シャンシュンの叡智を伝える聖なる湖の洞窟 

 打ち寄せる波とたわむれる海辺の羊の群れ。と見えるかもしれませんが、ここはチベット、チャンタン高原、海抜4550mのタロク湖なのです。ボン教徒にとっては大変重要な聖地です。

 聖なるタロク湖 

 テンジン・ナムダク・リンポチェによりますと、湖は2つあり、ひとつは塩湖で、もうひとつがこのタロク・ツォ(湖)ということです。対になっていることは、ここを訪ねた当時は気づきませんでしたが、たしかに近くに広大な塩湖がありました。雪が降り積もったかのような真っ白な塩原がつづいていて、そこを散歩したことがあります。その塩湖の下からは、レアメタルのひとつ、リチウムが採れるらしく、近くに採掘場がありました。

この時点では、なぜこんなものを採掘しているのだろうかと怪訝に思いました。しかしご存じのように、このあとレアメタルは世界の大きな話題となります。ボリビアのウユニ塩湖やチリのアカタマ塩湖の下からもリチウムが採れ、南米だけで世界の埋蔵量の8割を占めるそうですが、塩湖と希少な宝(リチウム)とはどうやら関係がありそうです。

 塩湖が物質的な宝を持っているとするなら(もちろん当時の宝はリチウムではなく塩そのものです)、タロク湖の純粋な水は精神的な宝を持っているといえるでしょう。

 タロク湖の浜辺を歩いていくと、湖岸のごつごつした岩山の岩壁に書かれたチベット文字やユンドゥンの印(日本の寺を表わす卍とおなじ)が目につくようになります。チベットではこの記号はボン教を意味します。仏教を表わすのは逆卍なのです。

 現パキスタンのガンダーラ地方の博物館で、2千年前の化粧皿に卍の模様が使われているのを見たことがあります。こういったものも、ボン教と関連づけるべきなのでしょうか。ボン教が卍を重んじるようになったのは、11世紀以降のことではないかという説がありますが、何千年も前から使われていると主張する人々もいます。

 しばらく歩くと登れそうな崖があり、そこをよじ登るとテラス状になった場所があり、岩壁に洞窟がありました。下からはまったく見えませんが、修行洞にしては目立つので驚かされます。

 

そもそもタロク湖西岸はかなり人口過疎で、確認できた家屋も一軒だけでした。しかも岩壁の上にある洞窟ですから、世間の塵とは無縁の天上世界のような場所なのです。

 洞窟のなかの壁はチベット文字やよくわからない記号で埋まっていました。タピリツァの瞑想姿らしき像が描かれていました。

 
洞窟内の壁に描かれたタピリツァ像。右は『Maters of the Zhang Zhung Nyengyudより 

 居住スペースには囲炉裏があり、そのあたりの洞窟の壁は煤煙が積もり、数センチの層を成していました。ここに住んでいたのは修行者のゲルプン・ナンシェル・ロドポでしょうか。彼のあと何人もの修行僧がここにやってきて、童子の姿のタピリツァと会ったのかもしれません。しかし最初にタピリツァと会ったのは彼でしょう。

 

 ナンシェル・ロドポはシャンシュン国王に近い祭司階級の長でした。高慢ちきと言っていいほど気位は高かったのですが、ゾクチェンを学ぶほどの領域には達していませんでした。ですから、洞窟で修行中の彼の前に現れた小僧が彼にたいして礼拝しないだけで、立腹します。

「なぜおまえは礼拝しようとしないのだ?」

「月や太陽はごく普通の星にたいして礼拝したり、帰依したりしないでしょう。大王は小王に礼拝しないでしょう。王は一般民にたいし挨拶したりしないでしょう。大乗は小乗に帰依しないでしょう」

 小僧はそんな木を鼻でくくったような答え方をしました。ナンシェル・ロドポはいっそう怒りまくって問い詰めていきますが、かえって小僧の口から真理が語られるのを聞くことになります。

 そのとき小僧の主人である施主が洞窟にやってきます。施主は小僧を見てさぼっているのだと思い、しかりとばします。しかしその瞬間にナンシェル・ロドポは小僧がただものでないことに気づきます。施主も同時に雷に打たれたようにそのことに気づくのです。ナンシェル・ロドポはありったけの黄金を差し出して、謝罪しました。小僧はそれにたいし言いました。

「私はタピリツァである。あなたがたのために私はやってきた。あなたがたはふたりとも、教えを受け取る準備ができている。黄金はいらない。鳥に黄金のエサをやるようなもので、私には無用だ。ふたりとも、これから授ける教えをよく聞くがよい」

 こうしてタピリツァはシャンシュン・ニェンギュの尊い教えをふたりに授けるのです。実際にそのようなことがこの洞窟で起きたのでしょうか。少なくとも、この洞窟で修行をしていた修行者の前に童子姿のタピリツァが現れたのはまちがいありません。なぜ童子姿なのでしょうか。童子はユンドゥン(永遠)の象徴なのです。それには純粋で、生まれも終わりもないのです。

 修行洞から見るタロク湖と島 

 私はタピリツァ洞窟を見たあと、崖のずっと上のほうまで登ってみました。そのとき一瞬白昼夢を見ました。そこは交易市のようなところで、人と動物でごったがえしていました。いまの人口過疎なタロク湖では考えられないような光景です。

 しかしあとで資料を見ると、シャンシュン国を形成する国のひとつにタロクも数えられているのです。もしこのタロク国とタロク湖がおなじ場所を指すのなら、昔はいまよりもはるかに多くの人が住んでいたのかもしれません。塩の生産地として潤っていたのでしょう。ほかのシャンシュン国のおもだった場所のように、湖の周辺のどこかに、要塞を兼ねた洞窟群が今も残っているかもしれません。

 *地図で確認すると、この地域に大きな湖は7つあるのですが、そのうち5つが塩湖です。タロク湖と「対(つい)」になっているタプイェル・ツァカ(塩湖 Grab yer tshwa kha)だけが、名前に塩の生産地であることを示す「ツァカ」を含んでいます。この塩湖の塩は昔からネパール、インドに輸出されてきました。中心となったルートは、峠を越えてドンパ('Brong pa)に至り、そこから西方のマナサロワル湖へと達します。ここで巡礼ルートと重なるのです。そのあとはプランからフムラ(ネパール)へ行くルートとダルチュラやタナクプル(インド)へ行くルートに分かれるのです。このルートは近年までたいへん栄えてきました。ダルチュラの北方にある交易の通過点として富栄えたラン族の村を私自身訪ねたことがあります。この両ルートはシャンシュン国の交易の大動脈でもあったのです。

<まとめ> 
 この文章を書き始めたときは気づいていなくて、だんだんとわかってきたことがあるので、ここでまとめてみたいと思います。
 タロク湖の地域を訪ねた当時は知らなかったのですが、ここはもともとオリジナルのシャンシュン国(キュンルン・ングルカルとタンラ・キュンゾンの間)の中央に位置し、シャンシュン国を成す18か国のうちのひとつタロク国でした。タロクとシガツェ・カイラース山を結ぶ幹線道路との間には5300mの峠がありこの路線はマイナーに違いないと私は決め込んでいたのですが、じつはその逆で主要な交易路でした。なぜならタプイェル・ツァカという塩の大産地があるからです。

 この湖は青海省の茶カ(上+下)湖やチベット自治区と雲南省の境近くの塩井などと同様、水がほとんどない塩だらけの塩湖(ツァカ)です。チベット人はチベット茶ひとつとってもわかるように、塩を多用する民族です。しかし自分たちだけが消費するだけでなく、交易の主要産品でもありました。

 私たちはタロク湖からタンラ・ツムツォ湖へ向かう途中、この塩湖に立ち寄りました。なぜなら塩湖の下からリチウムが採れるので、鉱夫のための食堂があったからです。塩湖の下からリチウムが採れることが多いということは当時知りませんでした。南米の塩湖の下からリチウムが採れることを私が知ったのはごく最近です。レアメタルが話題になるのはそのしばらくあとのことでした。

 じつはこの一年前にインド・ネパール国境の町ダルチュラを訪ね、さらにもうすこし北の村々を回ってみました。ひとつの村は交易によって富み栄え、立派な家が目立ちました。商人は北上してプランまで行きました。そこには塩や羊毛をもったタロクの商人が来ていたのです。

 このルートはカイラース山・マナサロワル湖巡礼の道でもありました。巡礼路と交易路を兼ねているのですから、昔は人の通行も相当多かったでしょう。チベット人自身、古代シャンシュン国はボン教の国であったかのようにみなしがちですが、交易の民でもあったのです。

 話を戻しますと、テンジン・ナムダク・リンポチェがシャンシュン・ニェンギュについて書かれたとき、タプリツァとタロク湖の章で、湖が2つあると述べておられます。このタロク湖と対になる塩湖は、まさに民に富をもたらしていたのです。それに対し、タロク湖は一見すると何ももたらしていません。しかしタロク湖がもたらしたのは物質的な富ではなく、精神的な富だったのです。


⇒ つぎ