時をかける猫とぼく ロイド・アリグザンダー
20 帰還
その夜、かれらは道沿いに野営した。明け方になるとプロフェッサー・パーカーは馬を荷馬車につなぎ、手綱でぴしゃりと馬をたたいた。しばらく進むと、荷馬車は農家にはいった。ここの農民は背が高く、黒いヒゲをはやし、手には大きなタコができていた。ジェイソンは彼と話をして、彼と家族がカナダから来たことを知った。カナダの前はフランスだったという。しかし彼自身は自分をアメリカ人と呼んだ。彼がこの農場を経営するようになってから日は浅かった。前回の収穫のあと、ネズミが収穫された穀物の大半を食い荒らしたという。
プロフェッサー・パーカーは彼に子猫二匹を売った。「子猫たちはこの土地で成長することになる」と彼は農民に話した。「あなたとおなじようにこの土地を愛するようになるだろう。そしてあなたとおなじように働くだろう。でもだからといって子猫たちは奴隷じゃない。かれらは自由な生き物なのだ。生きたいように生きるのがかれらにとって自然なことなのだ」
つぎの農場でジェイソンは春の朝にぴったりのかわいらしくてしあわせそうな小さな少女と会った。プロフェッサーの荷馬車が姿をあらわしたとき、彼女はうれしくて拍手した。しかしほかの子どもたちのように荷馬車へ向かって走っていくことはなかった。その理由はすぐわかった。この少女は足が不自由だったのである。
この少女にプロフェッサーはもっともきれいで、もっともかわいい子猫をプレゼントした。
「この子は走り回り、ジャンプし、彼女のために木に登るよ」あとで彼はジェイソンにそう語った。「そして少女のことをとても好きになって、少女にとっても、自分が跳びまわっているような気になるんだ。少女は勇気づけられて、自分もこうでなくっちゃって思うようになる。だれだって大なり小なり似たような気分になるけど、泣きたくなったときには、ベルベットのようにやわらかい足のおかげで、彼女はなぐさめられるんだ」
さらに道をくだっていき、プロフェッサー・パーカーは小さな家の前で荷馬車をとめた。ここに住んでいるのは、子どもや孫がおとなになり離れていった年老いた夫婦だった。かれらは自分たちの土地を見ながら日々をすごすことに満足していた。
かれらはプロフェッサー・パーカーの荷馬車に子猫がいることを知ると、まるで若い孫たちがやってきたかのように喜んだ。かれらは緑色の目をもつ白と黒のまじった子猫を選んだ。
「夜になったら」プロフェッサー・パーカーはジェイソンに言った。「かれらは遠い昔のように炉端にすわる。そして手は猫をさわっている。猫は静かにゴロゴロとのどを鳴らすだろう。猫はたくさんの記憶をもっているから、かれらのことが理解できるんだろう。猫はかれらとおなじように、一日の終わりに憩(いこ)うことに満足しているんだ」
つぎの農場でジェイソンは、驚いたことをあわてて隠さなければならなかった。というのも、娘の長い髪、笑みを浮かべた青い目が、エリンのダイアハンとまったくおなじだったからだ。
しかし彼女の名はアイリーン・オーデイだった。彼女は両手を腰に置き、ジェイソンを大胆に見た。「幽霊を見たみたいに人を見つめるもんじゃないわ!」彼女は顔をそむけた。しかしジェイソンのほうを彼女がちらりと見たのを、しかも彼がそれに気づいていないと思っているのが彼にはわかった。
彼女が選んだのはもっともやんちゃなジンジャー色の子猫だった。
「このふたりは、自分たちがともにやんちゃであることに気づくだろう」とプロフェッサーは言った。「きれいなリボンを追いかけ、かくれんぼを楽しむ。数枚の割れた皿でもいいんだ、ふくれっつらを笑いに変えることができるからね。笑いは涙に変わり、涙はまた笑いにもどる。あとで少女は猫に夢や秘密をささやくだろう。猫は厳粛にそれを聞くことになるだろう。猫はかしこくて、秘密を理解するので、ほかのだれにも漏らすことはけっしてないんだ」
「そう、かれらは秘密を共有するんだ」プロフェッサー・パーカーはうなずいた。「おそらく少女は彼女の心をとらえた若者について猫に話すだろう。若者に告白する前に先に猫にその話をするんだ、まちがいなく」
「どうしてかって、ちょっと見てごらん」ギャレスに話しかけるようなそぶりでプロフェッサーは言った。「このぼうや、顔が赤くなってただろう?」そして冗談であることを示すため、彼はジェイソンの耳からシリング硬貨を取り出した。
ジェイソンやギャレス、プロフェッサー・パーカーが訪ねたほかのすべての人々も同様だった。老いも若きも、男も女も、少年も少女も、みな好みの子猫を見つけることができた。すべての子猫が「家庭」を見つけるまで時間はかからなかった。そしてプロフェッサー・パーカーはふたたびボストンへ向かった。
町の郊外の近くで農民の一団が道路を封鎖した。ある者はマスケット銃を肩にのせ、またある者はくま手やおの、こん棒をもった。
プロフェッサー・パーカーは荷馬車から身を乗り出した。「ピクニックにでも行くのかい?」と農民のひとりに声をかけた。
農民の男はよそよそしく笑い、「ロブスターを釣りに行くんだよ!」と叫んで返した。「今日の朝、レキシントンからはじまるらしい。赤コート軍は総出のようだ。火のなかのあぶらってとこだ」
ギャレスは耳をピンと立てた。つぎの瞬間、ジェイソンも刈り株だらけの野を越えてくる横笛のかん高い音や太鼓のけたたましい音を聞いた。四月の太陽の燃えるような緋色(ひいろ)を着た英国軍歩兵隊の隊列が、道路の曲がり角を行進してくるのが見えた。発せられるいくつかの号令も遠くから流れてきた。隊列は曲がると、ナイフの赤くなった刃のように野を横切ってきた。正規軍が目に入ると、農民のあいだから叫び声が聞こえた。かれらはゆっくりと、じわじわと前に進み出た。プロフェッサー・パーカーが馬にたいして舌打ちすると、荷馬車はキーっと音をたてて前方に動き出した。
英国軍の列のほうが先に到達した。ジェイソンにとって、熊皮の高いヘルメットをかぶった赤コート軍の兵士は、オモチャ箱から逃げ出したオモチャのように見えた。より近くで見ると、太陽がマスケット銃や鋭い銃剣を照らしてきらきら光り、まぶしかった。心臓はのどのあたりで激しく脈打ち、ツバが飲み込めなかった。ジェイソンは直感的にガレスを取り上げ、腕の中にしっかり抱いた。
軍隊の横笛の音がジェイソンの耳をつんざいた。千のあざ笑う笛のように、正規軍のみかけ以上にそれはおそろしかった。英国軍は止まり、動きをとめてその場に立った。しかし横笛はやまなかった。騒音のなかつぎの号令が発せられた。ジェイソンは正規軍の兵士たちがライフルを平行になるまであげるのを見た。農民たちは躊躇しながらも前に進んでいった。
英国軍将校の剣のきらめきが振り下ろされるのが見えた。緋色の線に沿って、火打石銃のかちりという音がひびいていった。ジェイソンは閃光を見た。そしてマスケット銃が巨大なムチのように鳴り響くのを聞いた。民兵たちは漂う煙のなかをぬけて、銃を放ち、弾丸をこめ、丘や草のかたまりの後ろを這っていきながら、正規軍のほうへ争うようになだれこんでいった。
「ロブスター大王によって」プロフェッサー・パーカーは叫んだ。「われわれは英国軍を攻撃しているんだ!」
突然荷馬車がよろめき、ジェイソンとギャレスは前方に投げ出された。そのときマスカット銃が一斉にとどろいた。ジェイソンはだれかの叫び声を聞き、べつのだれかが地面に倒れるところを見た。
「荷馬車にいるんだ!」プロフェッサーは叫んだ。「おれは馬の縄を解きにいく。われわれは<自由の息子たち>に知らせねばならん。あっちにもどって……」彼は頭をいまやってきた道のほうへ突き出した。
プロフェッサーは死に物狂いで馬具をはずそうとした。するとつぎの正規軍の一斉射撃がはじまった。プロフェッサー・パーカーはよろめいて荷馬車にもどった。ジェイソンは瞬時に伏せた。プロフェッサーは両手で胸をおさえた。顔はみるみる灰色に変わった。
「ホマルス・ヴルガリス(ヨーロッパ・ロブスター)はやっかいな客だ、前にも言ったように」彼はニヤリと笑った。「ぼうや、よく聞くんだ。馬に乗って、はやく、遠くまで行くことができるかい? 馬をあっちのほうに向かせるんだ。馬は道を知っているよ」
「でもあなたは……」ジェイソンが何かを言おうとすると、プロフェッサーが割ってはいった。
「ここから出るんだよ」と彼は言った。「おれはここに残って、あいつらがぶどう弾をおれのやかんにいれないかどうか見張るよ」彼は笑みを浮かべ、シリング硬貨をジェイソンの耳から出そうとした。しかし彼の手から力が抜け、硬貨は地面に落ちた。
正規軍の軍隊は野戦砲を出してきた。そして円筒弾が炸裂してフェンスを、そして芽を出しかけた枝を吹っ飛ばした。
ジェイソンとギャレスが背中に乗ると、馬は後ろ足で立った。前を向かせながら、ジェイソンは両腕を馬の首にまわした。ギャレスはたてがみにしがみついた。
日が暮れた。日暮れのあと夜も更け……ジェイソンはどれだけの時間がたったかわからなかった。疲れ切った馬がようやくプロフェッサーが最初にとまった村にたどりついた。ランタンの明かりがジェイソンの顔を照らした。人々が彼のまわりにあつまってきた。かれらのどの質問にも答えることができなかった。襲撃はうまくいったのか、正規軍によって返り討ちにあったのか、戦闘はつづいているのか。そのどれにもこたえることができなかった。戦いがはじまったことを伝えよ、というプロフェッサー・パーカーのことばだけが理解できた。ジェイソンにはそれ以上のことはできなかった。
村中にたいまつがかかげられた。農民たちは馬に馬具を装備し、荷馬車にくくりつけた。
よごれて、すり切れた服を着たまま、ジェイソンは群衆のなかを通ろうとした。「だれかを乗せてもどりたいんだ!」彼は懇願した。「プロフェッサーがあっちで……」ジェイソンのことばは男たちの叫び声、馬の地面を踏み鳴らす音やいななきのなかにうもれてしまった。それから村の広場はからっぽになった。
ジェイソンは石の上にすわった。「かれらはぼくをつれていこうとしない」苦々しく彼は言った。
道路の埃をかぶって真っ白になったガレスは、ジェイソンの足にからだをなすりつけた。
ジェイソンは顔をあげた。「そうだ、かれらのあとから行こう」
「だめです」ギャレスは言った。「これはかれらの戦争です。まあ、今回はあなたのために戦うのですが」
猫は広場からゆっくりと歩いて出ていき、とまった。そしてジェイソンのほうを振り返った。「さあ、来て」とギャレスは言った。「ぼくのあとについてきて」
暗闇。でもまったくの暗闇というわけでもない。丘にむかってゆるやかな坂を上っているようにジェイソンには感じられた。横を歩くギャレスは、首を突き出し、頭を警戒態勢におき、しっぽを立てて大またで前進した。心のなかで真剣なことを考えているとき、ガレスはいつもこういう歩き方をした。
半分は日なた。半分は陰。ここがエリンの丘かドイツの丘かはわからなかった。おそらくブリテン島の森だろう。なんとも言い難い。目の前で木々は移ろい、変化した。はじめてジェイソンは心の底からおそろしさを感じた。依然にもおそろしさを感じたことはあったが、別のたぐいのものだった。巣立つヒナの羽根のようにふるえるような、いぶかしいものだった。突然陰のなかでガレスを失うような気がしてこわさを感じた。彼はかがんで猫を腕のなかに抱いた。
「どこへ行こうとしているんだい?」ジェイソンはたずねた。
「家に帰ろうとしているんです」ギャレスはこたえた。
家! ジェイソンは帰宅について考えはじめていたが、なにせ忙しかった。ジェイソンは家についてまったく気にしていなかったが、いろんなことが起こって家が恋しくなっていた。「そうだよ、そうだよ」燃え上がる炎のように家のことを考えるようになっていた。でもそれは表層のことで、その下では奇妙なほどの悲しみを覚えていた。
「家にとても帰りたい」ジェイソンは言った。「でもいまじゃなきゃダメなの? もっとあとじゃ……」
「ダメです」それ以上の質問は受け付けないとばかり、きっぱりとガレスは言った。「ごめんなさい。いまじゃないとダメなんです。覚えていますか、今回は特別なケースなのでぼくといっしょに旅をすることができたのです」
「それはたしかにそうだけど」ジェイソンは理解を示しながら言った。
「想像する以上に」とギャレスは言った。「やってくるたしかな瞬間というものがあります。子猫にとっても。成長について考えはじめなければなりません。それは特別な場合なのです。あたらしいことを学ぶことによってそれははじまるのです」
「ぼくは猫についてたくさん学んだよ。さまざまな場所についてもね」とジェイソンは言った。
「それはほんの一部です」ギャレスは言った。「思い返してください。いままで会ったすべての人が語るべきことをもっています。かれら自身について、あるいはあなた自身について。それが成長について知るべきことの一部を見つける方法なのです」
「ギャレス、きみが言わんとしているのは」とジェイソンは言った。「ぼくをつれていったのは、ある意味、ぼくに実践させようとしていたのだね。日本で子猫たちにしていたのとおなじことを」
「そうとも言えますね」ガレスは同意した。
「理解したような気がするよ」一瞬ののちジェイソンは言った。「でもいまだにみんなに会いたくてたまらないんだ。長い歯チェルディッチ、レオナルド、スペックフレッサーにも。そしてダイアハンにも」
「またかれらに会えますよ」ギャレスは安心させるように言った。「あなたが記憶しているかれらとはすこしちがうかもしれませんが。でもともかく会えるでしょう。それはたしかなことです」
「たぶんね」ジェイソンは憮然(ぶぜん)として言った。「でも家に帰ったあと、もうこんな旅は許されないだろうな」
「またちがう旅をすることができますよ」ギャレスは言った。「旅は終わっていません。もし真実を探求したいなら、あなたの旅ははじまったばかりなのです。つぎはひとりの旅になることでしょう」
まあね」ジェイソンはすこし元気になって言った。「おそらくその旅も気に入りそうだね。とても楽しいんじゃないかな。ぼくらが語り合ったことをよく考えてみたいよ」
「たしかにそうです」ギャレスはゆっくりと言った。でも家に戻ったあと、ぼくは何も話せなくなります」
「どういうこと?」ジェイソンは叫んだ。「そんなのフェアじゃないよ! そういうんだったら、ぼくは家に帰りたくない!」
「待ってください」とギャレスは言った。「もどったら話すことができなくなるでしょう。でもそれはたがいに理解できなくなるということではありません。今回の旅まで、猫にはことばが必要ないって知っていましたか。あなたが猫を見て、そして理解しようとつとめたら、すべての猫は話すことができるのです」
「それはおなじじゃないよ」ジェイソンは言った。
「いえ、おなじです」ギャレスはこたえた。「この世界でもっとも愛すべきことについてあなたは語ることができます、ことばなしで」
影がまとわりついてきた。ジェイソンが猫を抱きしめれば抱きしめるほど、腕のなかから猫は消えていった。
「ギャレス!」ジェイソンは必死に呼んだ。「ギャレス!」
ジェイソンはまくらから頭をあげた。彼の横で黒猫はからだを目いっぱいのばし、見上げて、あくびをした。ジェイソンは目をこすった。寝室はいつもと変わらなかった。窓からは太陽の光がこぼれていた。どれだけ眠っていたのだろうか。数分以上ではなさそうだ。多くて一時間だ。まだ午後なのだから。
「ギャレス?」ジェイソンはいぶかしげに言った。
猫はうれしそうにのどをゴロゴロ鳴らしはじめた。そしてカギツメを入れたり出したりして、ジェイソンにむかってまばたきをした。
なんという夢だったのか、とジェイソンは考えた。彼は眉をひそめた。しかし夢ははっきりと覚えていた。エジプト人がいて、魔法使いがいて、ローマ帝国の百人隊長がいたのだ。目が覚めたいまでも、それぞれの顔をはっきりと思い浮かべることができた。
「おまえも夢のなかにいたんだよなあ」彼はギャレスの耳をこすりながら言った。「すべてのことをアレンジしたのはおまえだったんだもの。いまでもおまえがほんとうにそうしたんだと思っているよ。おまえが望んでいたことなんだよ」
ジェイソンはベッドの上にすわった。夢がほんとうのことだったらよかったのに、と考え、すこしがっかりしていた。
階下から母親がキッチンで何かをしている音が聞こえた。彼は立ち上がり、ドアのほうに歩いた。突然、部屋にいるように言われていたことを思い出した。ぶつぶつと不平をこぼしながら、ジェイソンはポケットに手を入れた。そのとき指が磨滅した金属にさわった。おどろいてそれをポケットから引っ張り出した。Tの字の横木の上に輪がついたかたちのものだった。*エジプト十字架
「へんだな。これぼくのものじゃないよ」ジェイソンは言った。「思うに……」彼はギャレスの横にすわった。「どう思う?」
ギャレスは首をかしげ、問いかけるようにジェイソンを見た。
「自分で考えろっていうのかい」ジェイソンはたずねた。「まあ、これはたしか……」
ジェイソンの母が下から呼んでいた。
「ギャレス、行こうか」ジェイソンは言った。「みなぼくらを待ってるからね」彼は猫にほほえみかけ、金属をポケットにもどした。
それから彼とギャレスは、晩ごはんを食べに階下へ走っていった。
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