シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳
第2章 シャンシュン及びその位置
3 チベット文献中のシャンシュン
チベットの史書を参考にすることによって、シャンシュン国の位置をより明確に認識することができる。シャンシュンの歴史に関するもっとも古いチベット語の文献は、敦煌文書中のP・T・1286号文書「小邦邦伯家臣およびツェンポ世系」のなかの「ダルパの王、リニャシュル(dar pa’i rje bo Lig snya shur)をシャンシュンの王とする。キュンポ・ラサンジェ(Khyung po ra sang rje)とトンロム・マツェ(sTong lom ma tse)を家臣とする」というものだ。
P・T・1288号文書の「大事紀年」はソンツェン・ガムポがシャンシュンを滅ぼし併呑したことを記したもの。「……王妃文成公主はガル・トンツェン・ユルソンによって吐蕃に迎えられた。こののち三年、ティソン・ツェンの世に、リニャシュルを滅ぼした。一切シャンシュン部落は等しく治下に編入された」
P・T・1287号文書の「ツェンポ伝記」に詳細が記されている。ソンツェン・ガムポ王のとき、シャンシュンと婚姻関係を結んだ。王の妹セマカルがシャンシュン王リミシャのもとに嫁いだのである。その一方でシャンシュンとの交戦がはじまっていた。当時王の妹は王の寵愛を失っていた。彼女はおおいに不満を感じ、内務をこなさず、子どもの養育も放棄し、遊びまわっていた。ソンツェン・ガムポは使者をやって彼女に忠告した。いまはリミシャのために内務に励み、子どもの養育もきちんとせよ、と。時期が熟したとき、シャンシュンを滅ぼすことができるというのだ。このことは、上述の文書の記述と一致する。
興味深いのは、この文中でセマカルがいた場所がキュンルンであること、また彼女が遊んだ場所がツォ・マパン(マパム・ユムツォ、あるいはマナサロワール湖)であることだ。後者は多言を要すまでもなく、古今に名を馳せた湖である。前者は疑いなく、シャンシュンの王城であり、マパム・ユムツォからそう遠くない。その地名はいまも残り、北緯31度04分、東経80度33分の阿里札達(ツァンダ)県のチュンロン(チュロン)郷チュンロン村一帯である。言い換えれば、シャンシュン王国の都城は、阿里地区ツァンダ県とプラン県の間にあった。そこはまた象泉河(ランチェン・ツァンポ)の上流だった。
またチベットの古書『五部遺教』によれば、シャンシュンの東の吐蕃との境界はマパム・ユムツォだった。このことはシャンシュンの東南部における前線を反映しているだろう。これらから現在の阿里地区獅泉河(センゲ・ツァンポ)と象泉河(ランチェン・ツァンポ)流域がシャンシュン国の中心と考えて間違いない。
『智者喜宴』によれば、吐蕃王朝支配下には5翼(ル)61千戸部落(トンデ)があり、そのなかには征服され、吐蕃領となった10のシャンシュンの千戸部落(トンデ)が含まれていた。それらは吐蕃と突厥の境目にあった上シャンシュンの5つの千戸部落と、吐蕃とスムパの境目にあった下シャンシュンの5つの千戸部落だった。
上シャンシュン(Zhang zhung stod)の5つは、オチョ(’O co)マンマ(Mang ma)ニェマ(gNye ma)ツァモ(tsa mo)バガ(Ba ga)、下シャンシュン(Zhang zhung smad)の5つは、グゲ(Gu ge)チョグラ(Cog la)ジツァン(sPyi gtsang)ヤルツァン(Yar gtsang)チデ(Ci de)である。
シャンシュンの10の千戸部落の位置に関しては、まだ確定にはいたっていない。ただその上下の区分は、突厥に近いか、スムパに近いかを表しているようだ。そうすると上シャンシュンは阿里地区西部のルトクなどの北地区、カシミール、グゲ、プランなどの地域を含むだろう。一方下シャンシュンはマユム峠より東、ヤルツァンポ川中上流、すなわち現在のシガツェ地区ということになる。
大羊同国の北西は突厥と接し、東南はスムパと接していた。この突厥(チベット語でGru gu)は中央アジアの西突厥を指していた。8世紀20年代、インドへ取経の旅に出た唐代の新羅僧慧超は、途中、ガンダーラ国に寄ったとき、その王と兵士は突厥人だったという。ガンダーラは現在のカブール川下流域にあり、パンジャブより北のペシャワールとラワルピンディ地区を含んでいた。その都城はプルサプラ(Purusapura)、すなわちカシミールであり、上シャンシュンの一部だった。
『智者喜宴』が示す位置関係はつぎのようになる。西から東に向かって、西突厥、上シャンシュン、下シャンシュン、スムパ。突厥に関してそれほど賛同者が多いわけではないが、現在の新疆ウィグル自治区やチベット北部は広い意味での西部となるだろう。
チベット語と漢文の史書におけるシャンシュンの位置はほぼ一致している。すなわち吐蕃の北西部、現在のチベット自治区阿里地区である。その西側は中央アジアと接している。チベット史によれば、上シャンシュンは現在のカシミール地区にあった。これらは古代、ペルシア帝国と接し、その影響下にあった。
シャンシュンの位置を理解すると、チベット語のボン教文献を無視することができなくなる。ボン教文献の伝統的な考え方では、シャンシュンは三つに区分される。すなわち内シャンシュン(Zhang zhung phug pa)中シャンシュン(Zhang zhung bar ba)外シャンシュン(Zhang zhung sgo ba)である。
ケサン・タンベ・ギェルツェンの『世界地理概説』は言う。
「内シャンシュンはティセ(カイラス山)の西三ヶ月の旅程のパルシ(Par zig)バダクシャン(Bha dag shan)とバラ(Bha lag)一帯である。ここにギェルバ・ニェツァル城(rGyal ba mnyes tshal)の遺構があり、そのなかの山の上に、密教仏が自然に形成されたものがあった。ミル・サムレク(Mi lus bsam legs)はここにギェルカル・バチョク城(rGyal mkhar ba chog)を建てた。ここで修行を積み霊験が現れ、人体ほどの大きさの岩が空中に浮かび、落ちることがなかった。のち人々は土石を用いて土台を築き、巨石を半ば空中にとどめた。この土地には大小32の部族があったが、外部から侵入した部族に占領されてしまった。
中シャンシュンはティセ(カイラス山)の西一日ほどの旅程の外で、テンパ・ナムカ(Dran pa nam mkha')が修行したキュンルンがある。ここはシャンシュン王国の都城である。かつてシャンシュン18国が統治していた。ボン教文化史上有名な四賢人ドゥ氏、シュ氏、パ氏、メウ氏(Bru Zhu sPa rMevu)もここで誕生した。さらに後期ボン教の祖師シェラブ・ギェルツェン(Shes rab rgyal mtshan)や賢者たちもここの岩窟で修行した。この地は東で吐蕃と接していたため、吐蕃人の管轄化に置かれるようになった。
外シャンシュンはキュンポ六峰山(Khyung po ri rtse drung)を中心とする地域。スムパ・ギムシュー(Sum pa gyim shod)とも言い、39部族やギャ25部族(rgya sde nyer lnga 25の漢人部落?)を含む。これは現在のアムド上部地区(mDo stod)であり、大部分がボン教徒である。キュンポ・センチェン(Khyung po seng chen)パルツァン寺(sPar tshang dgon)などの寺や修行の岩窟などがある」
上述のPar zigはペルシア、Bha dag shanはBadakshanで、『魏書』や『北史』では弗敵沙、『大唐西域記』は鉢鐸創那、『新唐書』「地理志」は抜特山、慧超『往五天竺国伝』には蒲特山と表記されているが、アフガニスタン北方の境界にあるバダクシャン省のことである。
Bha lagはおそらく現在のウズベキスタンのブハラで、隋・唐代の史書の安国、あるいは布豁(ブフア)や捕喝と表記される。阿濫謐城、すなわち康居小君長の○王の故地である。元・明代の史書は卜哈児、不花刺などと呼んだ。バダクシャンはさほど遠くなく、西は今のイランに接し、名城と称された。
中シャンシュンは都城がある中心部である。ティセ(カイラス山)から一日の旅程のところにあり、現在の阿里地区のランチェン・ツァンポ上流域である。
以上の引用からわかるように、ボン教の文献中のシャンシュンはきわめて大きく、ペルシアやアフガニスタンのバダクシャン、さらにはウズベキスタンのブハラまでをも含み、外シャンシュンのスムパも領土としている。ところが中心(中シャンシュン)となると、阿里地区のサンゲ・ツァンポとランチェン・ツァンポ両河の流域にすぎない。重要なのは、ティセ(カイラス山)から西へ一日のキュンルンが都であることだ。それは上述のごとく、阿里地区のツァンダ県とプラン県の中間にあるチュンロンのことである。
ペルシアをシャンシュンの版図に含めるのは合意的でないし、スムパを入れるのも一方的すぎるだろう。とはいえ一笑に付すような類のものではない。それどころか彼らなりの根拠もあるのだ。ボン教文化が及んだ範囲を考えるとき、一般的な政治勢力や行政地理概念とはまったく違うことを念頭に置かねばならない。シャンシュンはボン教でもって知られ、ボン教文献のなかにあるのであり、よってシャンシュンはボン教文化の代名詞なのである。当然そのなかにはシャンシュンの政治の影響や領域がからんでくる。東部のスムパや西のペルシア、バダクシャン等も例外ではない。
伝説によれば、シャンシュンは外区、内区、
外区はつまりツァン地区である。西は勃律から東はタンラ・ユンゾン(Dang ra khyung rdzong)やナムツォ付近、北はホータン、南はチュミ・ヒェチュツァニ(Chu mig brgyad cu rtsa gnyis)までを含む。
内区は大食(タジク)、
我々がわかってきたことは、シャンシュンはツァンを包括し、ひとつの独立国であり、キュンルン銀城を都としていたことだ。7世紀にはリミシャという国王がいて、妻セマカルは吐蕃王の妹であった。この国はおそらくソンツェン・ガムポ王によって併呑され、チベットの一部となった。
シャンシュンは併呑されてから、チベット化が進んだ。同時にタジク(イラン)勃律(ギルギット)リユル(ホータン)やその他中央アジアの国々の影響を受け、とくに初期、チベット文化の発展に寄与することになった。その文化や言語はチベット文化やチベット語に溶け込んでしまった。宗教もまた溶け込んだのではないかと推測される。シャンシュン人がもっとも信仰する神、クラ・ゲク(sKu bla Ge khod)はティセ(カイラス山)の頂上がその居城である。
これらのことから、シャンシュンは地理上ペルシアと接していただけでなく、ある程度以上、包容したり、交錯したりした関係にあったといえるだろう。