カシミール・シヴァ派のヨーガ シャンカラナンダ 宮本神酒男訳 
1章 シヴァの恵み
 

U すべてはチティである 

 午後になるとわれわれはババのアパートメントを訪ね、質疑応答のセッションをおこなった。ババは私がそれまで聞いたこともないような瞑想の仕方を教えてくれた。彼はわれわれに語った。

「チティの遊びとして心を見てください。どんな考えが浮かんでこようが、それがいい考えだろうと悪い考えであろうと、それらをチティの遊び、すなわち意識の遊びとみなしてください」

 瞑想をするために坐るとき、「それはすべてチティの遊びである」というフレーズが頭の中にこだました。私はそれが内包されたものであると思い、考えをさほど深刻には考えなかった。考えは考えにすぎない。すべては意識である。そして心は意識の娯楽にすぎないのだ。

 アシュラムの図書館で私は2冊の本と出会った。1冊はチャッテルジの『カシミール・シヴァ派』で、もう1冊はクシェーマラジャ(ジャイデーヴァ・シン編纂)の『プラティヤビジュナフリダヤム』だった。ババが「すべてはチティである」と述べるとき、『カシミール・シヴァ派』の言葉を語っていることが理解できるようになった。

 ババ自身、シヴァ派の考え方に深いところで共鳴していた。それは彼の自伝『チットシャクティ・ヴィラス』すなわち「意識(チティ)の遊び」というタイトルにも現れていた。そのなかには女神チティに捧げる無数の賛歌が含まれていた。とくに意義深いのは「性的興奮」と題された章である。そこでババはシヴァ派のイニシエーションを受けているのだ。ヨーギとヴェーダンティン(パタンジャリとシャンカラの信奉者)の二分法的なやりかたで性的刺激にたいして戦わないようにするのではなく、シヴァ派のタントラ方式で、「チティの遊び」としてそれを受け入れることを学ぶのである。何年ものち、この章で後でもう一度触れたいが、ババがヨーギ的、ヴェーダンタ的観点からカシミール・シヴァ派的観点に転じていることを私は理解するようになる。

 シヴァ派の賢人アビナヴァグプタは心と感覚に強制的に反することに関し、警告を与えている。

 わが尊い感覚器官は何度もアドバイスしてくれた。「人の感覚と器官の感情的役割は断続的な冷淡さ(「自身」が知られるとき)を通じてみずからを落ち着かせることである。しかし一方で、それが強いられているかぎり、逆の反応が引き出される傾向にあるのだ。

 「すべてはチティである」という言葉がわれわれに、受容することと宇宙の統一されたヴィジョンのことを教えてくれる。その至高の段階においてわれわれは全知全能の神の聖なるヴィジョンに浸ることができるだろう。