チベットとペルシア 宮本神酒男 訳
第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来
3 景教(ネストリウス派)伝来の手がかり
景教とは唐代に中国に到来したキリスト教ネストリウス派のことである。635年(唐太宗貞観九年)シリア人アラホン(アロベン)によってペルシアから唐の都長安にもたらされた。638年には都に寺が建設され、波斯寺、のちには大秦寺と称された。781年(唐徳宗建中二年)には大秦景教流行中国碑が建てられたが、これが現存する唯一の遺物である。
漢文の史書にはなぜネストリウス派が景教と呼ばれるのか、いくつかの解釈があらわれる。「景とは昭なり、光明なり」(李之藻)や「景教とはキリスト教ネストリウス派なり。聖書の光照の意味で、景と命名する。景はまた大の意味があり、カトリックの原義と一致し、よい名である」(銭念○)などの説がある。(○は句+力で発音はgu)
20世紀はじめにまでには、780年から823年までキリスト教ネストリウス派の総主教を務めたティモテウス1世の書簡集にチベット人やテュルク人が言及されていたことが知られるようになっていた。また景教の関係資料や景教教会史、テュルク民族史などにも引用されるようになっていた。
ウライ氏は敦煌写本の景教関連の文書中、とくにP・T・351巻を研究した。そのなかの「パリ国家図書館東方手稿部収蔵ペリオ収集チベット文写本選集」177頁の一節に注目している。
Myi khyog gi rogs ni lha I shi ha zhes bya ste
Phyag na rdo rje dpal shag kya thub pa byed de
gNam rim pa bdun gi sgo phyes nas
lha’i phyag gyas pa’i rnal ‘byor du dgrub ‘ong gyis
Ci bsam rnams ma mdzem ma jigs ma skrag par ‘byos shing khyod rgyal bar ‘ong
gdon bgegs ci yang myed te myo di ci la blab kyang bzang rab bo
(訳文)
人よ! おまえの友の名は救世主イシ(イエス)、
あるいは金剛吉祥シャキャ・トゥバ。
七重天の門があいたあと、天神の右手に座し、ヨーガを成就される。
あなたは恥じることも、恐れることも、ひるむこともない。
勝利を得たあと何の障害があろうか。
この卜占によればすべてが大吉である。
ウライ氏はつぎの点が明らかになったと述べる。
(1)P・T・1182巻の表には十字架の図案が書かれ、両端には小さな十字架と文字が記されている。文字は「内大臣、シャンロン(Nang rje po Zhang lon chen po)の手になる」という意味。
(2)P・T・1676巻 『広本般若経』に十字架あり。
(3)ギルギットとラダックの岩に十字架の岩絵。
(4)ラダックのシャヨーク川の谷に三つの十字架。
(5)ラダックのドムカル(Domkhar)の岩にイエスの受難の十字架が描かれ、その下にphagi lo(猪年)の文字。
(6)吐蕃期の景教カルデア教会総主教ティモテウス1世(在任780−823)の書信集の41号と47号にチベットとテュルクの景教について言及される。後者の書信のなかでティモテウスは友人セギエスに述べる。「彼は最近テュルク地域の大主教となり、さらにチベット地区の大主教を任じようとしている。その期間は794−795年、あるいは795−798年である」
20世紀の70年代、80年代、ギルギットやラダックで古代の岩絵や金属製品が発見され、さらに敦煌から出土したチベット語文献(ペリオ1182号、1676号)に各種十字架が見つかり、景教がチベットに伝来したことはほぼ確実になった。ラダックではまた岩石上にかろうじて残った、左右に分かれた双葉の中央から伸びた茎の先端に花が開き十字架に見える絵のほか、ソグド語、クチャ語、チベット語の銘文などが発見された。とくにソグド語の銘文は「210年、われ内地よりここに来たれり。神のしもべ、サマルカンド人ノシュファーン、使者としてチベットのハーンのもとへ向かう」と読み取れるのだった。
景教がもっともよく使用したのがセレウコス暦だが、その初年は紀元前312年であり、これはあきらかに符合しない。セイクやダヴィリヤは、これはヒジュラ暦だと考える。というのも8世紀以降サマルカンドはモスレムの統治下にあったからだ。そうするとウライ氏も賛同しているのだが、210年というのは紀元825年4月24日から826年4月12日までのあいだということになる。
日本の学者森安孝夫はこの210年をヒジュラ暦210年(841−826)かヤズデギルド210年(841−842)とし(以下は重訳)
「それゆえ9世紀前半、ソグド人の景教徒が北西路線を通って吐蕃宮廷に来たのはまちがいないだろう。そのなかでもラダックはバクトリア、パミール、西タリム盆地からインド、チベット内地に至る場合かならず通り道となり、文化交流が発生した。マニ教と同様キリスト教が東方に伝播するときにソグド人は大きな影響力を持った(サマルカンドに府主教、ボハラとタシガンに主教が置かれた)。チベットにおける景教の伝播にもソグド人が中心的役割を果たしたのではないかと考える」
ダレル以南、チラース西のトール地方の岩壁に200以上のソグド語銘文が刻まれている。これらはほとんどが5世紀から6世紀にかけてゾロアスター教徒によって記されたものである。このことからソグド人が古くからチベットの北西に来ていたことが実証されるだろう。6世紀から8世紀頃、ソグディアナでもマニ教、景教の比率がゾロアスター教よりも高くなり、彼らもチベットに来るようになった。前述のように8世紀後半には景教が北西路線を通じてチベットにやってきていた。
バグダッドのティモテウス1世はチベットで布教するのに、もちろん東方の中国を経由する必要はなく、パミールからインド北西部を経由すればよかった。ティモテウスは書簡のなかでチベットに大主教を派遣する必要性を説いたが、吐蕃がどのくらい大きいかについての知識は十分に持っていただろう。
ゾロアスター教、マニ教、景教などの吐蕃伝来にはソグド人が関わっているようだが、つまり彼らによって吐蕃はペルシア文明の影響を受けたということである。よく知られるように、ソグド語はインド・ヨーロッパ語族東イラン語支に属す。彼らの主要宗教はゾロアスター教である。敦煌の洞窟からもゾロアスター教の経典の残部が見つかっている。前5世紀、アケメネス朝ペルシアが中央アジアを支配したとき、すでにソグド人はゾロアスター教を信仰していたのである。英国のイラン学者ゲルシェヴィッチ(Gershevitch 註:両親はロシア系ドイツ人。スイス生まれ。生涯の大半を英国で過ごす)の考証によれば、この敦煌漢長城遺跡から発見されたゾロアスター経典は、アケメネス朝期の3―4世紀にソグド語で書かれたもので、現存するソグド語文献最古の資料である。
また新疆から出土したカローシュティー文字文書は魏の時代に中央アジアのゾロアスター教徒がシルクロードで活動していたことを表している。この文書はホータン王シムハ暦を採用している。専門家の考証によると年代はおそくとも紀元230年という。旧ソ連の学者(スタヴェスキ)は言う。
「ソグドは中央アジアの河川地域の中央に位置するので、中央アジアの周辺に位置する場合と比べ外部からの侵攻を受けることがすくない。4世紀から経済水準、文化水準は他地域と比べて高かった。7−8世紀、東トルキスタンにはあまねくソグド人の居住地点が広がっていた。発見されたソグドの遺物や文字から(あるいは中国やアラブの文献から)当時ソグドの商業使節団がイランとビザンチンを訪問していたことがわかった。当時のソグド人の足跡は中国からモンゴル、インド、サーサーン朝のメルヴにまで及んでいた。ソグド人は極東や中東との国際貿易をおこない、おそらくホラーサーン人ともいっしょになってウラルや東欧諸部族とのあいだでも交易を進めていた」
考古学者はタジキスタン東部ペンジケントの古城の遺跡から神廟を発見した。
「神廟は東を向き、太陽の最初の光を捉えるようになっていた。これはアケメネス朝時代すでに太陽神ミトラを崇拝していたことを示している。中世初期にはソグド人だけでなく多くのイラン系民族がミトラを崇拝していた。それはクシャン王朝やパルティアによって広がった」
ゾロアスター経典『アヴェスター』は言う。
「イラン人は故地アルヤナ・ワェージャフを離れたあと、ここ(ソグド)に定住した。彼らはゾロアスター教を信仰するようになった」
ソグドの故地の遺跡発掘から、彼らがゾロアスター教徒であったことが証明される。
「ソグド地区に流行するゾロアスター教の教義と四つの聖物(火、水、土、気)の教義が一致し、遺体を焼くことも、埋めることも、水中に投げることも、野にさらすこともできない。それゆえソグド人は死者の肉を野獣や犬に食わせる。そして骨を骨壷に入れ、それを地下納骨堂に収める。ペンジケントの納骨堂はレンガでできた建造物で、その一室に骨壷を安置していた」(Mongait)
ソグド人は商売に長けた民族だった。
「国際交易を最大限に活かし、ソグド人はサーサーン朝の職工たちを使い、中国やビザンチンのデザイン・装飾を自分たちの産品に施した」(スタヴェスキ)
アリ・マザヘリは、サーサーン朝ペルシア人の出自がソグド人の血統であるのは理がかなっていると述べる。漢文文献では大月氏の出自となっている。
「われわれが指摘できるのは<ペルシア・ソグド人>が<インド・ソグド人>と親戚関係にあり、<インド・ソグド人>がヒンドゥクシ山脈の南方に移動すると、パルティア人が支配していた時代にデランギアナに定住し、そこがサカスタンとかシスターンと呼ばれるようになったことである」
このように文明間の交流がさかんになり、ドラスティックな動きが見られるようになったのである。
吐蕃統治下の敦煌ではチベット文化とペルシア文化が交流していく。敦煌の洞窟から発見されたチベット語とソグド語で書かれた書物が示すように、敦煌にはソグド人部落があり、ゾロアスター教も流行していた。
敦煌写本P2748『安城○詠』(○は示へんに夭)、P2005『沙州図経』、S367『沙州伊州地誌』などにはゾロアスター教の神廟の記載があり、P4640、P2569、P2629、S1366などの文書にはゾロアスター教の活動用の物資のリスト、S2241にはゾロアスター教寺院の灯明、P2569にはゾロアスター教の呪文などがあり、敦煌にゾロアスター教が存在していたことが分かる。
ゾロアスター教の葬送儀礼も敦煌絵巻や壁画に描かれている。敦煌絵巻P2003『仏説十王図経』14の主体は四角形の壁で囲ってあるだけの露天の遺体置き場である。囲いのなかには腐乱した遺体があり、その上には道具が転がっている。おなじ絵巻の9も類似した絵だが、右側の戸だけがあいている。スタインが持ち帰った『地蔵十王図』にも遺体置き場が描かれ、左側の壁の戸がひらかれ、両側には炎をまとった犬がうずくまっている。考証家によれば、この年代は五代から宋代にかけての時期という。吐蕃統治時代の敦煌にゾロアスター教が存在したということは、当然吐蕃の中央部にも影響を及ぼしたにちがいない。
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