青山自青山 白雲自白雲  アラン・ワッツの落書き帳 

『黙想術』より 宮本神酒男編訳 

 

青山はおのずから青山である 

白雲はおのずから白雲である 

 

 何ものにもさまたげられることなく、滔々(とうとう)と流れるのは、タオ(道)である。あるがままの自然である。それはまた無執着の状態である。無理強いされることのない、自発的なもの、邪魔されない生命の流れによって意味づけられるものである。

しかしながら、そのような自然の流れはただちにわれわれに底知れぬ不安を与えることになるだろう。常日頃、自分を制御することに慣れていないわれわれにとって、自分の内部に居ついた虎や悪魔を放ってしまうことになるからだ。とはいえ過分に考えるべきではないだろう。虎や悪魔も、いつもながらの幻影にすぎないのだから。

 もし自我を制御できなかったらどうなるのだろうか。考えてもみてほしい。人間の状態は、そのあるがままよりも堕落していないだろうか。意志のパワーを信じる者、心や環境を制御できると信じる者が、とてつもなく恐ろしい行為をしでかしていないだろうか。

 ヒトラーは苦行者だった。ラスプチーンは心と身体を制御することにかけては導師のようだった。サムライの多くは禅の修行を励み、武人としての技を磨いた。宮本武蔵のように出世欲に捉われることの無益さを認識できたのはごくわずかであったが。

タオは何も邪魔されることなく流れる、われわれが知ろうと、知るまいと。「知ることにあらず」は、異なるパターンの流れにほかならなかった。禅の詩にこういうのがある。

 

もしあなたが理解するなら 

物事はそれそのものである。 

もし理解しなくても 

物事はそれそのものである。 

 

 「個別であること」の幻影から解き放たれた者は、自動的に、尋常ならざるパワーを身につけると広く信じられている。そしてすべての自然の驚嘆すべきことは「自己」にほかならないということが、たしかな感覚のなかでは真実である。これを超越して、超越的な力(シッディ)があきらかになるかもしれないし、ならないかもしれない。それはちょうど天気がいいかもしれないし、よくないかもしれないというのと、おなじようなものだ。

 どんな環境におかれようとも通念にとらわれない信仰心の篤いグルは、とりわけ尊敬を集めるものである。彼らは自分の病気をも、しっかりと自分で治すことができる。そして治療を魔術のレパートリーに加える。

 瞑想は、もともと持っているあるがままの状態であること、あるいは人間という有機物に秘められた可能性を最大限に引き出す状態であること、とみなされうる。しかしそれが無理強いされたものであるなら、望んだような成果は得られないだろう。

 ずっと長い間、われわれは力のことを気にかけてきた。力によって自然を制御しようと考え、かえって、つのるフラストレーションといつまでも戦わなければならなかった。外側から無理に制御することなどできないのだ。制御された、自己制御した、あるいは制御されない、とする言い方は不正確である。

というのも制御という考えは、つねに一方が命令し、もう一方が従う、あるいは従うのを拒否する、といった二元性を含んでいるからだ。自然のパターンや秩序はそのような二分割から生まれているのではない。因と果、行為と反応は一つのプロセスの両局面であり、二つの物の見方なのである。結果から原因を分けることはできない。二元的言語によって描写するのが目的でないかぎり。









アラン・ワッツ(1915−1973)はいまだに著作が売れ続けている英国出身の思想家。禅や道教など東洋哲学に関する著作が多い。多作家として知られるが、邦訳は『タブーの書』『ラットレースを抜け出す方法』などで、それほど多くない。



本文はすべて手書き(コピー)の珍しい本