(3)吐蕃の仏教伝来伝説

 多くのチベット史書によれば、仏教がはじめてチベットと関わりを持つのは第28代ツェンポのラトド・ニャツェン(Lha tho do snya brtsan)の時期だった。このとき空中から宝箱が王宮ユンブラガンに落ちてきた。箱の中には『大乗荘厳宝王経』『百拝懺悔経』と金塔が入っていた。同時に空中から預言の声が聞こえた。

「五代ののちそれを理解する者(ソンツェン・ガムポのこと)が現れるだろう」

 そのときはだれもその意味を理解できなかったので、宝箱はニェンポ・ワンワ(gNyan po gsang ba)と呼ばれた。そのとき王はすでに80歳だったが、寿命が延びて120歳まで生きた。

 興味深いことに、多くの人が、これが唯一の説であるかのように述べるが、異説を唱える者もいる。そのひとりナウ・パンディタは『ナパ教法史・古譚花鬘』のなかでつぎのように言う。

「ラトトリ・ニェンツェンの有難い意志によって仏教は伝来した。この歴史の一段を詳しく述べよう。この聖なる王の執政時、李天子と吐火羅の訳経師ロサンツォのふたりはインドからパンディタ李敬を請じ、国王の前で講じさせた。しかし当時チベットには文字がなかったので仏教が受容されることはなく、李敬は『仏説大乗荘厳宝王経』の経典上に金粉で(サンスクリットの)六字真言を書き、印を捺して国王に献上しながら言った。

――聖なるものに礼を尽くし、読経し、供え物をすれば、かならず得られるものがありましょう。強く願うものがあるとき、よく加持し祈祷すれば、みなそれを得ることができるでしょう。わたくしはこれ以上とどまっても益するところがないので、チベットを去ります。

 そう言い終わると中国のほうへ去っていった。

 しかし多くの者は天から光とともに『諸仏菩薩名経』が宮殿の屋根に落ちてきたと主張している」

 天から落ちてきたという伝説は、もともとボン教徒が得意としたモチーフである。

 このモチーフはチベット人の伝統とは言いがたいものの、当時の人々にとっては新鮮で真実味のある神話だったろう。無文字時代の神話からはしかし、結論を導くのはむつかしい。本文ではこの点に関し、これ以上深くは掘り下げないことにしたい。

さて、ナウ・パンディタの書からいくつかの情報を得ることができる。

1)当時流布していた伝説は、『諸仏菩薩名経』などの経典が光とともにユンブラガンの屋上に落下した、というもの。

2)ナウ・パンディタの説によれば、「仏教の宝物が天から落ちてきた」という伝説は、ボン教徒が作り出したものであるという。

 仏教が最初にチベットにもたらされたことに関し、「天から落ちてきた」という伝説はどうやらボン教徒の創作であったらしい。光の線に沿って天から降下したというのは、ボン教の天や光の崇拝と関係深いのである。

 原始ボン教はチベットの古代民間宗教であり、自然の万物の崇拝を特徴とする。その崇拝対象は森羅万象を含んでいた。原始的なボン教といってもその内容は豊富かつ複雑で、教理・教義もまた多様で不確定である。ボン教はチベット高原やその周辺に広がるしたがい、新しい要素を取り入れて成熟してきたのである。

 学者らはインドのシヴァ崇拝や中国の道教、後期の仏教、はてはペルシアのゾロアスター教の二元論とボン教の関係に注意を促してきた。ボン教の土着性とともに、われわれは外来の影響を考えなければならない。外来宗教との関係を考察するとき、おもな流れ以外に、複数のルートがある可能性を忘れてはならないが、古代ボン教史にはあきらかにゾロアスター教の影響が見て取れる。あきらかにゾロアスター教の影響が主流である。

 

 チベットの史書はさかんにシャンシュン・ボン教はタジク、すなわちペルシア伝来だと言う。『チベット王統記』によればプデ・グンギェル(sPu lde gung rgyal)とルレキェ(Ru las skyes)という王と家臣のときユンドゥン・ボン(シャンシュン・ボン)が入ってきたという。

 教主シェンラブ・ミボはタジクのオルモルンリンに生まれた。作者のサキャ・ソナム・ギェルツェンによれば、ボン教がもっとも盛んだったのはニャティ・ツェンポの時代で、ディグン・ツェンポのとき衰退したという。またプデ・グンギェルのとき盛んになり、ティソン・デツェンのとき衰退した。ラトトリ・ニェンツェン以前は一貫してボン教によって国政が護持された。

 この記述には三つの問題点がある。

1)ボン教はかつてチベットの広い地域に流行し、古代から盛衰を繰り返したが、王室の支持もあった。

2)ボン教はチベットで発展し、社会的基礎を築いてきた。ニャティ・ツェンポのとき外来宗教の影響を受けたが、それでも民間のシャーマニズムが中心だった。

3)チベットで影響力を増した外来ボン教はユンドゥン・ボン教であり、それはタジクから伝来した。それによってボン教は発展・成熟し、自身の力を強固として国政護持の地位を確立した。

 このようにボン教研究においてタジクから受けた影響を無視することはできない。ニャティ・ツェンポの時代の神話にまで遡ると、文献不足から詳しく述べることはできないが、ディグン・ツェンポ以降となれば、シャーマニズム的民間宗教という土壌にボン教は育まれたともいえるし、あるいは後世のボン教徒が自己の立場から解釈したという面があったかもしれない。この考え方がまちがっていないなら、神話・伝説をそのまま鵜呑みにすることはできないにしても、ニャティ・ツェンポ期のボン教史を描写することによって、基本的な観点と具体的な宗教内容をあきらかにできるだろう。

 

 光と天の崇拝はボン教神話の核心だと述べたが、それはペルシアのゾロアスター教の影響という面もあった。光と天の崇拝はもちろん世界の古代民族に広く見られる現象であり、中国北方のシャーマニズムも同様で、古代チベットでも見られたのである。ただしそれは自然界の万物崇拝に付け足した程度にすぎず、他の崇拝と光・天崇拝に大きな差があるわけではなかった。そこへゾロアスター教の影響があり、天の崇拝は至高の天の崇拝となり、光は人間と天宮を結ぶ天縄となったのである。ボン教徒は光崇拝と祖先崇拝を結びつけ、儀軌儀礼を作り出し、実施して、ボン教の教理を宣揚するとともに、王族には神化した始祖ツェンポを受け入れさせたのである。ニャティ・ツェンポが天縄に沿って降臨し、その後の7代のツェンポが天縄に沿って天宮に戻ったという神話は、彼らが作り出した創作であろう。

ディグン・ツェンポとロンガムの腕比べ伝説にいたると意味がはっきりする。すなわち天にもとる行為を行なったということである。光の縄を切り、天梯を壊した罪によってディグンは殺されることになる。

 ツェンポには諫言、警告が届いたが、ボン教を支持しつづけた。ディグン・ツェンポはボン教を迫害したツェンポであるという意味で、後世の仏教を迫害したランダルマと似ているといえよう。仏教の聖なる物が天縄に沿ってラトトリ・ニェンツェンの王宮の屋根に落ちたという伝説はまた、光と天崇拝のボン教、あるいはゾロアスター教の影響を思わせずにはいられない。

 

ボン教の神話・伝説中にはゾロアスター教と類似した儀軌が数多く見られる。このことはボン教がペルシア(タジク)から来たことの根拠となるものだ。ヘロドトスによれば、ペルシア人は神像を敬わず、神殿を建てず、祭壇を作らず、そのかわりに最高峰の山頂に登ってゼウスに向かって犠牲を捧げ、天空をゼウスと呼んだ。彼らは同様に太陽、月に向かって、大地、火、水、風に向かって犠牲を捧げた。

 初期のボン教もだいたいこのようなものだった。ゾロアスター教経典によれば、人が死ぬとその遺体は鳥獣の出没する山頂に放置され、犬が食らい、鳥がついばむがままにさせたという。

 『敦煌写本』「吐蕃歴史文書」はディグン・ツェンポの死後ンガレギェが各地を遍歴し、鳥家族を訪ねるさまを惜しみなく描写する。鳥家族の者の目は鳥目で、まぶたが下から閉じた。ンガレギェはツェンポの遺体を取り戻すのだが、これはボン教を信じなかったツェンポの遺体が鳥葬されそうになったことを言っている。

 ゾロアスター教の考え方では、人が死ぬと屍骸には屍毒(Drug nasu)というものが付く。そこで屍毒を追い払うために犬が必要となる。とくに四つの目を持つ黄犬や黄色く長い耳を持つ白犬が死者のかたわらにいれば、屍毒を退散させることができる。

 さらに『敦煌写本』は記す。ディグン死後、フャモフルルシク(rHya mo rhull bzhi khugs)とナナム・ツェンションギェル(sNa nam btsan bzhong rgyal)のふたりは宇宙大神の犬オンスク・ヤルダク('On zugs yar grags)やジャンギ・スレマ・ジャン(’Jang gi zu le ma ‘jang)、オンク(’On rku)の毛の上に毒を塗った。犬がロンガムの近くに送られると、喜んだロンガムは思わず犬に触ってしまう。こうして毒にあたってロンガムは死んでしまうのだった。この伝説と前述の伝説はつながりがあるのだろうか。

 ゾロアスター教の規則をみると、男女とも7歳で(インド)あるいは10歳で(イラン)イニシエーションをおこなう。このとき祭司はゾロアスター教徒のしるしである聖衣と聖帯を与える。(註:ナオジョテという入信式は、本来15歳のときにおこなわれるもの。司祭からスドラという聖衣とクスティーという聖帯が渡される)

 『敦煌写本』によれば、ニャティ・ツェンポら天ティ七王はみな子が馬に乗れるようになると、虹のように飛んで天へ戻っていったという。そして『チベット王統記』によれば大臣ロンガム・タヅィは王位を簒奪すると、ディグン・ツェンポの王妃を牧場の馬の番人にしたという。

 この王妃は夢の中でヤラシャムポ山の山神の化身の白色人と交わった。目覚めると、一頭の白いヤクが枕元から離れていった。八ヵ月後、王妃は血と肉のかたまりを産んだ。それはヤクの角のなかで育てられたので、ルレキェ(Ru las skyes 角生)と名づけられた。彼は10歳のとき父(ディグン)と兄の様子を知りたがり、父の遺骸を求めるとともに、兄の王位回復を支持した。

 ここでは白色(光明)崇拝、ゾロアスター教祭司が白衣を着ていることのほか、ゾロアスター教では10歳になると加入儀式を行なうことと関連があるのではなかろうか。またゾロアスター教では数字の9が聖なるものとみなされていることと、ボン教でも9段の天梯や経典の九乗など9が聖なるものであることと、関連性があるかもしれない。

 

 あくまで推測だが、ボン教神話のなかのニャティ・ツェンポ降臨は、ペルシアの古代民間故事の影響ではなかろうか。ゾロアスターの伝説のなかで、いわゆるカウィ王朝の8名のカイ(ペルシア語でkai、アヴェスタ中はkavi)という名を冠する王たちは、のちカイヤン霊光(王者の霊光)と呼ばれた。

 ボン教神話ではニャティ・ツェンポの父ティトゥンチには7人の兄弟があり、ニャティのあとには天ティ七王という王がいた。ゾロアスター教も7という数字を崇拝する。8名のkay(カイ)と七王のkyiもまたよく似ている。ニャティ・ツェンポ降臨神話の光と天の崇拝は前述のとおりである。『青史』は、ニャティ・ツェンポとはティ・ツェンポ・ウーデ(Khri btsan po ‘od lde)とみなしている。ウーデはすなわちオーデ(O de)、大光天である。すなわち王権神授霊光崇拝の反映である。