洞窟だらけの謎の古代王国 

 
ツァパランの洞窟群とマンナンの洞窟群。ともにグゲ時代にも使用されているが、掘られたのは太古の昔 
 

 ツァパラン・ゾン(グゲ王宮)あたりから、キュンルン・ングルカルを通ってティセ(カイラース山)へ至るルートは、古代シャンシュン国の核心地帯に相当します。そしてそのあいだに何千という洞窟群を目撃することになります。(シャンシュンの領域内の洞窟は何万個もあります)

 信じられるでしょうか? こんなにたくさんの洞窟があり、それがあきらかにシャンシュンという国と関係があるのに、それがどういう役目を持っていたのか、目的は何なのか、だれによって、いつごろ掘られたのか、十分に説明されていないのです。これは第一に学者の怠慢といえるでしょう。

 
ダパ近くの断崖絶壁の上の洞窟群。それを拡大すると、整然と洞窟が並んでいるのがわかる。内部に大きな空間があるかもしれない 

 
ダパの要塞風の洞窟群。拡大すると、高層ビルのように何層にもなっていることがわかる。なかで洞窟は連結されているはず 

 洞窟を掘るのはそんなに簡単なことではありません。とくに容易に近づけそうもない断崖絶壁の上部に洞窟群がある場合、どうやって掘ったのか、掘った人たちに聞いてみたいものです。グゲ王宮の項で見たように、岩山の内部に洞窟を掘ることもあるのです。山の頂まで掘り進むなんていうことがあるのでしょうか。おそらく頂に近いところまで登って、そこから下へ、横へと掘り進んだのでしょう。彼らは鉄製の掘削器具を持っていたのでしょうか。彼らは相当の技術を持っていたのか、あるいは信じがたいほどの時間をかけたのでしょうか。

  ムスタンではついに調査の手が入った 

 最近はムスタンの洞窟群の実地調査が進んでいます。西チベットの洞窟群を知る者にとっては、ムスタンの推計全1万個(!)の洞窟群は見慣れたタイプです。登山技術を持った人々が考古学チームに参加することによって、はじめて洞窟群の調査が可能になりました。洞窟壁画も発見されていますが、壁画が描かれたのは長い洞窟の歴史のなかではわりあい最近のことと考えられます。洞窟が掘られたのが2千年前なのか、2万年前なのかは、依然としてわかっていないのです。

ボン教徒の伝承によれば、シャンシュンの版図は、北はホータン、西はギルギット、東はナチュ、南はムスタンにまで広がっていたといいます。ムスタンはもともとシャンシュンの一部だったのです。ということは、ホータンにも洞窟があるのでしょうか。ホータンの町の近くに関してはよくわかりませんが、ラダックからホータンへ向かって山を越えるとき、峠の近くで洞窟群を見たとレーリヒは日記に記しています。

 
キュンゴ近く(左)とパンタの洞窟群。パンタには壁画やストゥーパの土台があった 

 普通に考えるなら、洞窟群は集合住宅であり、要塞でもあったでしょう。しかし老人や女子供までいっしょに住んだとすると、要塞としては脆弱すぎることになります。地上に近い洞窟群なら問題ありませんが、絶壁の上のほうなら、弱者には危険すぎます。では兵士だけが住んだのでしょうか。純粋に要塞として洞窟が掘られたのなら、兵士だけが住んだでしょう。


グルギャムの洞窟寺のわきにも洞窟群が見られる。キュンルン銀城の候補のひとつ 

 チベット語でゾンと呼ばれる要塞とお城(王宮)を兼ねた城砦が、もっともありそうだと私は思います。このシリーズの最初に紹介したラダックやスピティの、円錐形の丘の寺院群や崖の上の寺院を思い起こしてください。なぜチベット人やチベット系の人々がこういう寺院を建てたがるかといえば、何千年もこうした洞窟群の城砦を築いてきたからではないでしょうか。それらは遺伝子に刷り込まれているのです。現在は建築技術を会得しているので、彼らが洞窟を掘る必要はなくなりました。

 
キュンルン・ングルカルの洞窟。上下の洞窟は内部で結ばれている。右は別の洞窟の内部  

 もし洞窟群がゾンだとすると、権力が集中した、しかも長く存続した国家があったことを意味します。200の洞窟が集まるゾンを造るのに、どれだけの労働者、どれほどの時間が必要になるでしょうか。シャンシュン国は強大な国だったのでしょうか。それほどの国でありながら、ほかの地域にあまり知られていないということがありえるでしょうか。中国の史書に羊同(ヤントン)という国名で記述されていますが、それは隋、唐朝の頃、つまりシャンシュンが衰えた時期のことです。

 洞窟群が一種の宗教施設だったという説も根強くあります。ボン教の伝承によれば、何千人もの修行者が共同体を作り、そこで瞑想修行をしていたというのです。瞑想修行というものがまるで最近の流行であるかのように考える人がいますが、これは人類が太古の昔からもっている精神的技術なのです。『ヨーガ・スートラ』(BC2世紀?)を著したパタンジャリは、はるか昔から伝わるヨーガの技術をまとめたにすぎなかったのです。

 カイラース山はチベット人やシャンシュン人だけでなく、インド亜大陸全体の人々にとって特別な存在でした。須弥山のモデルであった可能性もあります。カイラース山が至上の巡礼地であったとすると、ヒマラヤを越えてカイラース山やマナサロワル湖に至るまでのルートは巡礼路であり、いたるところに宗教施設ができても不思議ではありません。宗教施設といっても木も草も生えない荒涼とした地域なので、建物を造るとするなら石造りしかありません。しかしより恒久的な施設なら、洞窟に及ばないのです。

 インドの古代の書物である『ヤジュル・ヴェーダ』や『アタルヴァ・ヴェーダ』には洞窟に住む人々としてキラータのことが記されています。キラータといえばネパール東部に住むリンブ―族やライ族のことをおもにさしますが、当時はモンゴロイド全般を指していたのかもしれません。3500年前、すでにチベット系の人々が洞窟に住んでいたことを示しているのでしょうか。

 もしそうだとすると、3500年前の時点で洞窟群はすでに掘られていたのかもしれません。歴史書に記載されていないのは、最初の洞窟群の時代が前歴史時代だからということになります。

またキラータの娘たちは、丘の高所の端で(つまり崖の上で)黄金のシャベルを使って土を掘り、薬草を採っていたと記されています。これは彼らが特性のシャベルを持っていたということなのです。おそらく彼らが洞窟を掘るための高度な技術を持っていたこと、洞窟がすでに相当な数、存在していたこと、また高度な薬草学の知識を持っていたことをここから読み取ることができます。

 こうして謎解きをしていけばいくほど、新たな謎が生じてくるのです。



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