七兄弟、七か所に分散 

 クン・ドルジェ・レンチェンは、のちにド・ダドゥ(’bro dgra ’dul)の娘ドゥサ・ヤンルンキ(’bro bza’ g-yang lon skyid)を娶りました。彼らから、ドゥサ七兄弟が生まれました。

 あるとき(母方の)叔父のド氏の家族が、ニャティ地方で、三日間にわたって死者をとむらい、生者の幸福のために祈る儀礼をおこない、腕自慢や遊戯を楽しみました。七兄弟は着飾って駿馬に乗り参加しました。毎日競馬や腕比べにかわるがわる参加し、観衆の前でかなり目立ちました。

 ド氏の家族はこういうものを見慣れていなかったので、クン氏の郎党が本気でド氏本家と腕を競うためにやってきたのだと思い、本家から腕の立つ人や駿馬を集めて対抗しようと考えたのです。そのため死闘が繰り広げられることになったのです。

 クン氏の側のひとりが言いました。

「クン氏、ド氏、両家族とも婚姻関係などをつうじてうまく、親しくやってきた。これまで刀や槍を手にして戦うことはなかった。天地はかくも広大なのに、ここで押し合いへし合いをする必要がどこにあるだろうか」

 こうして七兄弟の長男はンガリ・マンユル(mnga’ ris mang yul)へ、次男はンガリのグンタン(gung thang)へ、三男はセティへ、四男はニェロロ(gnyal lo ro)へ、五男はニャンシャブ(nyang shab)へ、六男はドムパ・ヤールン(grom pa gya’ lung)へ向かい、七男だけが父親のもとに残りました。これで本家ド氏との無駄な抗争を避けることができたのです。ニャントゥ地方(nyang stod)に残った末弟の子孫は繁栄し、のちに3つの支系に分かれました。これが有名なニェンゼ(gnyan rtse)、ランナ(rang na)、マティ(ma khrigs)の三部落なのです。

 七兄弟のなかでも、トムパ・ヤールンに至った六男のシェラブ・ヨンテンからクン氏でもっとも重要な人物が輩出されました。それは七代目のクン・コンチョク・ギェルポ(’khon dkon mchog rgyal po)です。

 クン・コンチョク・ギェルポは「陰・木・鼠」の年に生まれ、年少の時から父や兄に従って祖先伝来の教法を学び、新訳密教もまた喜んで修行に取り入れました。

 あるとき彼は、地元のお寺の祭り(大法会)に行きました。さまざまな娯楽の演目があったのですが、そのなかで仙女の仮面を着けた呪術師が天女に扮し、法器を持って、太鼓の音にあわせて舞い踊るというものがありました。これはとても見栄えがよく、興奮させられました。彼は家に帰ってから、見てきたことを喜んで兄に報告しました。それにたいして兄はこう言いました。

「いまの密教は混乱し、正しい姿が伝わっていない。これからはチベットで古い密教を学んでも、大きな成就を得るのはむつかしくなるだろう。わが家には幸い、祖先から伝わってきた教えがある。その秘密の経典は、マンカ(mang mkhar)のドクミ・シャキャ・イェシェ(’brog mi shakya ye shes)が持っているはずである。おまえはドクミ・ロツァワのもとで学んでくるがいい」

 クン・コンチョク・ギェルポは兄が要求したとおりにドクミ賢者のところへ行くことはなかったのですが、キン・ロツァワ(’khyin lo tsa ba)にしたがってロン屍林へ行き、「喜金剛(ヘーヴァジュラ)続第二品」を伝授されました。

 伝授が完了する頃、キン・ロツァワは突然寂してしまいました。臨終のとき、ロツァワは遺言を残しました。

「伝授は終わっていないので、マンカのドクミ・ロツァワのところへ行って、つづきの教えを請いなさい」

 クン・コンチョク・ギェルポは遺言にしたがってドクミ・ロツァワを訪ね、教えを請うことにしました。彼は故郷から持ってきていた17頭の馬と宝石が連なった首飾りを贈り物としてドクミ・ロツァワに献じたのです。ドクミ・ロツァワはたいへん喜び、秘密の教えを授けました。

 このほか、クン・コンチョク・ギェルポはドクミ・ロツァワから新訳の仏教経典も学びました。こうして彼は教えに精通するようになったのです。

 クン・コンチョク・ギェルポはシャンユル・ギャシュン地方へ行き、死んだ父や師のごとく尊敬した兄を弔うために仏塔を建て、なかに霊的な力を持ったプルバを置きました。このプルバは魔物を鎮圧する力をもち、のちにはサキャの寺に納められ、寺を諸語する宝として保管されています。

 クン・コンチョク・ギェルポはのちにヤルルン(yar lung)へ行き、ここのダウォルンパ(brag bo lung pa)というところに小さな寺を建てて住みました。

 ある日彼は何人かの弟子をともなって丘の上を散歩しました。丘の上から遠くの景色を見ると、プンポ山(dpon po ri)の土がとても白く、美しく光っていて、谷間を一条の小川がゆったりと流れていました。見れば見るほど、ここには吉祥、瑞兆のしるしを発見することができたのです。彼は心の中で思いました。

「もしここに寺を建てたなら、仏法はかならず広がるだろう。そうすれば衆生は幸福を得ることができるだろう」

 地元の首領であるジョウォ・トンナパ(jo bog dong nag pa)は同意し、地主であるシャンシュン・グラワ(zhang zhung gu ra ba)らに言いました。

「貧しい僧侶たちがここに寺を建てようとしている。もしあなたたちが反対しないなら、わたしが土地代を肩代わりしようと考えている」

 すると何人かの地主は言いました。

「いえいえ、土地代などいりませぬ。お寺を建てていただければ結構なのです」

「いや、それはよくありません。土地代を払わなければ、のちのち紛糾の種となるかもしれません」

 コンチョク・ギェルポはそう言うと、白馬と女性の美しい衣と宝の首飾り、甲冑を土地代として渡し、メンドクとポドクの間の土地を購入しました。

 彼は40年以上の月日をかけて、土木工事をおこない、そこに荘厳なサキャ寺を建て、サキャ派を確立したのです。彼はクン氏家族の族長を集め、自身サキャ寺の座主となり、サキャ派の法王となりました。ここに名実ともに政教合一制度を確立しました。この制度は現在に至るまで継承されてきているのです。