シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳
第1章 考古学を手がかりに
4 チベット高原南西部のイラン系民族
もっとも早く南下したのは、インド西北にたどりついたアーリア人である。その次のグループはアケメネス朝の頃、ペルシア帝国に編入された。
ダリウス1世のとき、インドにふたつの省が置かれた。ひとつは現在のシンド。もうひとつはヒンドゥクシ山脈からジェレム(Jhelem)地区にかけての地域で、ペシャワールやアトク(Attock)、ラワルピンディを含むガンダーラである。
つづいて大月氏がガンダーラに入った。西へ移動した大月氏は大夏(バクトリア)やソグディアナを征服し、それからインド西北へ移動し、貴霜部落によって統一し、帝国を建設した。そして交易路にも変化が生じた。
「このように、シルクを運ぶのに、カシュガルからパミール高原を越えて大夏に行くのなら、安息(パルティア)のメルヴを通る必要がなくなる。ヒンドゥクシ山脈の険しい道を登り、カイバル峠を越え、現代のラワルピンディから近いタキシラという大都市に出る。
あるいはインダス河に沿って絹の道を進むのであって、シリアを通る陸路で行くのではない。中国からチベットを通ってインドへ抜ける路線もあるのだ。
プトレマイオスも記している。中国(SeresとSinae)から石塔(パミール)を経て大夏に至る道だけが唯一の道ではない。もう一本はパリムポトラ(Palimpothra、すなわち Pataliputra、現在のパトナ)からインドへ至る道であると。
これは現在の甘粛からラサへ至るルートで、そのあとヒマラヤを越えてシッキムに抜け、パトナからガンジス河を下り、ローマ商人がつねに集まるバングラ湾の港にシルクを運んだ」(G・フランシス・ハドソン)
その後サカ人の統治者ヘルマイオス(前49年)とアゼス1世(前38年)が前後してガンダーラを治めた。
そしてクシャーナ帝国の著名な統治者ウェーマ・カドフィセースが紀元60年前後にガンダーラを征服する。
230年、サーサーン朝ペルシア帝国の創始者アルダシール・バーバクはガンダーラを征服し、自分の領土に編入した。
350−380年、シャプール2世はガンダーラを攻め、またその治下に収めた。
390年、クシャーナ朝系のキダーラ人(The Kidarites)がペルシアからガンダーラを奪った。
460−470年、白匈奴(エフタル)がガンダーラを占拠した。
これら東イラン語族の風俗習慣は似たり寄ったりで、ゾロアスター教を信仰し、鳥葬を行なった。ガンダーラ地区における考古学の発掘から、さまざまな様式の葬送が行なわれていたことがわかっているが、そのなかでも流行していたのがゾロアスター教の鳥葬だった。
「死体を荒野に置き、鳥獣が啄ばむがままにする。それから遺骸を墓の中に入れる」(アフマド・ハサン・ダーニー)
具体的には、まず古い墳墓を開け、すでに埋めていた遺骸を隅に寄せ、新しい死者の遺体の一部を入れる。
「古い墳墓を開ける葬送法からすると、彼らは同一族であることがわかる。ただし信仰には変化が発生し、葬送習俗にも変化が起きている。死体を野獣やハゲタカに食わせるのは、イランの古い習俗である。ゾロアスター教徒が現在までこの習俗を守っているのは、それが、人の最後の善行であり、喜捨と認識しているからだ」(ムハンマド・ヴァリウラ・ハーン)
ほかにも、チベットのどこでも発見されている巨石群が注目される。
「アソータ付近に、英語でCromlechとかStonehengeと呼ぶ巨石サークルがあった。この巨石サークルの直径は57フィート(17m)で、もともと高さが10フィート(3m)の巨石が32個あったが、現存するのは18個だけである。現存するものも、ほとんど破損してしまっている。巨石間の距離は、2と6分の1フィート(65cm)から4と3分の1フィート(1m30cm)までまちまちである。巨石はおおよそ内側に向かって傾斜している。
聳え立つ巨石または杖のことをアソータ、あるいはソータと呼ぶ。これにより、ここはアソータ巨石列石群(Asota Gromlech)と呼ばれるのである。
筆者の知るところでは、国内で、またインド・パキスタン亜大陸で、このような巨石サークルが見られるのはここだけである。
このほか付け加えるとするなら、カシミール・スリナガルの不規則な堆石がある。
これらのストーン・サークルの用途、目的は何なのだろうか。だれもその回答をすることができない。
しかし世界各地に似たストーン・サークルがあるのだ。たとえばイングランドのエイヴベリー(Avebury)やウィルトシャー郡(Wiltshire)のストーン・サークルは紀元前1800年から1500年頃とされる。これらと葬送は関係があるだろう。アソータのストーン・サークルも葬俗と関係があるかもしれない。
ただし筆者はその観点には賛成できない。筆者が見たところでは、太陽崇拝と関係のある太陽サークルである。一部の学者は同様の見方をする。巨石サークルの年代はおそらく仏教以前である。そうするとアーリア人到来以前の可能性も出てくる」
チベット西部で発見される巨石文化は、当然これらと深く関係してくる。それについてトゥッチは『西蔵考古』のなかでつぎのように述べる。
「われわれはチベットのじつに多くの遺跡で巨大な岩を見つけた。しれは群れをなしていることもあれば、単独の場合もあった。あるときは円を描き、あるときは四角であったり直線であったりした。一群の岩のなかに一つ、あるいは三つの石柱が立っていることがある。これらの石柱は手が加えられることはなく、自然の姿のままである。もしこのように三本の石柱が立っていたら、その真ん中の石柱は他の二本よりも高い。
たとえばチベットの僻地のプ(sPu)で見たこのような石柱では、毎年祭日になると人々が集まり祝った。またシャプゲディン(Shab dge sdings)の山上およびドタグゾン(Do btrag dzong)とサキャの間の路上には、直径2−3mの巨石群がサークルを成しているのを見ることができる。ある巨石は楕円であり、中間柱がある場合もない場合もある。
この巨石群は陵墓なのだろうか、それとも地域を分けるための目印なのだろうか。それともこれらを兼ね備えているのだろうか。
私は注意を払いながら、チベット西部のシデカル(gZhi sde mkhar)の高原を進んだ。マパム・ユムツォ湖岸のチウ(Byi’u)や僻地のガル・チャン(Gar byang)、ドタグツォンの巨石柱を見た」
「レーリヒはサガ村で灰色の巨石を発見した。巨石の周囲には白い石英の石柱があり、巨石の表面にはバターのあとがあったので、供え物が捧げられたことがわかった。タンラ・ユムツォ湖(Dan rwa yu mtsho)付近でも彼は巨石の複合体を発見している。それは石板が四角形の方陣で立石のまわりに挿された巨石複合体である。その付近には陵墓があった。やはり石板が四角形の方陣でまわりを囲っている。石は東から西へ並び、東の端には巨石が立っていた。あたかも遺体の頭が東を向いていることを表明しているかのようだった。
レーリヒはこの墓葬の時期を巨石時代とした」
既述したことと考え合わせると、チベット西部の巨石文化は太陽崇拝をする民族とあきらかに関係がある。アーリア人の後裔であるダルド人の文化は、これらの文化の延長線上にあるといえるだろう。
原始的なアーリア民族の共通する文化的特徴が長期にわたって存在したため、古代においてイラン人とインド人の間で風俗習慣をめぐって争いが起こるということはなかった。ふたつのペルシア帝国は広大なインド西北を支配下に置き、ゾロアスター教を核とする文化の影響にさらされ、チベットの西部、西北部がいかにペルシア文化の影響を受けてきたか、理解するのは難しいことではない。
英国の学者チャールズ・エリオットは言う。
「ヴェーダの神々と古代ペルシアの神話とは、きわめて密接な間柄にある。インド人とイラン人の祖先はおなじような宗教を持ち、同一の儀式さえあったことは疑う余地がない。彼らの信仰はどちらも、拝火教とスモ祭礼(護摩儀式ともいう)をその主要な特質としているのだ。
アーリア人、サカ人移動とふたつのペルシア帝国の文化の広範囲にわたる影響のもと、中央アジアの広大な地域の宗教文化は形成され、似たものとなった。このことに関し、旧ソ連の学者は結論づける。
「中世のはじめ、すなわち5−8世紀、中央アジアの大河間の地域において、その文化・芸術の水準と特徴はほぼ同一のものとなった。古代メルヴ地区と七河地域はあきらかに影響力を生み出していた。各地区の芸術の傾向を抽出し、強大で整った芸術潮流を創り出した。同時にそれぞれの特徴も維持していた。古代中央アジアの芸術は、各国の特性の影響を受けただけでなく、周辺の各国に影響を及ぼしつづけた」(スタヴィスキー)
チベットは中央アジアの芸術の肥沃な土壌であり、その影響範囲のなかにあった。そのため中央アジア史からチベット史を見直す動きが出ているのである。
R・スタンは言う。チベット西部がチベット文明に与えた影響ははかりしれない。そこはガンダーラやウッディヤーナ(スワート)と接し、そこを通してギリシアやイラン、インドといった文明の成分がチベットに伝達されたのである。