シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳
第2章 シャンシュン及びその位置
1 中国の史書における羊同
羊同(ヤントン)は隋代から唐代にかけて、チベット高原北西部にあった部落国家で、唐太宗の貞観五年(631)十二月に唐への使節派遣を開始した。十五年(641)、唐朝が隆盛を誇るのを聞き、羊同は使節を送って朝貢した。太宗はその遠来の客を喜び、礼を厚くして迎えた。
これによりその風俗や物産が中国の史書に記されることとなった。羊同には大羊同と小羊同があったが、使節を送ったのは前者だった。中国の史書に多く記載されているのは大羊同の記事だった。
『通典』は言う。
「大羊同は東に吐蕃と接し、西に小羊同と接し、北にウテン(ホータン)と接す。東西千余里、勝兵八、九万人。その人といえば、ぼさぼさの髪をして毛皮の衣を着、牧畜を業とする。その地は雪や霜が多く、氷が厚く丈余にも及ぶ。物産は蕃族と同じ。文字はなく、木を刻み縄を結ぶのみ。刑法は峻厳である。酋長が死ねば、その脳をえぐり、珠玉をもってうめ、五臓を取り出し、黄金をあて、金の鼻、銀の歯を作り、人を殉死させる。占って吉日を選び、岩穴に蔵す。場所は他人にはわからない。ヤク、羊、馬を殺して祭祀を行い、喪が明ける。王の姓は姜葛で、四人の大臣に国事を掌らせている。いにしえより通じていなかったが、大唐貞観十五年、使節を送って来朝した」
『太平御覧』「大羊同国条」や『唐会要』「大羊同国」などの書にも類似の記載がある。ただし大、小羊同国の地理、位置に関してはいまだ決着をみていない。
羊同の方位に関しては、唐代の僧道宣の『釈迦方志』が記している。
吐蕃に入る道を「南へ、そして少し東へ行くと、吐蕃国に達する。また西南へ行くと小羊同国に達する。また西南へ行き旦倉の法関に至ると、吐蕃の南境である」
また『新唐書』「吐蕃伝」には、劉元鼎が西へ行き吐蕃に入るとき、「いわく紫山、大羊同国に直す、古の崑崙なり。また悶摩黎という。長安より三千里」
悶摩黎はチベット語のンゴン・モ・リ(sNgon mo ri)で青山、紫山といった意味である。元代よりモンゴル軍が青海に進駐し、明清の時期にはモンゴル・ホショート部がチベット高原に定住していたので、紫山も新しい名称を得た。それが巴顔喀拉(バヤンハル)山である。
このように小羊同はツァン地方、現在のシガツェ地方にあったようである。一方大羊同はチベット北部からチベット高原にかけての広大な地域に広がっていた。すなわち現在の阿里から青海省玉樹チベット自治州の結古(ジェク)と果洛(ゴロク)チベット自治州の瑪多(マト)にかけての地域である。小羊同がツァン地方にあったのは、あらたに発見された唐代の碑銘によって確認された。
1990年6月、チベット自治区吉隆(キーロン)県で唐代の碑が発見された。碑には「大唐天竺使出銘」という文字が刻まれていた。また唐代の貞観(627−649)顕慶(656−661)という年号も記されていた。この時期、王玄策が何度もインドへ朝廷の使者として派遣されたのは史実である。
「夏五月、小楊童(羊同)の西にいたる」という一段もあった。王玄策がインドへ向かう途中、キーロンに立ち寄ったのは疑う余地がない。小羊同がツァン地方にあったとする説の根拠となりうる。もし紫山が大羊同国にあるという記述が正しければ、『通典』や『唐会要』が、小羊同は大羊同の西にあるという記述はまったくのでたらめではないということになる。もちろん正確には南西ということになるのだが。
とはいえ大羊同がそんなにも広大な国であったとは考えにくい。『唐会要』にいわく、
「貞観末期に至り、吐蕃が(大羊同を)滅ぼすと、遺民はいくつにも分かれ、間隙に散らばっていった」
大羊同はそれでも強大な勢力を持っていたが、吐蕃王朝を脅かすほどの力を取り戻すことは二度となかった。
唐代の有名な僧玄奘は著書『大唐西域記』のなかで、蘇伐剌拿衢旦羅国(金氏)という女国がインド北部の雪山中にあり「黄金を出すがゆえ、そう名づけられる。東西に長く、南北に短い、すなわち東女国なり。世々女をもって王とする。夫もまた王としたが、まつりごとは知らず、ただ戦ったり、種まきをしたりした。土がよければ麦を育て、多くの場合羊や馬を飼った。気候は寒さが激しく、人も粗暴である。東は吐蕃と接し、北はホータンと接し、西は三波訶と接した」
道宣の『釈迦方志』にも女国のことが言及されている。東女国は「インドにあらず。またの名を大羊同国という」
大羊同国と東女国は同一とみなしているのだ。
学界では中国の史書上の羊同についての研究を進めているが、なお意見の一致を見ていない。国外でもっとも早く羊同について紹介したのはS・W・ブシェルだろう。漢文史書を根拠に、ブシェルは羊同の位置をホータン以南の高原地帯とした。
このあとA・ヘルマンが中央アジアの地名を列挙し、羊同はチベット東部だと結論づけた。
日本の藤田豊八は『慧超伝』注釈で『釈迦方志』の説を受け入れ、大羊同国と女国を同一とみなし、ラダックに羊同国があるとした。
P・ペリオはまた、大羊同を黄河源流の近く、小羊同を大羊同の西に位置づけ、吐蕃西南をその属国と考えた。
トゥッチは蘇伐剌拿衢旦羅国(スヴァルナゴートラ 金地)すなわち東女国をチベット史書中のシャンシュンと同一だと認めた。あるいはシャンシュンが羊同を含むか、逆に羊同の一部かもしれないが、彼はこの三者を同じだと考えた。
張kun(王ヘンに昆)はこの説に反対だった。彼は9世紀、民族移動によって、シャンシュンはチベット北部と北東部からチベットの南部と南西部に移ったのだと主張した。彼は大・小羊同を下シャンシュン・上シャンシュンに比定したが、学界内でも一定の支持を得た。
佐藤長はツァン地方が羊同にあたると考えたが、のちに修正した。すなわち大羊同が下シャンシュンで、いまのグゲ地区、小羊同がはじめマンガル、そしてラツェ、のちにマユル峠(マユム峠)に移ったが、吐蕃によって滅ぼされ、ティソン・デツェン王のとき上シャンシュンを指すようになったと。 山口瑞鳳は佐藤長説に同意せず、羊同はツァン地方ではなくシャンシュンだと認めた。これらの研究者の主張はさまざまだが、一致する点は、漢文史書中の羊同はすなわちチベット文献のシャンシュンであり、大・小羊同は上・下羊同と関係があるということだ。
「大唐天竺使出銘」の発見は、唐代の高僧の記録などを参考にすれば、小羊同の位置を特定するのは難しくない。『釈迦方志』の記す唐・吐蕃古道は多弥、蘇pi(田ヘンに比)、敢国、吐蕃国を経過し、「西南に行き、小羊同国に至る。また西南に行き、旦倉の法関を経て吐蕃南境に至る。また東へ、そして少し南へ進み、三鼻関から東南の谷に入る。十三の飛梯、十九の桟道を進む。また東南、西南へと行き、葛や藤の森を四十日余進む。そして北インドのネパール国にたどり着く。この国土は吐蕃から九千里なり」
吐蕃国は自然と現在のラサだと理解されるだろう。そして旦倉法関は前述のようにキーロン県ゾンガである。元代はタツァン・ゾンガ、清代はゾンガと呼ばれた。その地は県城の南に位置する。碑銘中の小楊童と同一であることから、小羊同国は現在のシガツェ地区と確定できるだろう。大羊同国は小羊同国の北、あるいは西なので、現在の阿里地区とみなしてさしつかえないだろう。隆盛時にはかなりの広大な領地を誇っていた。
史書が言う「東は吐蕃、西(西南)は小羊同、北はホータンに接し、東西千里、勝兵八、九万」が正しいなら、その中核地帯は現在の阿里グゲ一帯となるだろう。西へ行けばラダック、バルチスタンなどをコントロールしなければならないほど、広大だった。
8世紀の20年代、唐の新羅僧慧超(恵超)がインドから経典を持ち帰り、『往五天竺国伝』を撰した。文中に慧超は記した。
「カシミール国から北東へ山を越えて十五日ほどのところに、大勃律国、楊同国、娑播慈国がある。この三国は吐蕃の支配下にあるが、衣や言語はまた違っている。土地は狭く、山や川は険しい。寺があり、僧がいて、三宝を信じ敬う。もし東へ進んで吐蕃に至ったならば、寺はなく、仏法を知らず、土地の神が信じられている」
楊同国はカシミールから北東へ十五日の距離で、大勃律国や娑播慈国と接しているという。
「大勃律、あるいは布露(訳注 ボロール)、吐蕃の西にあり、小勃律と接し、西は北天竺の烏場国(訳注 ウジャン、すなわちウディヤーナ、現在のスワート)と接している」
これは吐蕃が羊同を併呑したあとの状況である。大勃律は現在のバルチスタンであり、娑播慈国はラダックのレーの西方、サポルツェ(Sa spo rtse)に名を残している。大羊同国はそれより東にあったということになる。