時をかける猫とぼく  ロイド・アリグザンダー 

 

13 サイリ・トゥパック 

 インカ人たちは谷間のはずれに小さなキャンプを設営し、村をつくっていた。ジェイソンとギャレスは蜘蛛の巣にからまったハエのように、棒にしばられ、キャンプ地にはこばれた。そして偉大なるインカの皇帝サイリ・トゥパックの前で下ろされた。

 ジェイソンはこんなきらびやかにドレスアップした男を見たことがなかった。このインカ人は長いチューニックを羽おり、きらきら輝く飾りがついた肩マントをまとっていた。また額あたりには飾り房や黄金が混じった、色つきの編み髪が垂れていた。耳からは巨大な純金の円盤が垂れていた。インカ人はそのハンサムな、ブロンズのような顔――きびしく、威厳があるが、同時に深い悲しみをたたえた顔――をジェイソンに向けた。

「われわれの敵が足元に横たわっている」とサイリ・トゥパックは言った。「まさにわが父や兄弟たちが征服者たちの足元に横たわるように。スペイン人たちはわが兄弟たちの身代金として大量の黄金を要求してきた。いま、おまえたちを人質とし、身代金として黄金をたんまりと要求しようぞ」

「われわれは払った」インカの皇帝はつづけた。「征服者たちがどれだけ払うか見ものだな。もし払わなかったら、軍旗にふたつの首が飾られることになるだろう。メッセージはすでにクスコに送られたぞ」と皇帝は言った。「おまえたちの命運は回答にかかっているということだ」

 ジェイソンとギャレスは土でできた小屋の外壁に向かってすわらされた。偉大なるインカの皇帝はかれらにたいして何も話さなかった。しかし数人の戦士や村の女子どもがあつまってきて、ジェイソンではなくギャレスをめずらしそうにのぞき見した。ペルーには猫がいないのではないかとジェイソンは推測した。この動物は黒いピューマの一種ではないかとだれかがしゃべっているのを聞いたからである。

 ジェイソンはサイリ・トゥパックのことばについて考えないようにした。スペイン人が互いに戦うのに忙しかったら少年と猫について考える時間の余裕もないだろう。黄金についてそうは簡単にあきらめないだろう。サイリ・トゥパックの軍旗にふたつの首をかかげるという発言のためにジェイソンは意気が上がらなかった。とはいえ、ギャレスが言うように、一度に二本の前足を洗うことはできないのだ。これから起こることを考えないようにするため、ジェイソンはまわりで起きていることに興味をもつようにつとめた。

 かれらを観察すればするほど、インカ人たちはエジプト人を思い起こさせた。着ている衣服は異なるものの、インカ人はおなじ威厳と上品さをもっていた。さらに、インカの戦士のイアリングのきらめく黄金や羽根の頭飾り、光沢のある槍によって、みすぼらしいキャンプ村は宮殿のように立派に見えた。クスコの宮殿がどれほどすばらしいものであったか、ジェイソンは容易に想像することができた。エジプト人のようにインカ人も独特の書記体系をもっていた。食糧の備蓄を数えるのに忙しい羊毛の衣を着た人々は書記にちがいないとジェイソンは考えた。土の平板のかわりに、縄上の彩色された結び目を用いてかれらは記録を保存しているようだった。

 牧童に導かれた数頭のラマが、ぶらぶらと歩いて通りすぎていった。この動物はとても大きな羊にも、小さな毛の多いラクダにも見えた。そしてとても静かで品位をたもっていた。かれらはジェイソンとギャレスに厳粛なるまなざしを向け、それからゆっくりと歩いていった。

 眠ろうにも、ジェイソンの足には縄がかけられていた。ギャレスにならってリラックスしてうたたねしようとつとめた。目を閉じて、眠りの世界にはいろうとしたとき、戦士たちのあいだから大きな歓声があがった。ジェイソンは縄が許すかぎり、からだをひねってそちらを見た。村のはずれに馬上の人影が見えた。それはドン・ディエゴだった。

 スペイン人は壇の近くで手綱を引いてとまった。サイリ・トゥパックの玉座はこの壇上にあった。スペイン人はあぶみに足を入れて馬から降りるにも、うまくいかなかった。ドン・ディエゴは恐縮し、居心地悪そうだった。彼のヘルメットは曲がり、だれも手助けしてくれなかったので、甲冑の着方はとんちんかんだった。ジェイソンの心は沈んだ。ドン・ディエゴはとても好きだったが、ぎこちないこのスペイン人は栄光の皇帝サイリ・トゥパックと交渉する男には見えなかった。

 ドン・ディエゴは玉座に近づいた。彼が話しはじめたとき、ヘルメットがずれ落ちて片耳だけ露出した。ドン・ディエゴは我慢がならなくなり、頭にかぶっていたものを脱いで地面にたたきつけた。甲冑の留め金もはずしたが、まるで殻が抜け落ちるように甲冑そのものが地面に落ちてしまった。

「このほうが」と彼は言った。「はるかにましです」

 ジェイソンは自分の目が信じられなかった。重い甲冑を脱ぎ、ダブレットだけを着たドン・ディエゴはより背が高く、背筋が伸びているように見えた。彼は誇らしげに頭を上げ、話しはじめると、その声は朗々と、明徴に響き渡った。

「私は征服者の甲冑はもう着ません」と彼は言った。「私はひとりの人間がほかの人間と接するようにあなたと接したい。あなたの兵士はわが友人ふたりをさらっていきました。かれらを私のもとへ帰すよう要求します」

「スペイン人が友情について語るだと?」サイリ・トゥパックは見下すような口調でたずねた。「私はかれらに友情を提供した。だがかれらが欲していたのは黄金だけだった」

「あなたの怒りもごもっともです」ドン・ディエゴは言った。「でもあなたと言い争っているのはおとなの男たちであり、少年と動物ではありません。あなたがおとなの男であり、戦士であるなら、理解されるでしょう。あなたは私にそれを執行させるでしょう」

 サイリ・トゥパックは目をそらし、こたえなかった。「あまりにも多くの血が流れました」とドン・ディエゴはつづけた。「世界は変わりました。スペイン人にとっても、インカ人にとっても。両者とも起こってしまったことを、元に戻すことはできないのです。ともに生きることを学ばねばなりません。ともに死ぬことを学ぶのではないのです」

 ドン・ディエゴの声はキャンプ全体に響き渡った。彼はいまやインカ人自身に話しかけていた。彼はインカ人が作った賢明なる法律やかれらが建てた強大な寺院や宮殿を思い起こさせた。戦争はそれらを破壊することしかできなかった。彼はインカ人の詩や踊り、古代種族の歴史について語った。ジェイソンから見ると、ドン・ディエゴはインカ人自身よりもインカ人について知っているように思われた。

 彼が話し終えると、こんどはサイリ・トゥパックが話す番だった。「私は驚きをもって聞いた」とインカの偉大なる皇帝は言った。「われわれが理解できることばでしゃべるスペイン人はいままでいなかった。われわれの願いは平和であることを征服者たちが理解できればと思う。もしわれわれを人間として見てくれれば、われわれなりに……」

「できるだけの努力はしたい」とドン・ディエゴは言った。「ひとりの人間ができることはかぎりがあるが、最善をつくしたい」

「人質のようなものだな」とインカ人は言った。「理解は黄金にまさる。少年と小さな黒いピューマをいただこう」彼はつけくわえた。「危害をくわえられることなく、あなたはここから出ていくことができる」

 

 クスコの兵舎の部屋でおそるべきはやさで物を書きながらドン・ディエゴは二日間をすごした。食べたり眠ったりすることにほとんど時間を費やさなかった。また甲冑を着ることはなかった。広場からの兵士を呼ぶトランペットの音にも注意を払わなかった。

「おれは備忘録を提督に送ろうとしているんだ」と彼は併存に語った。「思うに、トラブルの半分はインカ人がどういう人々かだれも知らないことに起因している。このことを知るべきときがやってきたのだ」

 ジェイソンはドン・ディエゴの変化に驚かされた。このスペイン人は陽気に口笛を吹き、元気よく散歩した。口ヒゲさえもが生気を得たように見えた。ある日の午後、ドン・ディエゴは部屋に駆け込んでくると、羊皮紙を振り回した。

「提督からのメッセージだ!」彼は叫んだ。「提督はおれがリマに来て、アドバイザーになることを望んでいる。おれみたいな人間が兵士として訓練を積むのは時間の無駄で、ばかげたことだとおっしゃるのだ」

 スペイン人はすこしだけ踊り、足がもつれて倒れそうになり、ジェイソンとガレスに抱きついた。「これはもういらないな」彼は得意げにヘルメットや胸当てに手を振った。「らっぱも、<兵士諸君、注意を>もいらない! ただ自分自身でいて、すべきことをすればいいのだ」

「もうひとつ、文書があるな」ドン・ディエゴは眉をひそめて言った。「どうもよくわからないな。ドン・ディエゴ・フランシスコ・エルナンデス・デル・ガト・エッレラ・イ・ロブレスの求めに応じて猫が到着したと書かれている。母方の家族は二匹の猫を送ったとも書かれている。それについて調べなければならない。そのあいだにきみたちは荷物をまとめたまえ」

 ドン・ディエゴは扉のほうに急いだ。「すぐもどってくるだろう」彼は大声で言った。「将軍にこの手紙を見せたいんだ。将軍はたぶんたいへん喜ばれるだろう」

 スペイン人がいなくなると、ジェイソンとギャレスは互いを見た。「まあ」ジェイソンは一瞬の間ののち、言った。「ドン・ディエゴが政府のなかで埋もれるとは思わなかったけどね」

「彼はそういうことにたけているのです」とガレスは言った。「得意でないことをさせるのは、ばかげたことです。ドン・ディエゴは自分自身を認識したのです。われわれ猫はつねに自分を知っています。もしわたしが甲冑を着て、一日中兵士として訓練を積むとしたらどう考えます?」

「まあばかげているよね」ジェイソンはこたえた。「だれかの命令でそんなばかげたことをしないよね」

「なぜなら自分が猫であることを知っているからです」とギャレスは言った。「ドン・ディエゴは自分がひとりの人間であることに気づいたのです」

「ところで」ジェイソンはたずねた。「ドン・ディエゴは二匹の猫となにをしようとしているのだろうか」

「いや一匹だけですね」ギャレスは言った。「というのも」ウィンクしながらつけくわえた。「猫を待つだけの時間の余裕はないのです」


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