カイラース山の麓のグゲ国王 

 白雪が輝くヒマラヤ山脈に囲まれたヤルツァンポ川源流のギェルマ・ユンドゥン氷河の傍らで、ふたりの白髪の老臣は玉のように美しい青年に別れを告げました。この青年こそチベットの王子キデ・ニマグンであり、ふたりの老臣とは、チベット王宮の臣下であったシャンパツァ・レンチェンデとジョロ・レダラでした。

 民衆の暴動がつづいている頃、チベット国王ランダルマの子ウースンは難を逃れて、ツァンのギャンツェやラツェあたりに滞在し、63歳のときこの世を去りました。王位は王子ペコツェンに継がれ、ドゥツ・タクラランとギャン・ハポが大臣として国王を補佐しました。ペコツェンの王位は安定したものではなく、内戦がつづき、その間に大臣ダツェラによって殺されました。

 ペコツェンにはふたりの王妃がありました。姉のナナンサは次男キデ・ニマグンを、妹は長男タシ・ツェパメを生みました。父親の国王が殺されたあと、兄弟ふたりとも落ち着ける場所をなくしてしまいました。兄タシ・ツェパメはギャンツェへ行き、子孫からグンタン(キーロン)王系とヤーロン王系が形成されました。一説によればこの王系から枝分かれした一派がアムド地方へ移動し、歴史上有名なゾンカ青唐王国を建てました。

 ペコツェンの次男キデ・ニマグンは落ち着く場所がなかったことから、ずっと西方のンガリ(阿里)へ行き、そこで領地を開く決心をしました。大臣シャンパツァとジョロは彼をギェルマ・ユンドゥン氷河まで送りました。若い王子はこれから先ずっとはるかに遠い、貧しい場所で生きていかなければならないことを知って、大声で泣きました。ふたりの大臣はラバと狼の皮の上衣を王子に贈りました。これらは旅の途上でとても役に立つものなのです。

 ニマグンはふたりの大臣に言いました。

「もしンガリに国を建てることができたら、大臣たちよ、ぼくにひとりずつ妃(ひめ)をよこしてください」

 そう言うと、ニマグンは3人の大臣と100人の兵士を連れてンガリへ向かって出発しました。カイラース山の麓のマパムユムツォ湖畔に着くまでにそれほどの時間は要しませんでした。

 湖のほとりには現地の人々が待ち受けていて、布巾でこすってきれいにした卵や魚を王子に献じました。布巾を用いるのは王族の習慣でした。

キデ・ニマグンはンガリのレナ地方にレナカマ宮を、翌年にはツェトクジャリ宮を立てました。

 つづいて彼は3人の大臣を各地に送り、地形や状況を調査させました。プランから戻ってきた大臣は、その地方は雪山に囲まれ、人々は羅刹のように凶暴であると報告しました。グゲから戻ってきた大臣は、その地は岩山に囲まれ、人々は羊のように従順であると報告しました。マユル(ラダック)から戻ってきた大臣は、その地には水をいっぱいに湛えた湖沼があり、人々はカエルのように水の中で生活していると報じました。

 キデ・ニマグンは部隊と従者らをつれて先にプランに到着しました。そこに市を開き、交易をさかんにして、人々の生活を改善させました。人々はニマグンを支持し、ニマグンはそれにこたえて法律を定めて、ここを国の領地としました。

のちに彼は武力を用いてグゲを征服し、マユル地方に侵攻しました。おれを不服とする人もたくさんいたのですが、罪が軽い場合は罰を少なくし、重い場合は首を落としました。このようにメリハリをきかすやりかたで、グゲ王国を創建したのです。

 しばらくすると、大臣シャンパツァはパツァマを、大臣ジョロはサンカマを妃として送ってきました。サンカマは3人の子を生みました。長男のペギ・リパグンはマユル地方を、次男タシ・デグンはシャンシュン地方を、三男デツグンはサンガル地方を治めました。「上部三グン」と呼ばれたこの三兄弟からグゲ王国ははじまったのです。

〔補注〕プラン地方はチベット高原とインドを結ぶ交易路の要衝として、太古の昔から栄えていたので、ニマグンが交易市を開くということはありえない。長くプランを治めてきたシャンシュン国が滅び、この時点では、ネパール西部で大きな勢力を持っていたカシャ国の支配下にあったと思われる。ニマグンはチベット側からプランを自国に編入し、租税システムを作り、新しい国の財源の基盤を整えたのだろう。