サパン、涼洲皇太子闊瑞と会う 

 甘粛省武威市はかつて涼洲と呼ばれていました。その郊外に、幻化寺というチベット仏教の古い寺があります。この寺の中に、高僧を記念して建てられたストゥーパが残っています。高僧とはサキャ派4代目のサパン、すなわちサキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェンのことです。

 63歳のサパンは、虚弱な体であったにもかかわらず、山を越え、川を渡り、チベットからはるばる涼州にまでやってきて、皇太子コテンと会いました。このときチベットは、公式に元朝に帰順しました。それ以来、チベットは中国の一部となったのです。チベット民族は祖国大家族の一員となったのです。(この記述は噴飯ものだが、中国の公式見解なのだろう)

 サパン・クンガ・ギェルツェンは、チベットのサキャ地方の生まれで、古代にさかのぼる神聖な一族とされるクン氏家族の出身です。生まれ落ちたとき、まったく泣き騒がなかったので、両親はこの子が聾唖者なのではないかと恐れました。

この赤子は口をあけるや、チベット文字とサンスクリット文字の母音を発しました。さらには指で地面に文字を書いたのです。家族の人はたいへん驚き、奇異のことだと思い、この子は菩薩の生まれ変わりにちがいないと考えました。

 彼は3歳のとき、叔父のサキャ3世タクパ・ギェルツェンを師として、チベット文やサンスクリット、宗教知識を学びはじめました。9歳のとき、読経を開始し、17歳のとき仏教の根本経典である「?舎論」を学びました。そして25歳のときカシミールのシャギャ・シリに師事し、「現観荘厳論」や「量釈論」を学習しました。

 サパンはさまざまな顕教の経典に精通するだけでなく、密教の修法も会得し、きわめて高い次元に達したといわれます。同時に天文、暦算(暦学と算学)、歴史、地理、チベット医薬、絵画、彫像、音楽、詩などを習得しました。当時、余人のだれも、サパンの領域に近づけないと言われるほどの学者になりました。

代表作『サキャ格言』をはじめ、彼は13冊の書を著わしました。この書において彼は経験から本質を抽出し、哲学を精錬し、仏法を理解し、修行法を導き出しました。そして政治的な理想や願望を文中に表現したのです。このようにしてサパンは大学者として広く認められるようになりました。彼のような偉大な学者は、チベット語でパンディタ・チェンポ、短くサパン(サキャ・パンディタ)と称せられます。

 インドにレチェン・ガポら6人のバラモンの学者がいました。彼らはチベットに大学者がいるという噂を耳にしました。

「雪の国とやらは、草木も生えない荒山ばかりの不毛の地と聞く。そんなところに大学者が生まれようか? 笑わせてくれるな!」

 彼らはサパンに討論を挑もうと、ネパールとの国境に近いキーロンのチュンドゥ地方までやってきて、彼を探しました。

バラモンたちはサパンを探し出すと、つぎのような規則を決めて討論をすることを求めました。もしバラモンたちが勝ったら、サパンは彼らの奴婢となること、そしてもしサパンが勝ったら、バラモンたちが彼の弟子となる、というのです。

 討論は昼も夜も行われ、十三日間つづきました。最終的には、サパンが完膚なきまでにバラモンたちを打ち負かしました。彼らは性根尽きて、しゃべることもできなくなってしまいました。自分たちの髪の一部を切り、サパンに差し出して、拝むばかりでした。この毛髪はいまもサキャ寺の鐘楼の上に保存されているそうです。

 サパンが34歳のとき サキャ派第四代座主だった叔父のタクパ・ギェルツェンが世を去りました。タクパ・ギェルツェンが座主についているあいだに、サキャ派は力をつけ、強大な一族となりました。

サキャ地方をはじめ、ンガクリンやラツェ、シガツェなどを含む広大な地域に、大小の寺院や農地、荘園、牧場、さらには土地に付随する農奴を増やしていきました。中央チベット(dBus)のディクンやタクロン、ツェルパ、パドゥなどの各教派に負けない大勢力を、ツァン地方(gTsang)に形成することができたのです。

 またこの時代は、変動の大きな時代でした。チンギス汗がモンゴルの諸勢力を統一し、またたく間に強大な国家を作り上げ、遼や金、西夏を滅ぼし、黄河より北の大半を占領し、モンゴル汗(ハーン)国を建てたのです。

 チンギス汗没後、三男のオゴデイが大汗の位を継ぐと、息子の王子コテンを涼洲に配置しました。コテンはチベットを含む南西の広大な地域を支配することになります。

 コテン王子に命じられたドルダ・ナクポは、騎馬軍隊を率いて、いまの青海省から、チベット北部を通って、ラサに到達しました。このラサ行きの目的は2つありました。一つは、服従しようとしない首領たちを震撼せしめること。もう一つは、チベット各地の勢力をおさえて、まとめあげる能力を持つ者を探すことでした。

 ドルダ・ナクポは自軍の兵をラサの北側に置くと、ギャル・ラカン寺を焼きはらい、レチェン寺の多くの僧侶を殺しました。そのあとにディグン寺に近づき、抵抗組織を造ろうとしていたディグン寺のシャキャ・レンチェンを捕縛しました。

 ディグン寺の高僧タクパ・チュンネはあわててドルダ・ナクポのところにやってくると、天に向かって祈り、必死に祈願しました。すると突然空からパラパラと、大粒の雹が降ってきたのです。それを見たドルダ・ナクポは心底恐ろしくなりました。

「ディグン寺のラマには呪力があると聞いていたが、本当だったのだ」と思い、高僧に向かって平伏し、シャキャ・レンチェンを解放しながら言いました。

「ラマ、あなたはなんとすばらしいかたでしょう。ラマ、われらの汗王(ハーン)は、チベットの王と知り合いになりたいと申しております。あなたさまといっしょに王のもとに会いに行くことはできないでしょうか」

 ドルダ・ナクポはコテン王子あてに、報告の書を送りました。そこにはこう記されていました。

「わたくしはチベット中を駆け巡り、どの地方も、かならず首領を推戴していることを知りました。だれが首領であろうとも、互いに、恐れあうことはないようです。聞くところによると、チベットでは、いまカダム派(ゲルク派の前身)の寺院と僧侶がもっとも多いとのことです。そのなかでもディグン派が最大勢力であると聞きました。タクロン・ラマがもっとも高い支持を得ているのです。つまり、サキャ・パンディタがもっともよく知られ、仏法にもっとも精通しているのです」

コテンはドルダ・ナクポの報告を子細に吟味し、サキャ・パンディタに涼洲に来てもらい、チベットの帰順を促すことにしました。それについて話し合うには、もっとも適した人物であることを理解しました。

 彼はサキャ・パンディタあてに書信をしたため、6200の真珠を織り込めた袈裟、5錠の白銀、20匹の絹織物をドルダ・ナクポとギマンに持たせて、サキャ寺に送り届けさせました。

 サパンがこの招待の書信を受け取ったとき、すでに63歳の高齢に達していました。健康状態もすぐれなかったので、サキャ寺の僧侶たちはサパンに行ってほしくないと思いました。

 ある僧は言いました。「大師さまはずいぶんとお年を召しておられます。行かれるところはとても遠いのです。もしものことがあったらどうするのですか」

 別の僧は言いました。「大師さまが行かれましたら、われわれは母親がいなくなった子供たちのようなものです。もしむつかしい問題が生じたら、どうすればよいのでしょうか」

 サパンは重々しい言葉でみなに語り聞かせました。

「王朝が崩壊してから数百年、われらの雪の国チベットは分裂したままである。谷がひとつあればそこに国がひとつあり、国があれば王がいるというありさまだ。みな互いに敵となっていつも戦っておる。社会はつねに不安定で、生きる者すべてがなんらかの災難に遭っている。ことわざにも言うだろう、鷹は空高く飛ぶことができるが、岩峰から離れることはできない。魚はうまく泳ぐことができるが、海から出ることはできない、と。われら雪の国のチベット人は、もとの家に戻るべきである。すなわち中国の大きな家族のもとに戻るのである。これによってチベットには平穏になり、民衆には安全で平和な世の中が戻ってくるだろう」

*この部分を訳してすっかり翻訳を進める気力を失ってしまいそうになったが、中国人の歴史がいかにあてにならないかを示す好例ともいえるので、あえてそのまま翻訳し、作業を続けていくことにした。こんなひどい歪曲の文章を読ませられるチベット族の方々に同情する。

 縁起のいい日を選んで、サパン老人は少数のお供を連れてサキャ寺を出発し、はるか遠くの涼洲に向かって北上しました。そのとき10歳のパスパ(パクパ)、6歳のチャナ・ドルジェというふたりの甥もいっしょでした。一行がラサに到着すると、大昭寺(ジョカン)でパスパに沙弥戒が与えられました。それから兄弟は先に進みました。サパン自身はツェルパ、タクロン、ディグン、パクトゥなどの教派の代表者と会いました。彼らは帰順について話し合い、意見を一致させました。そしてサパンはいよいよ涼洲に向けて出発したのです。

 サパンはいくつもの雪山を越え、何度も川を渡り、無尽の荒野やゴビ砂漠を通り、あるときは馬に乗り、あるときはヤクに乗り、あるときはラクダに乗り、二年以上、700日以上の月日をかけて、コテン王子がいる涼洲城に着きました。63歳だったサパンは65歳になっていました。先に到着していた甥たちの姿を見たときはホッとしました。しかしコテンは和林に行っていたため、遼洲にはいませんでした。

 翌年の春、コテンは和林から涼洲に戻ってきて、サパンが到着していることを聞くと心から喜びました。ふたりの甥もいっしょだと聞いていっそう喜びました。さっそくサパンと甥たちと面会しました。サパンの頭は白髪で、ヒゲも白く、相当の学識があり、それでいて温和で親しみのもてる雰囲気をもっていました。またパスパ兄弟は天真爛漫で、活発で、とてもかわいらしい子どもでした。

「お兄さんのパスパよ、おまえは大師についてよく学ぶがいい。そうして将来は皇室の教師になってほしいもんだ。弟のチャナ・ドルジェよ、おまえはモンゴル語とモンゴルの礼節をよく学ぶがいい。そうして将来はチベットの庶民のために働く大臣になってほしいもんだ」

 サパンとコテン王子の一回目の会談がおこなわれたあと、数日の間彼らはいっしょに過ごしました。チベットの帰順についてよく話し合い、協議を重ね、最終的には双方が満足のいく結論が導き出されました。

 サパンはチベット各地の代表者がしたためた書信を携えていました。そしてとくに重要な書信を彼自身が書いたのです。ここで彼は、中国統一がまだ完成していないことが問題であると指摘しています。われらチベットがすべきことは中央王朝に帰順することであり、それが歴史の潮流なのです。それがチベット人に利することであり、よいことなのです。朝廷に帰順することは、すなわちあなたがたの官吏や庶民が貢物をするということです。それらは三つに分けることができます。一つは皇室に、一つはサキャに、一つは自分たちが保持するものなのです。書信の最後に、サパンは貢物を具体的に挙げています。そのなかにはチベット紅花、木香、牛黄、虎の毛皮、豹の毛皮、カワウソの毛皮、上等のプルなどが含まれていました。これらのものにたいし、皇室の人々はたいへん喜んだということです。

 チベットの各地の僧侶や代表者はこの書信を見て安心しました。戦争にかわり、平和が示されたのです。みな帰順に賛成しました。

 サパンは涼洲に6年滞在し、コテン王子とともに協力し合って仕事をしました。コテン王子の臣下や将軍たちはみなサパン老人をとても尊敬しました。コテン王子は何度もサパンを王宮に招待しました。また自らサパンの居室を訪ね、その説法を聞きました。またチベットの歴史や文化、風習や風土についても話を聞きました。

 サパンの居室にはさまざまな宗教の人たちもやってきて、宗教儀礼をおこないました。たとえば宣教師クリオンが訪れ、キリスト教の儀礼をおこないました。またシャーマンがやってきて、その儀礼をおこなうことがありました。それらがうまくいかないときは、サパン老人みずからが儀礼をおこなったのです。

 サパンはまた高度な医療技術をもち、チベット医薬の知識も豊富でした。コテン王子も長年病気に苦しんできたのですが、サパンの治療によって改善されました。こうしてサパンはコテン王子の全幅の信頼を得るようになりました。

 コテン王子は涼洲の東の郊外の美しくて静かな地方に、幻化寺というチベット仏教寺院を建立しました。サパンはその寺の中に居室を与えられました。サパンはここで顕教、密教のすべてと十明学を教えました。とくに甥のパスパにはできるかぎり多くのことを伝えました。

 チベットが元朝に帰順し、雪の国チベット全域に安定した平和が訪れました。互いに敵対して戦い、血を流すようなことはなくなりました。しかしサパン老人はしだいに老いていき、体は弱っていきました。あるとき彼はパスパと何人かの弟子を呼びました。

「世の中のすべてのことには、因があれば果があるもの。ひとりの人間の、生はあれば死があるもの。わたしの残されたこの地上での日々もそんなに多くはない。まもなく仏の懐に戻らなければならない。パスパよ、お前は十分に顕教と密教に精通するようになった。品行も徳も備えている。わたしが継いでいるサキャ派の衣鉢と法螺貝をおまえに伝授しよう。わたしやわたしの先輩たちの希望をかなえられるようがんばってくれ」

 そう告げるとサパンは法座の上で息を引き取ったのです。

 サパンが逝去したという知らせを聞いたコテン王子は悲痛の思いでした。彼は金銀財宝を供出して、その予算で大掛かりな葬送の儀礼をおこないました。パスパがいた幻化寺の僧侶たちが七七四十九日間、お経をよみました。大師の遺体は銀の甕のなかに安置されました。

 サパンが世を去ってからまもなくして、コテン王子も逝去しました。この二人は祖国統一と民族団結のために多大な貢献をしました。その功績は中華民族の記憶の中に永遠に記されることになりました。

*上述のように、いくらかの嫌悪感を覚えながら、この項を書いている。サパンは覇権国家であるモンゴル帝国の荒波を食い止めるために、老体を鞭打って遠方の涼洲までやってくるのだが、まさかそのことが数百年のちに、チベットが(モンゴルでなく)中国の一部であることの証拠として使われるとは、予想しなかっただろう。