・トクタ、ンゴ・リスン・タチウー、ギェド・レギェらを補佐大臣としました。その根拠は、ウースンが4歳のとき、仏法破壊の運動がおさまり、大昭寺のシャカムニ像や小昭寺のミキュ・ドルジェ像が砂の中から出てきて、もとあったところに収められたからです。

 ウースンがツェンポの座に就きましたが、ナナンサの一派は承服しませんでした。彼らはヨンデンを担ぎ上げ、ナナンサにはじまる家系を中心に派閥を成し、このヨンデン派はウースン派と争うようになったのです。領地や人々もどちらかに属し、休まることのない長い戦いがはじまりました。

 ヨンデン派は勢力を拡大し、ラサを中心とするウー地方を治め、勢力を失ったウースン派はヤルルン地方に退却し、そこを中心とするユンル(左翼)を勢力範囲としました。歴代ツェンポが伝えてきた18の宝はヨンデン派の手中に収まりました。

 ウースン派とヨンデン派の争いはまたたく間にチベット全土に広がり、どこでも両派に分かれて闘い、互いに殺しあいました。ヨンデン派が治めた地域は大政、ウースン派が治めた地域は小政と呼ばれました。ヨンデン派は金派と称し、ウースン派は玉(ユ)派を称しました。

ヨンデン派はラサ地区を管轄下に置き、牧畜を重視し、王も臣民も牛や羊の肉を好んだので、食肉派と呼ばれました。ウースン派はヤルルン王朝(吐蕃)発祥の地である山南地区を治め、農業を発達させたので、王も臣民も大麦のツァンパ(麦焦がし)を主食としたので、ツァンパ派と呼ばれました。

 こうしたことから、この戦争(内戦)は、「ウー・ヨンの戦い」「大・小の戦い」「金・玉(ユ)の戦い」「食肉・ツァンパの戦い」などと呼ばれました。

 この戦争は849年から869年までつづきました。6歳だったウースンは、26歳になりました。土地に種をまくこともできず、牛や羊の放牧もできず、雹が降ったり地震が起きるなど自然災害がつづき、国民は四散し、最後は人民の暴動まで起きて、二百年以上つづいたヤルルン王朝はついに滅んでしまいました。