チベットとペルシア 宮本神酒男 訳
第1章 ボン教古代伝説とゾロアスター教の影響
(2)ディグン・ツェンポとロンガム・タヅィの伝説
『敦煌写本』「吐蕃歴史文書」P・T1287号の「ツェンポ伝記」にはディグン・ツェンポのことが詳しく述べられているが、そのなかにはボン教の影響を受けていると思われる箇所がある。
「この王(ディグン)は天神の子である。外見は通常の人と変わらないが、天界を飛翔するなど神通力をもち、威勢がよくて傲慢でさえあった。いつも家来の者たちと武芸の力試しをしたがった。奴隷らはしかし、いえ、とんでもありません!と言って断った。
当時ロンガム・タヅィという者がいた。やはり断ったが、王は断りを許さず、腕比べに応じるよう命じた。ロンガム・タヅィは奏上した。
――もし大王が臣下の辞するのをお認めにならないなら、大王の神庫に保存された自ら突き刺す矛、自ら揮われる剣、自ら装着する甲冑、自ら被る兜をお授けください。これらさまざまな神通力あるものを賜ってください。そうしてはじめて臣下は大王と力試しをすることができましょう。
ツェンポは神庫のなかのものすべてをロンガム・タヅィに賜った。
ロンガム・タヅィがまずニャンロ・シャムポ山に着いた。それからツェンポがこの山にやってきた。ニャンロ・タバツェル園(Myang ro thal ba tshal)でふたりは対峙した。このときロンガム・タヅィはまた奏上した。
――どうか天縄を切ってください。どうか天梯をはずしてください。
またツェンポはその願いを受け入れた。
このあとロンガムは金の矛200本を百頭の牛の背中にくくりつけた。牛の背には灰の入った袋を載せ、牛の群れをあちこちで接触させた。そうすると灰が散乱し、あたりは霞んで何も見えなくなった。このタイミングでロンガムはツェンポに攻撃を加えた。ツェンポはといえばデラ・グンギェル(lDe bla gung rgyal)という守護神によって身を守っていた。宮殿に着くと、ロンガムは腋の下から斧を取り出して、デラ・グンギェルをティツェ雪山に投げ飛ばして殺した。ディグン・ツェンポもおなじように害された。遺骸は銅の箱のなかに容れられ、ツァンチュ川(rTsang chu)の中央で流された。水の流れは川の末端のセルツァン地方(Ser tshangs)に到達した。そのあたりはルウォデ・ベデリンモ(kLu ‘od de bed de ring mo)と呼ばれた。ふたりの王子があり、その名はシャキ(Sha kyi)とニャキ(Nya kyi)だった。彼らはコンユル地方(rKong yul)に流された」
以上のことからわかるのは、ディグン・ツェンポは先祖のように天宮から来たわけではないが、飛翔して天界へ行くことができた。彼はまた守護神デラ・クンギェルの導きで天縄や天梯を使って天宮へ行った。
ロンガム・ダヅィはディグンにたいしいくつかの要求をつきつけている。それは天縄を切り、九層の天梯を壊すということを含んでいた。これはあきらかにボン教の教義に反し、禁忌に触れるものだった。天や光の崇拝に悖っているのである。ロンガムは灰袋を牛に載せて戦いに挑んだが、それは戦術だった。その噴煙によって太陽光をはばみ、ツェンポの神通力を失わせたのだ。光と天を崇拝するボン教の核心部をついたのだ。
家臣ンガレ・ギェ(Ngar le sgyes)がコンユル(コンポ地方)へディグンの二王子シャキとニャキを探しにいき、見つける。またコンポのボン教聖地ギャンド・ラブ(Gyang do bla ‘bubs)に墳墓を建設していることからも、吐蕃の王たちとコンポ地方の間に密接な関係があるのはまちがいない。もしかするとコンポは先祖が住んでいた土地かもしれないのだ。当時の王と家臣3人(シャキ、ニャキ、ンガレ・ギェ)はつねにボン教の雰囲気漂う環境のなかにあり、神秘的でさえある。